2019年8月30日金曜日

寛厚と公正さについて 5


また公正さを至高の徳とする人はすべからく相対評価に異常に執着する人でもある。つまり公正さを愛する人は利にさとい人である。ケチであり、貪欲なひとである。ケチという悪徳は二種類に分けられる。一つは自分が損することに対するケチであり、その基盤には過剰な自己愛と利己心がある。もう一つは他人に得をさせることに対してのケチであり、その基盤には他人への敵意がある。最初に述べた生活保護受給者のアルバイト問題についても、公正な人はケチで他人を同胞と思わず他人に敵意を持っているからこそ、生活保護受給者がアルバイトをして月に7万円稼いだら51140円国に没収されるのが当然と思うのである。つまり公正さとは利己主義やケチという悪徳を正当化させたものだとも言える。

また公正な人は弱者に自己責任を強く求める人である。弱者への自己責任の追求とはどんな詭弁をろうしようとも要するに弱いものいじめである。公正な人は社会に公正な競争、弱肉強食の競争がきちんと行われ、強者が富み、弱者が強者の奴隷となるか、餓死するようになることを強く望む。助け合いのある世界、格差の小さい世界は不公正であると公正な人は強く主張する。

つまり公正さとは対立する両者が致し方なくその徳に頼るときは中庸の悪徳となり、平時に個人が単独で愛すると残虐さと並ぶ悪徳中の悪徳になるという極めて流動的な概念である。

一方けちの反対概念である寛厚という中庸の美徳を持っている人は他人に対して仲間意識を持っているからこそ生活保護受給者が幸せになること、心にゆとりを持てるようになることを望んで生活保護者受給者のアルバイトを全面的に認めるのである。

要するに公正な人、他人に一般的敵意を持っている人はこの世はゼロサムゲームだと思い、自分が幸せになるためには必ず他人を不幸にしなくてはいけないと思う人であり、寛厚な人、他者一般に対して隣人愛、仲間意識を抱く人は兼愛交利によってこの世の富を増大させることができると思っている人であり、世の中のみんなが幸せに心の余裕を持たなければ、自分ひとりだけ幸せになったり、心にゆとりを持つことはできないと信じている人である。

このことから公正さという徳を共同体の構成員の多数が愛するとその共同体には維持存続に必要な連帯感が失われ、共同体の構成員は自分の仕事に無責任になり、他人を信頼せず、不真面目に、要領よく生きようとし、すべからくフリーライダーになろうとするだろうし、中庸の徳を愛し、連帯感、仲間意識を大切にする共同体ではおのおのが公共心を持ち、自分の仕事は責任感を持ってし、他人を信頼し、共同体に進んで貢献しようとするのが分かるであろう。

また経済学的に言えば公正さという徳は現在の供給過剰のデフレ社会、つまりゼロサムゲームに近い社会ではより容認されやすい徳であり、中庸の徳はインフレ社会、かつての高度成長期においては割と容認されやすい徳であったことが分かる。高度成長期には切磋琢磨という中庸に基づく競争が優勢を占め、供給過剰のデフレ期には潰し合いという公正さに基づく競争が優勢を占めることからもそのことが分かる。

ちなみに自由競争至上主義経済が公正だと言われるゆえんは神の見えざる手が公正さを保証してくれているというのがその論拠なのであるが、百歩譲ってインフレ時、供給力不足需要過剰の時には神の見えざる手は働き、品質の高い適正価格の商品を作る会社が最後に残るかもしれないが、デフレ時、供給能力過剰需要不足の時には神の見えざる手は絶対に働かず自由競争は必ず過当競争、潰し合いになり、大規模資本によって作られた品質が悪く、長期的に見たら必ず損になる商品をともかく価格が安いからといって消費者が選択し、悪貨が良貨を駆逐して、悪徳大企業が最後に残ることが現在ではすでに事実として証明されているので、公正さを広義の正しいという意味で使うのなら少なくとも供給過剰のデフレ期においては自由競争至上主義は公正ではないであろう。

