2020年12月8日火曜日

デフレ克服法 9

 

最後にフリーライダーを中庸社会に住まわせるわけにはいけない理由について語る。

公正経済システムの中にフリーライダーがいても公正経済システムは回るが、中庸経済システムの中にフリーライダーがいると中庸経済システムは致命傷を負ってしまうから中庸経済システムを公正経済システムと分けなければいけないという具体的理由もある。

フリーライダーとは具体的にどういう人を指すかというと非正規労働者を差別し侮辱することを生きがいとする正社員とか、部下の手柄を横取りし、自分の失敗を部下に責任を取らせる無能な中間管理職とか、経営陣の犬となりながら働かないで給料を取る労働貴族などである。要するに社会に何の益ももたらさない社会の寄生虫である。

公正経済システムの中ではこのようなフリーライダーも上位1%の公正経済システムの支配層に向けられるべき99%の大衆の憎悪を代わりに受け止めてくれる存在として支配層から肯定的に、もっといえばなくてはならないものと評価されている。なぜなら人類史上最悪の劣等民族アングロサクソンの得意な分断統治が現在の金融資本主義、株主資本主義に最適化しているのを見ても分かる通り、社会をいくつかの階層に分け常に争わせていることは公正経済システムを平和的に維持させるためにはもっとも効果的な手段だからである。

 

中庸経済システム内のフリーライダーとは抽象的にどういう人を指すのかというと、中庸な社会、全体の利を最大化しようとする社会、みんなで幸せになろうとする社会において一人、社会に積極的貢献をしようとせず、いつまでも被害者意識に凝り固まり、被害者意識から自己中心的な思考をすることを正当化し、ずる賢く世間を立ち回ろうとし(つまりできるかぎり自分に与えられた仕事をさぼろうとし、)被害者意識から生じる社会への敵意、社会への復讐心から中庸な社会の要であるみんなの共同体感覚を常に傷つけよう、破壊しようとする人のことである。

なぜ被害者意識に凝り固まる人がフリーライダーになるのか、また被害者意識に凝り固まった人がなぜずる賢く立ち回ろうとするのかそして中庸の徳の天敵となるのかということについてすこし詳しく説明しよう。

被害者意識に凝り固まった人はすでに述べてある通り必ずこの世は自然も人間同士もお互いに殺し合い、奪い合い、騙しあう弱肉強食の恐怖に満ちた世界だと確信しているから、彼はこの世界に心底恐怖し、そして心が恐怖に満たされることにより、何としてでも、どんな手段を使ってでも、この世に一秒でも長く生きようとする盲目的生の意志、執着を逆説的に強く持ってしまう。そしてその生きることに対する意志、執着が彼に良心を捨てさせ、他人への敵意を基盤とする損得勘定と公正さという徳を強く愛させるようにさせる。

損得勘定と公正さを強く愛する彼は、受験勉強を人生最大の試練と考えるようになり、猛烈に勉強する。そして運よく一流大学に入り、そして一流企業に行けたら、二流企業以下の労働者を心底馬鹿にしながらそれなりに裕福で平凡な人生を送る。だが大学受験に失敗して二流企業以下の大学しか行けず、二流企業以下の会社に勤めるようになったら、彼は自らを敗者だと思い、生きていくことになる。

そこで彼が社会の片隅で敗者としてひっそりと生きてくれるならそれでいいのだが、多くの場合そうはいかない。彼は敗北した原因を考える。自分以外の誰も本当の意味では愛さず、自己中心的な損得勘定だけで算盤をはじいて生きてきた、にもかかわらず自分は負けた。つまり自分は人間の屑でしかも低能だと心の奥底では確信しているのだが、それをはっきりと認めたくないため彼は周りの人間は彼よりももっとずるく、利にさとく、他人を敵視していた。つまり彼は相対的に善良すぎるから負けたのだと思うようになる。そして彼は前よりももっと悪質で、他人や社会への復讐心をもっと持ったフリーライダーを目指すようになる。自分より弱いものが身近にいたら必ず虐め殺そうとするようになるし、人を騙して不幸にさせようとも自分が一円でも多く儲かるように行動するようになる。彼は、他人を批評することが、奴隷商人が奴隷を敵意をもって値踏みするように、好きになる。そうなると他人が自分に話しかけてきたとき、相手も敵意をもって自分を値踏みしているのではないかと思ってしまう。そういうことで彼は会社内でも同僚と表面的な情報交換や情報の共有、連帯でさえできなくなる。

