2023年11月13日月曜日

小我の克服としての加害者意識とスタグフレーションの克服、マネーの支配の克服のための連帯

 

小我の克服としての加害者意識とスタグフレーションの克服、マネーの支配の克服のための連帯

どんなに自分の命を大切にして守ろう守ろうとしても人は絶対いつかは死んでしまう。どんなにお金を稼ぐことに精力を費やして実際お金持ちになったしても、死んだらお金はあの世には持っていけない。そういうふうに考えると、もしあの世があるならば現世を重んじて生きることは馬鹿げたことであるし、あの世の存在を信じないとしても、自分の生まれてから死ぬまでの総体としての人生を価値有らしめようとするならば、命やお金を過剰に愛するのは愚かなことである。

結局、命やお金に執着するということは、今現在の自我が無意識下で死に対する恐怖に支配されていることを端的に示しているに過ぎない。死に対する恐怖にものすごく怯えていて、その恐怖からなんとか逃れようとするため、その恐怖をなんとか一瞬でも解消しようとするため、命やお金に執着しているに過ぎないということである。

理性的に考えれば死に対する恐怖は、死んだ後の世界、今生きているこの世界の外側の世界がどうなっているのか分からなければ決して解消されないし、それがどうなっているのか人間が理性的に理解することは不可能である。つまり死に対する恐怖の解消方法を理性的に考えても現世では決して答えは見つからないので、あきらめることが理性的には正解なのだが、愚者はともかく金があれば死の恐怖から当面の間は逃れられると本気で信じて、一生を通じて命を守り、金を稼ぐことだけに集中するその非理性的でかつ卑賤なところが彼らが救われないところなのである。

確かに死に対する恐怖は基本的には宗教的道徳的な感情を持ってあの世の存在を確信しなければ解消できないが、現世的な加害者意識を強く持つことでもある程度は死に対する恐怖は解消できる。自分の命は日々数々の生物の犠牲の上に成り立っていること、先進国の豊かな生活が発展途上国への激烈な搾取によって成り立っていることを一日一回は思い出せば、この地獄のような世界で長生きしたいなどとはあまり思わなくなるということである。つまり通俗的な人にとっては加害者意識をきちんと持って自分を軽く扱うことが死に対する恐怖に支配されない唯一の方法なのである。

また加害者意識をきちんと持っていれば、友を大切にし、この世界をより良くしたいという理想を捨てないで生きていけ、実際に自分の人生をこの世をよりよくするために費やすので、その人の総体としての人生は客観的に見て価値のあるものとなる。また理想を捨てずに生きる人は必ずどんな逆境下においても自暴自棄、セルフネグレクトせず、自分の人生の主導権を離さず、自分の人生を自分でコントロールしようという意志を離さない人なので、困難や不幸に見舞われても何度でも立ち上がる強靭性を持っていて逆説的にあまり不幸になりにくい。

また被害者意識に凝り固まった人は自由、恋愛を愛し、世間への感謝という言葉を好む。一見するとそれは明るく、ある種の美徳のように感じるかもしれないが、自由や恋愛を謳歌することも世間への感謝をすることも他人の不幸は見て見ぬふりをすることという前提の上に立たないと成り立たない。また自由や恋愛を謳歌するには暇と金と若さが必要なので、自由や恋愛を謳歌しようとする人は必ず自分の余暇と金を手に入れるために弱者から搾取することを肯定するし、みんなのためによりよい世界を作ろうなどと言う真面目なことは金輪際考えない人であろう。

結局突き詰めて考えれば、自由も恋愛も世間への感謝も自分と自分の身近な人たちだけが幸せなら他の人たちがどんなに不幸でも、それでいいという差別愛の結晶化した悪徳なのである。また差別愛に凝り固まった人、自分と自分の身近な人だけの幸せを願う人はこの世界及び赤の他人と自分とは利益相反関係にあると確信している人である。つまり差別愛に凝り固まった人は赤の他人に接するときに自分の身の安全が保障されているなら必ず相手に損害を与え、極めて不快な思いをさせてやろうと思う人である。要するに差別愛に凝り固まるということは赤の他人への敵意に凝り固まるということと表裏一体なことなのである。

みんながこのように被害者意識に凝り固まり、差別愛に凝り固まる社会がどういう風になるかというと多くの民主主義先進国がそうであるように、社会がアノミー(無連帯、混沌)状態になる。

社会がアノミーになると、自由競争至上主義が煽られるから人類の不幸の源であるマネーによる支配がより強固になる。またこれから始まるスタグフレーションを克服するための絶対必要条件としての連帯が出来なくなるのでアノミーはなんとしてでも克服しなければならない。