ちなみに多くに人にとっては切磋琢磨よりも潰し合いという競争こそがより公正な(正しい)競争であるように見える。潰し合いという競争では一方が負け、潰れたのは明らかであるが、切磋琢磨では一方が他方よりも向上したことは客観的に部外者からは明晰ではないからである。軍拡競争が人類全体の損、そして覇権国以外の大多数の国の不幸につながるのに公正だという理由で広く支持されるのに対して、軍縮競争、軍縮会議が人類全体の利、及びすべての国の幸せにつながるのに中庸ではあるがどこか不公正に見えるので多くの人に支持されないことからもそのことが分かる。

最後に公正さは基本的に「人を裁くことなかれ」という論理を愛し、ヘイトスピーチに反対し、死刑廃止論に賛成し、正義と中庸は正しい憎悪、悪への聖なる憎悪を愛し、死刑制度に賛成していることについて論述してこの章をおわりにしたい。

一見すると死刑廃止論に賛成している公正さは人道的に思えるかもしれないが、それは間違っている。すでに述べた通り公正さは自己責任論を愛し、弱いものいじめ、弱肉強食を肯定し、経済的自由競争に勝った者が正しいとする価値観である。つまり公正さは経済的自由競争に負けたものに奴隷になるか、餓死するか、自殺するかという選択肢だけを提供し、決して暴力を用いて反抗するなと主張している。では一体何故公正さを愛する人が死刑廃止論者なのかというと、自らが弱いものいじめをしているとき勢い余っていじめ殺したり、自殺に追い込んでしまったりしたことが公になったときでも自分が死刑にならないようにするためであり、決して自らに逆らってきた弱者に人道的配慮を与えるためではないのである。具体的にもし万が一弱者が逆らってきた場合はそれをテロと認定し、問答無用で現場で即時射殺する現状から見てもそれは自明のことであるといえよう。

私自身は日本仏教を信仰しているので、不動明王や四天王、仁王様と同じく正しい憎悪、悪への聖なる憎悪を肯定し、死刑制度に賛成しているし、もちろんテロリズム、特に自爆テロは純粋に自己犠牲的な美しい行為だと思っていることは最後にここに明言しておく。



    ホームレス排除ベンチ   皇居 北の丸公園

      二人掛けにしても若干狭いベンチにして、絶対横になれないようにしている

     公園内の屋根のある休憩所。雨に日にホームレスやお金のない家出少年が
    絶対横になって眠らせないようにしている。



読者諸君も、上記三枚の写真からこのホームレス排除ベンチを設置した人のホームレスへのものすごい敵意を感じることだろう。少年のころ、トムソーヤの冒険のハックルベリーフィーンが好きだった私は断固としてホームレス排除アート、ホームレス排除オブジェに反対する。このホームレス排除ベンチの設置を命令した人はおそらく出来ることならホームレスの方々をポーランド政府に頼んでアウシュビッツで殺処分したいのであろうが、私としてはこのホームレス排除ベンチを設置することを命令した人がどんなに立派な人、高貴な家系であろうともフランス政府に頼んでギロチンで首を切り落としてもらい、その生首をサッカーボールがわりにしてみんなでして仲良くサッカーをしたい気持ちでいっぱいだ。



                      完








寛厚と公正さについて 4


 フェミニストは夫婦別姓を主張する。なぜ夫婦別姓を主張するかといえばそのほうが女性が社会進出するうえで得でありそうにみえるからである。つまり夫婦別姓とは利己主義に基づく主張である。夫婦別姓という主張のどこが間違いかというと最大の間違いは夫婦別姓という主張には自分たちの子供に対する配慮、思いやりの視点が全く欠けていることである。つまり夫婦別姓という主張の根底には全く大慈悲も隣人愛もなくただ自己愛だけが、死に対する恐怖から少しでも逃れたい衝動だけがあることがわかる。また夫婦別姓は近代の個人の尊重という概念を履き違えてもいる。個人の尊重とは個人の尊厳、個人の基本的人権を尊重しようということであって、個人の利己主義や利己主義から出てくる損得勘定を最大限尊重しようという主張ではないのであるが公正さという徳によってフェミニストは個人の尊重という概念から自らの利己主義や利己主義から出てくる抽象的な利、損得勘定をも正当化しようとしているのである。