 

また被害者意識の強いフリーライダーは自分より立場の強い人には卑屈に接し、自分より立場の弱い人に対しては横柄にふるまい、パワハラを好み相手に屈辱感を与えることによって相手から心の余裕や心のゆとりを奪おうとする人であるともいえる。死に対する恐怖という感情に基づく損得勘定の価値観から考えて自分の利を最大化しようとすると目上に卑屈で、目下に横柄にふるまうことが正しいこと、幸せなことと思えるからである。人と対等に接することができないそのような性格も中庸な社会の共同体感覚をいちじるしく傷つけるといえる。

また中庸な生活はみんなで話し合って任意的積極的努力により、つまり自由意思でボトムアップにつくるものだが、公正な社会は基本的に支配者がトップダウンで強制的命令的に作るものである。そういう面から見ても中庸経済システムの中において恐怖による強制力がなければ働けないフリーライダーが存在する余地はないとも言える。

 

つまり中庸経済システムにおいては公正経済システムとちがい、共同体のメンバーが各自連帯感、共同体感覚を持っていることが中庸経済システムを維持させるための絶対条件だから連帯感、共同体感覚を持っていないばかりか他人の連帯感、共同体感覚を壊そうとするフリーライダーは中庸経済システムの天敵として中庸経済システムから排除しなければならない人となるわけである。

 

            

 

一応終わり

デフレ克服法 8

 

少し例として十分でなかったのでもう一例、具体例をあげて説明する。

日本の安全保障政策についてである。中国が日本に侵略してくる確率は最新の防衛白書でも万に一つ、つまり0.01%くらいと言われている。一方南北間の経済格差と南アジアやアフリカで近未来必ず起こる大飢饉が原因になって第三次世界大戦、核戦争が勃発して人類が滅亡してしまう確率はどう考えても10%くらいは最低でもある。(すでに毎年1000万人近くの人々が発展途上国では貧困による病気などで死んでいっているので、大飢饉自体はもう始まっているともいえる。またインド、パキスタンは核を保有しているので南北世界間で戦争になればほとんど失うものがないインドやパキスタンが核戦争を望むことは大いにありうることである)

このような確率論から理性的に賢明に考えれば日本は中国からの侵略に最新鋭の戦闘機や潜水艦を開発、配備して備えるよりも南アジアやアフリカに技術援助や低利の有利子資金援助を行い、南アジアやアフリカの人々にできるだけ自分で働いて自尊心を持って生きていけるようにして、南アジアやアフリカの人々自身が他律的、奴隷的に生き先進国への怨恨、憎悪をいたずらにつのらせるのではなく、その自尊心によって自律的、自由人となって人類以外の他の生物のためにもこの水と緑にあふれた地球を存続させようと自由意思によって思うことが日本の真の安全保障とあることは明白である。

しかし、にもかかわらず日本政府の防衛政策は発展途上国に対してはできる限りの援助はすべきだが、自国の安全保障はそれによりおろそかにすべきではないので、中国からの侵略に備えて今の軍事費を倍増して、具体的にはGDP2%くらいを軍事費に充て最新鋭の戦闘機や潜水艦、ミサイルの開発や配備しすることが日本の安全保障にとっては好ましいとしている。

軍事費をGDP2%くらいにすべきだというこの政策は5年10年という短期的に見れば確かに日本国の存続確率を99.99%から99.999%くらいに高め日本をより安全にするが、100年、200年という長期的に考えれば日本国の存続というよりも人類の存続確率を90%から50%くらいまで落とすし、かりに100年後人類、日本国がまだ存続していたとしても日本は南アジアやアフリカから徹底的に憎まれ、恨まれているだけでなく、世界の大多数の国々から敵意を抱かれているだろうから他国と友好的な関係を持っていないと生きていけない貿易立国の日本は少なくとも貧しくなっていることは確実である。