アノミーというものは確かに人々がみな被害者意識に凝り固まることにより、また差別愛に凝り固まることにより生じるのであるが、なぜそうもみなが被害者意識、差別愛に凝り固まりやすいかというと、アングロサクソンによる分断統治や他人の不幸を見て見ぬふりをする個人主義の蔓延、またグローバリゼーションやデフレによる自由競争(つぶしあい)の激化やポストモダニズムの蔓延(善悪は相対的なものだからそれらを行動基準とせず損得勘定だけを大切にしろという思想、要するに功利至上主義)などがより人の業をより煽っている側面が多大にある。

また今後資本家が計画しているとされるベーシックインカムは、労働者に不労所得で得た札束で他の労働者の頬をはたく喜びを得させることによって、自分の所有する実物収益資産を支えてくれている他の労働者を軽んじさせ、かつ労働者同士を対立させ、それによって労働者同士の連帯感を崩し、結局労働者をマネーに支配されやすくするものなのでなんとしてでも阻止しなければならない。

 

そのため現代社会が連帯感を回復させるために、個々人が無抑制な自由を愛する社会を築くことを目的とするのではなく、みんながマネーの支配から解放された和やかな社会を築くことを目的とし、自由競争(つぶしあい)よりも各自がおのおの共同体感覚を持って相互互恵を大切にしようと思うことが肝要となる。(切磋琢磨という競争はお互いを尊敬、尊重しあうためにはもちろん必要ではあるが、基本は協力が大切ということ)、またお互いに信頼するために腹を割って話す場を作り、各々の損得勘定だけで動くのではなく、社会をよりよくするために各自が全体の利を考えて行動することが必要となる。なぜ功利至上主義が悪いのかというと功利至上主義は長期的利を考えて行動すること、全体の利を考えて行動することを不可能にするからである。つまりもしみんなが損得勘定から連帯して働いて長期的利、全体の利を最大化しようとすると、かならず短期的損得勘定および個人的損得勘定からそれに寄生し、ただ乗りしようとする人がでてくるが、功利主義の論理からその寄生虫、フリーライダーの行動を非難することは絶対できないからである。長期的利、全体の利をみんなで追求するにはやはりどうしても連帯感とその連帯感を壊して利を得ようとする裏切者は悪であるという善悪の価値観が必要なのである。

またみんなが各自共同体のために少しずつ損することがが社会のゆとりの本質であり、ゆとりのある社会、譲り合いのある社会が結局みんなが求めている和やかな心地よい社会なのであるという真理を各自が十二分に理解しておくことが必要となる。

結局、現代社会が連帯感、共同体感覚を取り戻すためにはみんながお互いに誠意をもって相手に接することが必要となる。損得勘定から来る猜疑心をいったん置いて、他人に誠意をもって接するためには胆力(恐怖心に支配されない心)がなければならない。胆力を持った人間になるには自尊心を持っていなければならない。この弱肉強食の地獄のような世界で自尊心を持ち続けて生きるには弱者への同情、きちんとした加害者意識を持っていることが必要となる。なぜなら加害者意識がなければ、必ず人は自己正当化して卑怯、卑賤になってしまい、その結果自分に誇りが持てなくなってしまうからである。

つまりみんなが現状に感謝するよりも生きていることに対する罪悪感、加害者意識を大切にし、自由な社会よりも和やかな社会を望み、恋愛よりも友情を大切にするようになれば、現代社会に連帯を取り戻せるようになるともいえる。

現代の大多数の人は加害者意識を薄暗いどこか不幸の匂いのする感情として忌み嫌う。確かに加害者意識という感情は陰陽で見れば陰の感情であるが、加害者意識こそが我々の無意識下になる大慈悲、無差別愛という至高の陽の感情が純度100%で裏返しにして意識上に現れた感情なのであり、私たちを美しく生きさせる原動力となり、結局私たちを真の幸せに導くものなのである。そしてまたきちんと加害者意識を持ちつづける心が、アフリカの子供たちやこの世界で虐げられた名も知れぬ多くの子供たちが少しでも幸せになれるなら多少自分が損をしてもいいと思わせ、その気持ちがこの世界にゆとりを与え、この社会に連帯を取り戻させる力となるのである。

結局、人々が各自ばらばらに個人的幸福を追求し、自分にとって居心地のいい社会を作ろうとして暗く冷たい地獄のような社会を作るのではなく、みんながマネーの支配からの解放を追求し、加害者意識で自分を律しながら、つまり全員が各自自分の利を最大化しようとするのではなく、各自一歩ずつ譲ることにより連帯するために必要なゆとりを作り出し、みんなにとって居心地のいい社会、明るく和やかな社会を作ろうと思うことが真の自由社会を作ることなのだという真理に気づくことがアノミーを克服し、アノミーを克服することがマネーの支配とスタグフレーションを克服する必要条件となるのである。