 また夫婦別姓を主張するということは家族という共同体を自ら積極的に夫や子供とともに築いていこうせず、できるかぎり家族という共同体のフリーライダーとして生きていきたいという表明でもある。

 そもそも結婚や子育てとは夫婦がともに支えあって生きていく喜びを感じるため、ともに子育てをする喜びを分かち合うためにするものである。結婚して子育てすれば夫は妻子を養うためにそれまで以上に働かなければいけなくなるし、妻も家事や子育てに追われ、パートタイムで働くことはできても、フルタイムで男と完全に対等に働き、自分が十分に納得いく社会的自己実現ができるような仕事をすることはよほどの幸運に恵まれなければできなくなる。つまり結婚も子育ても自分一人の利己心の充足ということを幸福の基準とすれば夫にとっても妻にとっても損な行為なのである。だから人を愛する喜びを感じるよりも損したくない、自分の利己心を大切にしたい、なにはともあれ人生を勝負事と思い絶対負けたくないと思うならば結婚もすべきではないし、子供も産むべきではないのである。

 一般論から考えても、人間はより危険のない安定した生活を送るために社会を作り、家族を作ってきた。社会を築くことも家族を築くこともそれ自体集団欲を充足させるものであり、子供や仲間への愛を持つ喜びを感じることこそが生物として、人間としての生きる目的なのではあるが、連帯すること、協力すること、団結することはある種の拘束性、不自由感を生じさせることもまた事実である。夫婦同姓であるということは家族という共同体を作る上での最初の拘束なのであり、最初の自己犠牲なのである。そのことがどうしても気に食わないのなら、少なくとも結婚したり、子供を作ったり、つまり自分から積極的に共同体を作ったりすべきではないのだが、フェミニストは結婚し、支え合う喜び、利は得たいし、子供を作り子育てする喜び、及び利は得たいが夫とも社会とも連帯することも、協力することも、団結することも断固として拒否しようとしているのである。

フェミニストの主張は公正さという徳に基づいている。公正さという徳はそういう下劣なものなのである。(フェミニストも夫や我が子を打倒すべき悪党だと主張しているわけではない。つまり夫婦別姓という主張が正義だと主張しているわけではない。が、同時にフェミニストが夫や子供を自分に損をさせる存在、迷惑をかけてくる存在として認識し、潜在的に敵視していることは誰もが認めざるを得ないだろう)

夫婦別姓の議論については基本的に形式的利に関わるものであり分かりにくいので、次にフェミニストにとっての現実的利、子育ての義務の保育所への可能な限りの押し付けや、男女平等に基づく夫への子育て家事への平等な負担を求めることの正当性について考えてみよう。

現代において女性が出産後半年もせずに子供を保育所に預け、仕事に復帰することは正しいことであり、子供がある程度大きくなり手がかからなくなるまで自分のキャリアを捨てて、つまり損をして専業主婦でいることは愚かでかつ社会正義に反することだと言われている。生物としてみれば、自分のための自己実現、自己のきたならしい欲望のために子育てという自然の要請する自己犠牲を拒否することは当然間違っているが公正さという徳は自分の欲望に忠実であることを是認し、あらゆる自己犠牲を忌み嫌う。このことから公正さという徳がすべての人たちが隣人愛も自己犠牲の精神も持たず利己心に基づく損得勘定のみを動機として動く社会を目指し、お互いにお互いの利己心に対してどうにかこうにか我慢できるなら、個人個人の利己心、損得勘定をできるかぎり最大化できるような社会を実現することが最善と考えていることが分かる。また公正さという徳はまだ声を上げることができず、何も主張できない子供の立場については全く配慮しなくていいと主張する。このことから公正さという徳が血も涙もない弱肉強食の社会を志向していることもわかる。