上記の二つの対照的な安全保障政策はどこが根本的にちがうのかというと、理性的に考えて現在の人口爆発という最大の危険の前には最新鋭の戦闘機や潜水艦な度というものは何の役にも立たないものであるから発展途上国にできる限りの援助をすべきという主張には、人は他人から人間扱いされず、屈辱的に扱われれば必ず他人を憎悪し、報復してくるという大慈悲に基づいた価値観があるのに対して、長期的、人類全体のことは考えずともかく個人主義に徹して自分の短期的利だけを考え、地球および人類全体のことは他の誰かが考えるだろうと無責任に確信し、短期的、近場の中国からの侵略という脅威に対して最新鋭の戦闘機や潜水艦を開発、配備すべきという主張の奥底には公正さ、弱肉強食という思想に対する全肯定があり、その全肯定の基盤には外の世界に対する敵意と恐怖感で心がいっぱいで目先のことに反応することしか頭を使えない盲目的自己愛、生への意志、愚かな利己主義がある。

またこの主張は、弱者は侮辱すればするほど、虐待すればするほど無抵抗になり、従順な奴隷となるという確信がある。おそらくこのように考える人間はそのような人間なのだろう(笑)。だがしかしヴェーダの教えを今に受け継ぐインド人やパキスタン人はすべての発展途上国で虐げられ、死んでいっている何の罪もない子供たちの無念を晴らすために極悪非道の先進国に対していつか必ず核で報復してくると私自身は確信している。

つまり何が言いたいかというと21世紀になってもはや地球の資源の有限性が分かったことから人類が無限に増えることができないという真理が眼前に突き付けられている今、20世紀までと同じように偽善と公正さを至高価値とすることは人類の存続を危機的状況に置くほど愚かなことであるということである。

また目前に迫った有史以来最大の世界的大飢饉において発展途上国を見殺しにした場合、金輪際自分の子供に道徳というものを教えることは口が裂けてもできず、日本国内において基本的道徳というものが根本的に破壊されてしまい、すべての日本人がお互いに殺し合い、騙しあい、奪い合うことを肯定するような修羅界が日本に出現してしまうこともまた問題となる。

21世紀において偽善と公正さに社会を支配させることは極めて愚かであるということについてはこのくらいでいいであろう。

ここまで書いてきて今、はたと気づいたのだが、基本的に今まで書いてきたことに間違いはないのだが、ミクロの個人道徳とマクロの社会道徳を明確に分けずに混同しながら説明しようとしてきたのでここまでややこしい文章になってしまったともいえるので、ここでミクロ道徳とマクロ道徳(社会道徳)とを明確に分けてその関係性について述べたいと思う。

個々人を剛強な魂を持つ個人主義者(よく言えば強さと独立を愛する男らしい人、悪く言えば自分の権利、利を最大化しようとする自分勝手な人)と規定して、社会は彼ら個人主義者の集合体だとみなすと、個人主義者同士がお互いの正義、権利を主張し争う社会が生まれ、必然的にそれらを調停するために公正さがマクロの至上道徳となり、その公正さが学歴社会を作り、個人のミクロ道徳でも公正さを至上価値と置かせるようになる。

個々人が柔弱な魂(よく言えば自我と共同体との境目があいまいなしなやかな優しい魂、悪く言えば意志薄弱な弱い魂)でそれなりに隣人愛を持つ存在だと規定して、社会は彼ら柔弱な魂を持つ集合体だとみなすと彼らは和やかに話し合い、全体の利に配慮した安心感のある互恵的な社会に作ろうとする。マクロ道徳はお互い様、寛厚、おかげさまといったような中庸を至上価値とする。

具体的に言えばミクロ道徳の思いやりがマクロ道徳のお互い様になり、ミクロ道徳の無償の利他行為がマクロ道徳の全体の利を最大化するための寛厚に変わり、ミクロ道徳の知足がマクロ道徳のおかげ様に変わるのである。

なぜそうなるのかというと個人はそれなりに無限の隣人愛というものを感情として表現することは可能だが、社会は資源が有限であるために人類は無限には増加できないし、微視的に言えば国家予算は有限であるので行為としては隣人愛を優先順位をつけて限定的にしか表現することはできないからである。

