2023年8月16日水曜日

自己正当化と洗脳について

                                         自己正当化と洗脳について

 

 現代世界において人口の8割以上の人がマネーに支配されていて、かつ学歴主義により洗脳されている。マネーに支配されるとはどういうことかというと、金さえあれば楽して(横柄に振舞って、他人を人間扱いしなくても)幸せになれるという思想に洗脳されるということである。学歴主義による洗脳とは、高学歴者はどんな仕事をやっても低学歴者に比べて、段違いの作業量と高い質の仕事ができるから、たとえ同一労働であっても賃金に極めて高い格差があって当然という洗脳を受け入れるということである。

 金がすべてという思想はそれに洗脳された人たちに合法的に許されたあらゆる手段を使って他者から金を奪い取ろうとさせ、その結果そういう人たちは戦争に肯定的である。また金がすべてという思想は自由競争を積極的に奨励し、社会から連帯感や助け合いを排除しようとする。先進国の高学歴者が高い賃金をもらうのは決して低学歴者や発展途上国の人たちを搾取しているからではなく、完全に能力に応じた取り分であるという思想も、先進国の青少年に同年代の他者を蹴落としてなんとしてでもいい大学に行こうとさせる。

 つまりどちらの思想もこの世界は基本的に奪い合いのゼロサムゲームだという世界観をもっている。つまりどちらの思想も他者に対する強い敵意を前提としている。またどちらの思想も99%の人を不幸にするのは自明だが、みんながマネーに支配され、学歴主義に洗脳されるとほとんどみんなで大した話し合い、議論をしなくても社会を維持しやすいので、合理的で納得感がある公正な思想であるとして多くの被害者意識に凝り固まった人たちに支持されている。

 またマネーに支配された者も学歴主義者に洗脳された者も人を富んでいるか否か、高学歴か否かという点だけで判断し、人の精神性や道徳性の高低などの価値基準で判断することに価値を置かなくなる。

これらのことにより現代世界は、表面を覆っている偽善を一枚はがせば地獄のようになっている。一例をあげれば労働の苦しみとは最大の部分は現代においては上司や同僚などとの人間関係から生じているのだが、それはみんながマネーに支配されていることが原因であることがあげられる。上司や同僚、自分自身もみんなマネーに支配されていて、何としてでもお互いに使いつぶそうとしながら相手に接する。その結果、他人への圧倒的敵意や悪意が充満する職場の中でみんなが働かなければいけないのが現代の労働の苦しみなのである。 

 なぜこんなにも多くの人たちがマネーの支配を受け入れたり、学歴主義の洗脳をこうもまともに受けてしまうのかというと、自らの自己愛(幸せになりたいという気持ち)、恐怖心(不幸になりたくないという気持ち)を自己正当化しようしてしまうことに最大の原因がある。

 発展途上国の子供たちが苦しみぬいて餓死していく光景を見て見ぬふりをする自分、自分の元同級生だったシングルマザーが苦境にあえいでいるのを見て見ぬふりをする血も涙もない自分を正当化しようとするとき、卑賤な人はいつも自分と自分の家族を守るためには致し方ないと思い込もうとする。つまり自己愛(自分が幸せになりたいという気持ち)や差別愛を正義や思いやり(無差別愛)や共同体感覚、連帯よりもずっと価値があるものだと卑賤な自分に信じ込ませようとする。その自己愛や差別愛という醜く大して価値のないものを正しく大変価値のあるものだと無理に確信しよう、自己正当化しようとして、その補強材料としてそれを自己愛と表裏一体である他人への敵意を前提とするある種合理的なマネーや学歴といった俗世間が価値を認める基準、思想に自ら進んで服従、洗脳されにいっているのである。

 また大我の論理(みんなの幸せを考えて生きていこうという思いが基盤にある論理)を無視して小我の論理(ともかく自分と自分の家族だけは幸せにしたい、不幸にしたくないという思いが基盤にある論理)だけで生きれば、大慈悲と死の恐怖という二つの本源感情の矛盾に引き裂かれて苦悩しなくて、楽に生きられるからという理由もマネーの支配や学歴主義の洗脳を受け入れる極めて大きな理由である。

 つまり個々人は二つの論理、二つの本源感情に苦悩しながら、かつ明るく温かいなごやかな社会を作るために色々面倒くさい行動を必要とする人生よりも、暗く冷たい地獄のような社会を作ることは分かっていてもともかく自己愛(死の恐怖)だけに基づく損得勘定という一つの論理で生きる人生(合理的人生)、つまり個々人としては何も苦悩する必要も、加害者意識を持つ必要もなく生存本能に従って自分の利の追求以外ほとんど何も考えずにいきていればいい楽な人生を選んでしまう心がマネーの支配と学歴主義の洗脳を受け入れてしまうということでもある。

 確かに今までは自由人として苦悩しながら生きるより、奴隷的に恐怖に怯え、自分の利だけにさとくなって生きようとするほうが、近代という合理的で(小我の論理という一つの論理だけで構成されている)暗く冷たい他人への敵意に満ちた社会に適応していたということもできたかもしれない。だが、来るべき世界的スタグフレーションによって所有するマネーの最大化競争から実物収益資産の評価額最大化競争に変わる世界においては、上司や同僚とお互いに敵意と悪意を持って相手を使い捨てよう、使いつぶそうとしあうのではなく、お互い仲間意識と善意を持って知っていることを教えあい、助け合いながら、切磋琢磨するほうが大局的に見て得策となる。そのことにより労働が心理的にずっと楽になり、過半数の人が明るく温かいなごやかな世界を作るために自己正当化をやめ、二つの論理を使って面倒くさく生きることを、二つの論理を使って苦悩しながら生きることを厭わない心の余裕を持てる可能性が出てきた。

つまり死に対する恐怖という一つの論理による洗脳(一つの論理による思想による支配)から解放されることによって、思考にかかっていたリミッターがはずれ、二つの相矛盾する論理をいつも統合しようと苦悩することにより、大局観という智を持てる可能性が出てきたということである。

 その結果、人類の過半数がマネーと学歴主義の洗脳から解放されることのよって思考にかかっていたリミッターがはずれ、他者への思いやり(無差別愛)を捨てずに世界を見れるようになり、今までは一部の賢者しか持てなかった大局観という智を民衆が持てるようになるかもしれない。何か大きな問題にぶつかった時に、大局観という智を使って全体像を把握し、自分のためにと思ってやったことが他人のためになり、他人のためにと思ってやったことが自分のためになる、そういう解決策を見出せるようになり、もう一度、今度こそは本当に、古の昔に捨てられた中庸と正義という美徳を愛せるようになれるかもしれないということである。