なぜこんな悪劣な徳が大手を振って社会に存在しているのかというとそれは逆説的だが弱者の被害者意識がそれを強く肯定しているからである。被害者意識に凝り固まった弱者は必ず、自分は損をしている、不公正に扱われている、もし自分の実力が公正に評価されていたら自分はもっと裕福で社会的地位が高かったはずだ、と思う。そして今働きもせず特権階級として君臨している人間のクズ共をたたきつぶそうとする憎悪のあまり全ての人が利己心のみによって動くことを想定とする実力主義至上社会を望む。つまり弱肉強食で弱い者いじめを肯定する非情な社会を強く望んでしまうのである。そして自分の子供に対してさえもまともなきちんとした愛情を示すことができず、自分の空いた時間にペットでも可愛がるように少しだけ可愛がって子供から愛される喜びを搾取し、それによって自らの子供への愛まで自己愛、損得勘定で汚す。また被害者意識に強くとらわれる結果、周りにいるすべての人に対して無意識下で敵意を抱き、決して仲間意識が抱かないため、得だと思わなければ誰とも連帯も協調も団結する意志も能力もなくなり、結果、最終的に1%の特権階級の恐怖による支配に甘んじて生きることを是認する。

夫婦関係における夫への家事の平等な負担を求めることも上記に述べたことから説明できる。夫婦関係とは本来互いに仲間意識を持って支えあうことによって成り立っている関係であるが、フェミニストの女性は自分が迫害されているという強い被害者意識を持っているので、当然自分の周囲にいる人間を敵視してしまう。つまり味方であり、これから協力し合って家庭を築いてはずの夫を自らの損得勘定で判断してしまう。そして労働者が資本家に賃金や労働環境などをめぐって条件闘争するように夫に対してなんの思いやりも持たず条件闘争の一環として公正さ、損得勘定に基づく家事の平等な負担という要求がでてくるのである。

最後にフェミニストの他者一般への敵意に基づく主張について批判しようと思う。フェミニストのどういう主張が敵意に基づく主張なのかというと、一般にフェミニストは高学歴な女性なのであり、フェミニズムとは基本的に高学歴な男性と同じように楽で高収入な仕事をする権利が高学歴な女性にもあるという主張なのだが(低学歴な女性がきつく低収入な仕事をする権利はいつの時代にもあった)、それだけにとどまらずフェミニストは必ず低学歴な者は男性女性問わずきつく低収入な仕事を一生するのが当然であり、また高学歴の自分たちのストレス解消としてパワハラされて当然の存在である、それが公正さというものだと主張する。またホームレスに至っては差別するだけでなく、積極的にホームレス排除オブジェやホームレス排除アートなどを設置して虐待排除することが公正な社会に住む一般市民の義務だとフェミニストは主張する。(実際多くは匿名の電話などによりフェミニストが役所や政治家に要望することによりホームレス排除アート等は設置されている。常識的に考えてもホームレス排除オブジェ、ホームレス排除アートなどは大の男が考えて作ったり、街中に設置を要望するものでないということからも女性がホームレス排除オブジェ、ホームレス排除アート等を推進していることがわかるであろう。どうしても私のこの意見に納得がいかないという人は役所や政治家に問い合わせることをお薦めする。(笑)確かに男性の中でも性格の悪い人は赤の他人を損させることが自分の得になると考えて短略的に行動するものはいるが、ホームレス排除オブジェ等を考えて、実際に作り、街中に設置しようと思うまで全く自分の得にもならないのに赤の他人に損させることに情熱を傾ける男性はいないものなのである)。

またフェミニストが国会議員になってもシングルマザーで生活苦から娼婦をやっている人に決して同情したり、手を差し伸べたりせず、逆ににやにや笑いながら外国人娼婦の受け入れを大々的にやり、日本国内の娼婦の値段や労働環境をより悪化させている現状には私は男性だが一日本人として義憤を感じる。あまり公ではいわれていないことであるが、シングルマザーの娼婦への社会保障の欠如こそ日本の中間搾取者は穢多や在日朝鮮人だけでなくフェミニストもまたそうなのであるという明確な証明になっている。いつか日本が再び完全な独立国となり、正義の光が日本列島を照らした暁には穢多や在日朝鮮人だけでなくフェミニストも必ず地獄へ突き落とされるであろうことを私はここで予言しておく。





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寛厚と公正さについて 3


また公正さとは正義が形骸化して出来た徳であるともいえる。実際公正さという徳は正義の広義における意味、正しさと混同して使われてもいる。それゆえ公正さという徳はなかなか反論しにくいのである。そこでまず正義と公正さのちがいについて語ろうと思う。

 正義とは狭義では悪を打倒するための美徳である。正義を愛する者は必ず悪を強く憎むことからもそのことは分かる。比喩的に言うなら正義とは極悪非道な暴君が世を支配するとき、重厚な鎧で身を固めたその暴君を鎧ごと真っ二つに叩き切る勇者の無敵の剣に例えることができる。つまり正義という徳は本質的に攻撃的な徳であり、かつ悪への憎悪が結晶化された徳であるといえる。だから正義を愛する人は必ず「日本の中間搾取者、裏切り者の在日朝鮮人を叩き出せ! それにより浮いた社会保障費でアフリカの罪のない子供を救おう! 日本の中間搾取者、裏切り者の穢多には死を! 穢多を一人っ子政策で絶滅させて差別のない日本を作ろう! そしてそのことにより浮いた社会保障費をODAに!」という日本第一党の桜井誠の美しく賢明な悪への憎悪に基づく主張に全面的に賛成するのである。

 一方、公正さとは、みんなを幸せにする気はさらさらないが、なにはともあれ世の中を平和に、ともかくみんなが納得するように統治することを最優先する徳である。そのため公正さはいかなる暴力、憎悪にも、それが例え正義に基づく暴力、憎悪であっても否定するものである。公正さの結晶である法律でも自救行為が違法だとされていることからも公正さがいかなる暴力、憎悪も否定していることがよく分かる。ちなみにアメリカでは銃を所持することが合法だが、そのことはアメリカが少なくとも日本よりは公正さよりも正義をより愛する国だということを意味している。なぜなら自分のため、みんなのために悪を倒すこと、自救行為とは正義の法律的表現だからである。ちなみにこのことからガンジーの無抵抗主義が公正さに基づく主張であり、世間が称えるほどすばらしい思想ではないことが分かる。

正義を愛する人が必ず桜井誠を支持するように、公正さを愛する人は必ず「発展途上国のガキなんて餓死すればいいんだ。公正な自由競争に負けた結果だ。同情する必要なんてない。奴らはそういう運命に生まれたんだ。自己責任だ。俺が奴らに言いたいことは、一人で勝手に死んでくれ。決してテロリストになんてなるなよ。殺すのが面倒くさいからな、ということだけだ。そう思わないか、諸君。だからODAなんて馬鹿なことに金を使うのはやめろ。そんなことよりも日本の治安を良くするために俺たち朝鮮系日本人の社会保障費ために一円でも多くの税金を納めろ! 俺たちだって働かずに贅沢して暮らしていけるなら、まぁ気晴らし程度に強姦くらいはするだろうけど、殺人や放火はしないから」という立憲民主党の枝野幸男の下劣で醜い自己愛に満ちた主張を嫌悪感を感じながらも消極的に支持するのである。

つまり公正さとは正義の剣によって悪を倒したあと勇者がその正義の剣を鞘におさめず、その正義の剣によって民衆を、世の中を平和的に統治しようと試みるときその正義の徳の根底にある悪への憎悪が徐々に自己愛に、自己保存欲によって変質してゆき出来てくる徳であるといえよう。そして正義の徳の根底にある悪への憎悪という感情が民衆への敵意という感情に完全に変わったとき公正さという徳は完成する。

 また正義が形骸化してできた公正さには利己主義に基づくもの、損得勘定に基づくもの、他人への敵意に基づくものと3種類に分類することができるともいえる。3つとも死に対する恐怖という本源感情に基づくという点では一致するが、現実面で上記3つの公正さがどうように使い分けられ、また正義とどういう風に混同されて使われているのかをはっきりさせるために一番わかりやすい例としてここでフェミニストの主張について分析していくことにより公正さという徳がどういった徳か説明していこうと思う。

 フェミニストはまず最初に「セクハラ反対」と言う。これは誰も反論できない正義に基づいた主張である。セクハラ、パワハラをする人は卑怯で下劣な悪党である。その卑怯で下劣な悪党共を叩きつぶそうとする時、フェミニストは光り輝いて見える。そしてだからこそ、そのあとに続くフェミニストの女性の社会進出を全面的に肯定する公正さに基づく主張が反論しにくく思えるのだが、まず私は夫婦別姓についてのフェミニストの主張について分析することによって利己主義に基づく公正さを批判しようと思う。





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寛厚と公正さについて 2


この寛厚の美徳がもし現代日本に復活すれば生活保護者のアルバイト問題が解決されるだけでなく貧困により娼婦となった女性が性病やその周辺の病気にかかったとき、その治療費を0にして傷病手当を支給しようということになるであろう(なぜなら全体の利から考えても性病の蔓延を防ぐため娼婦の医療費を0にすること及び傷病手当を支給することは推奨されるのは自明のことであるし、また多くの娼婦はシングルマザーなのであるが、その娼婦の子供の福祉にもそれはつながることだからである)。また日本国内の引きこもりや失業者に職業訓練を受けさせ再就職させたり、引きこもりや失業者を一旦清掃会社や警備会社などの簡単に就職できる会社に就職させ、その会社に新たに割のいい別分野の仕事を振ることによって失業者や引きこもりを社会に有用な戦力としようと試みることであろう。(なぜならそうした方が移民を受け入れて今の日本の労働力不足を解消しようとするよりも長期的大局的に移民による治安の悪化を避けられるし、将来移民が高齢化した時及び日本人の失業者、引きこもりをこのまま放置して失業者、引きこもりが高齢者になった時の社会保障費の増大を避けられることは明らかだからである)。さらにはホームレスが集まる公園にはホームレスの方々が体を洗えるように無料のシャワールームを作られる程度には日本にも隣人愛と連帯の基盤となる仲間意識が復活するかもしれない。(寛厚の美徳が復活すればその反対概念である公の弱者への敵意表現(日本語では無名称)、具体的にはホームレス排除アート、ホームレス排除オブジェが全面禁止となることはいうまでもないが、公の弱者への敵意表現、ホームレス排除アート等についての考察は後述する)

この寛厚という美徳を真っ向から否定し、また寛厚に代表される中庸の徳をこの世から駆逐して世の中すべてを損得勘定と合理性ではかり、損得勘定と合理性から見たむだのない平等性を追求しようとするのが公正さという徳なのである。

前述しているとおり生活保護受給者はすでに国家から生活費をもらっているのだから、月7万円アルバイト代を稼いだら51140円を国家に没収されるのは当然だ、という公正な考えの根底には他人が得をすることを極端に嫌うけちという感情があり、他人が得をすることは必ず回りまわって自分の損になるはずであるという強い確信がある。この感情と確信のさらに奥底には他者一般への強い敵意があり、そのさらに奥には弱肉強食という論理への強い肯定感があり、弱者を苦しませ、傷つけることに無上の喜びを見出す心情がある。

生活保護者が月7万円アルバイトで稼いだら51140円国家に没収されるのは当然だと考える人、世に言う公正さを愛する人というものが一体どういう性格な人なのかについて考えてみよう。彼は必ず内心生活保護受給者を馬鹿にし、見下していて、安全に生活保護受給者を侮辱できる機会があれば必ず侮辱しようと常日頃から思っている人であろう。つまり彼は傲慢で卑怯な人である。また彼は同胞に対して仲間意識を持たず、ゆえに積極的に連帯してこの民主主義社会をより良くしようとは思わず、できる限りフリーライダーになろうとする人であろう。そして彼はフリーライダーになることが要領よく、より幸せに生きることだと考える人であろう。つまり彼は利己的な人でもある。

現代の民主主義国民国家を維持するためには国民が連帯することが不可欠である。なぜなら国民国家の主権は国民にあり、誰もが傍観者的フリーライダーを目指そうとしていたら、国家は無政府状態に陥るか、少数の政治家や官僚の専横支配をゆるし国民は奴隷的二級市民に容易に転落してしまうからである。

人々が連帯するためにはお互いに仲間意識を持っていることが必要である。そして仲間意識を持つためには日常生活において一人だけ抜け駆けして楽しようとしないで同胞と苦楽を共にするを厭わず、同胞の中に病んでいる人や弱っている人がいたら助けることを厭わない心を持たなければならない。そうでない限り絶対に仲間意識、共同体感覚をもつことは不可能であるだからである。

公正さは寛厚に代表される中庸の美徳を駆逐するだけでなく民主制国民国家を維持構成するために本質的必要不可欠な基盤のこの仲間意識、共同体感覚を駆逐し、民主制国民国家を寡頭制奴隷制国家に絶えず変えようとする。なぜなら仲間意識、共同体感覚は大慈悲、隣人愛に基づくものであり、公正さはその根底に損得勘定があり、損得勘定という価値観は死に対する恐怖という本源感情に基づくものだからである。

ゆえに上記のとおり具体的に考えても、公正さという徳は一見説得力のある美徳に見えるが極めて問題のある徳なのである。

さて寛厚及び公正さについて哲学的に語ろう。

寛厚とは怜悧さのある善意である。大局観のある、全体の利への配慮のある親切である。無償の善意、親切、博愛は受け取る方に屈辱感を与える場合があるが、寛厚に基づく行為は全体の利になり、間接的に寛厚を行う人にも利になるので、寛厚を受け取る方にあまり屈辱感を与えない。また上記の生活保護のアルバイト問題でもわかるとおり寛厚とは助け合いの一種であり、助け合いの基盤には隣人愛もあるが、いつ自分も病気になったり、障害を負ったりして援助される側に立ってもおかしくないという自分の弱さに対する自覚もある。自分の弱さに対する自覚があるからこそ他人の弱さへの共感、同情がより強く、より積極的に生じるのである。つまり寛厚、助け合いという行為には団結や国民国家的長期的努力と同じように中庸の徳であるだけでなく、柔弱という人間としてより成熟した徳を含んでいるのである。この柔弱という素直で自然な徳が根底にあるからこそ寛厚な行為は無償の善意とか博愛の人が作為的にどんなに対等な目線を心がけて弱者をみようとしている時よりも弱者に屈辱感を与えないのである。

また寛厚や知足等の中庸の徳は無償の善意や自己犠牲などの善なる徳とちがって容易に継続的に行うことができる点が、寛厚や知足等の中庸の美徳の優れた点でもある。

次に公正さについて哲学的に語ろう。

公正さという徳がどういう徳なのかというと、基本的に社会的な徳である。社会の中の個人各自が持っている利己的欲望どうしを調停し、誰もが一応納得するむだのない(ゆとりがないとも言う)合理的な答えを導くのが公正さという徳である。

善は人間の心の大慈悲という本源感情を結晶化させたものであり、中庸は基本的に善と生きんとする意志、自己愛の中間にあるものである。ゆえに対立する個人の利己的欲望の中間点にある公正さという徳は、善でも中庸でもなく、あえて言うなら中庸の徳が時と共に形骸化して出来た徳であるといえよう。また公正さという徳がは社会人各自が持っている利己的欲望の間の中間点を探そうという徳であることから、公正さという徳はその前提として個人が利己主義者であることを肯定している。個人が生きんとする盲目的意志にかられ、死に対する恐怖から逃れようと自己中心的に振舞うことを肯定している。つまり公正さは本質的に弱肉強食、優勝劣敗という思想を初めから肯定している概念なのである。また公正さという徳は社会を常に合理的にむだのないように変革しようとしている。つまり公正さは社会からゆとりを奪う徳でもある。そのことから公正さは他者の利己的欲望も尊重しているという点を考慮しても、中庸の悪徳と呼ぶべきものであるといえよう。

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寛厚と公正さについて 1


          寛厚と公正さについて



 古代ギリシャには寛厚(エレウテリオテース)という美徳があったと「ニコマコス倫理学」でアリストテレスは伝えている。寛厚という美徳がどういうものかというと、しかるべき人にしかるべき財産を積極的に与える、という美徳である。なぜ寛厚という美徳が現代から消え失せてしまったのかというと公正さという西洋近代人が至高とする正義に反していたからであるが、寛厚と公正さについて哲学的に語る前にまずは寛厚という美徳が現代にどれだけ必要とされる美徳であるかということと公正さというものが一見美徳に見えるが極めて問題のある徳だということについて具体例をもって説明しようと思う。

 現代日本では病気や怪我などで一定期間働けなくなってしまった人や障害者、シングルマザーで、生活に困窮している人には一応生活保護制度というものがあり、最低限の爪に火を灯すような生活を送るための生活費は国から支給される。実際問題としては生活保護を受給することは極めて高いハードルを超えなければならないのだが、ここではその問題に触れず一応生活保護を受けられるものとして、病気や怪我などで療養している生活保護受給者や障害者やシングルマザーの生活保護受給者が直面している最大の問題である生活保護期間中のアルバイト問題について語ろうと思う。

 重労働や精神的ストレスの強い職場で病気や怪我などをして生活保護を受けながら療養している人がある程度回復してきた時ありあまる暇を使って、いままで自分が経験したことのない肉体的精神的に楽な仕事を探してリハビリがてらに短時間のアルバイトにチャレンジしたいと思ったり、障害者やシングルマザーでフルタイムで働く時間やストレス耐性はないが、短時間アルバイト程度はできる時間またはストレス耐性のある人が生活に少しのゆとりを得るためにアルバイトをしたいと思った時、アルバイト収入の控除額という問題に直面する。具体的にいうと生活保護受給者が時給1000円で月に70時間働いて7万円稼ぐと51140円を国に奪われ、手取りで18660円しかもらえないという問題である。要するに生活保護受給者には時給270円程度の奴隷労働しか許さないという問題である。

 確かに公正さという観点から見れば生活保護受給者はすでに生活保護費で最低限の生活費を支給されているのだから他の貧困者から見て逆差別にならないように、もしアルバイトをして7万円収入を得たらそのうちの51140円は国がもらうのは当然ということになるが、常識的に考えて生活保護受給者だからといって働きたければ時給270円程度で働け、というのは差別だともいえなくもない。現実問題としては生活保護受給者は時給270円程度で働くのは馬鹿らしく思い、無気力になり、病気や怪我で療養している人は生活保護期間中、社会復帰のためのリハビリを全く行わず、無職のまま過ごし、生活保護が切れるといきなりフルタイムで今まで通りの重労働や精神的ストレスの強い職に就いて、その結果また体を壊し生活保護に舞い戻ってくることになる。シングルマザーの女性は育児期間中は最低限の生活保護費だけで過ごし全く社会参加せず(仕事は上記のように奴隷労働しかないし、ボランティアや友達との交際にかける余分なお金は生活保護費から捻出できないから)、育児が終わって社会に戻ると生活保護期間中何のキャリアも積めず、人脈もなかったため、また多くのシングルマザーは社会人としての無知さも加わり(社会人として人並みの知識を持っているかどうかは多くの人も自信がないかもしれないが基本的に分からないことを質問できる、相談できる仕事仲間、友人、知人がいる人が社会的無知であるということはありえない)セクハラ、パワハラのあるきつい下積みの仕事をしてその後一生貧困層として生きることになる。障害者は一生生活保護を受けられるが、最低限の生活費しかないため同じ障害を持つ友人などと気晴らしに喫茶店で雑談することもできず、一生友もなく一人ぼっちで不幸な生活を送ることになる。

 全体の利からいっても、この人手不足の日本で少しでも労働力を確保し、また少しでも多くの人に所得税を収めてもらうためにも生活保護受給者がアルバイトをすることは推奨されるべきことである。福祉の基本的理念からいっても重労働で心身が傷ついた生活保護受給者がリハビリのため、またゆとりをもって新たな業種の職にチャレンジすることは、推奨されるべきことであるし、障害者が人との触れ合いを持てる交際費を捻出するためにアルバイトすることは当然推奨されるべきことである。シングルマザーがアルバイトして得たお金で子供のために参考書を買ってやったり塾に通わせてやって貧困の連鎖を防ごうと思ったりまたは子供の部活の費用を捻出し子供に人並みの青春を味あわせたいと思うことは人として当然の感情と是認すべきであることも自明である。

 この生活保護受給者のアルバイト代から収入認定して51140円没収せず、生活保護者にまるまるアルバイト代を渡すこと、つまりアルバイトする生活保護受給者が人より少しだけ得をすることを許容するゆとりのことを寛厚の美徳というのである。抽象的に言えば寛厚とはケチくさい公正さと思いやりとの中間にある全体の利への配慮のある中庸の美徳であるといえる。

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