つまりミクロの中庸を空虚なマクロの偽善に変えず実のある美徳のまま保つためには、他人の利、社会全体の利を尊重することが必要不可欠なのである。

 

 

明日に続く

デフレ克服法 7

 

また中庸という徳は正義と表裏一体であるのと同様に、公正さという徳も偽善と表裏一体であるから正義と偽善が融和できないように中庸と公正さも融和できないということもできる。

具体的に言うと敵を愛せ、とか罪を憎んで人を憎まずという言葉がある。悪即斬をモットーとする正義よりも悪人への寛容という美徳を上位に置こうとするこれらの言葉は理性的、論理的に極端につきつめて考えるとより隣人愛に満ちた正しい思想のように一見思えるがこれらの言葉は偽善である。まず第一に悪党を許してしまうと悪党の天下になりこの世は闇に包まれてしまうからこれらの言葉が実践智に立った言葉、つまり中庸の言葉でないことは容易に分かる。だが、今問題としているのは悪即斬という正義よりも敵を愛せという寛容さの方が善、美徳の上で上位にあるのではないのかということである。

基本的に寛容という美徳は健康な一人前の大人が老人や障碍者、子供、病人、ホームレスなどの弱者、足手まといに対して足手まといであることを非難しないことはもちろん快く手助けしようとする心であると言われている。この寛容に悪人を加えようとする敵を愛せ、という言葉の中には悪人は心が弱いから、つまり故意ではなく過失により悪人になったのだという判断がある。一見するとこの判断は隣人愛に満ちた素晴らしいもののように思えるが、その奥底にある感情をよく見つめてみよう。

老人や障碍者、子供、病人、ホームレスに対する寛容の中には確かにその奥底にかけ値のない美しい隣人愛が見られるが悪人に対する寛容を主張する人の心の中にはまず第一にそういうことを主張することにより悪党から好かれ危害を加えられにくくなるかもしれないという自己愛が見られる。第二にこれは21世紀を生きる人々に共通の認識ではあるが、今地球上では毎年何百万人もの全く罪のない発展途上国の子供が貧困による病気や餓死などで死んでいっているという事実がある。この事実を認識したうえである悪人の罪を許そうということは即、その悪人を生き永らえさせることにより全く罪のない発展途上国の子供を最低でも一人、見殺しにすることにつながる。つまりその悪人の命は発展途上国の罪のない子供よりも段違いに価値があると主張していることになる。その主張の奥底にある自分の身近な人々に対する盲目的愛があり、そのなかにはほとんど隣人愛のかけらもない、自己愛を拡大したあまりにも醜い愛しかないということがよく見れば鮮明に見えてくるはずだ。そしてそういう自己愛を拡大した愛を基盤とする寛容、仁義のことを偽善というのである。

1を見る

 

 

このような偽善と隣人愛の結晶である正義とが融和することができないのはよく考えてみれば当然のことであるとは分かってくれるであろう。だいたい常識的に考えて在日朝鮮人やエタなどの常軌を逸した悪党共は一刻も早く地獄に送ってやり罪を償わさせてやるのが人の情けというものなのである。笑

大道廃れて仁義あり、智慧出でて大偽あり、という言葉の意味もそうすればよく分かるようになるだろう。(中庸という大道が廃れると薄っぺらい偽の仁義という偽善が世の中に建前として蔓延するようになる。隣人愛、大慈悲という根底にある感情を忘れ、理性的論理的に道徳を考えようとすると必ず偽善に飲み込まれるものだ。論理的に整合性が取れていても間違っていることは世の中に多々あるものだ、という意味である)

 

また偽善と公正さが表裏一体であり、いかに醜く、いかに愚かであるかということについてここで少し説明しておこうと思う。例をあげて具体的に話をする。敵を愛せ、と言葉を日本で使うときそれは多くの場合中間搾取者の在日朝鮮人やエタの悪党どもに生活保護や様々な特権を与えてやり贅沢して暮らせるようにさせろという意味で使われる。そのことにより発展途上国へのODAが減り、発展途上国の何の罪もない子供が死ぬことになるがそれで本当にいいのか? とそういう偽善者に疑問を投げかけると発展途上国の子供が死ぬのは自由で公正な経済競争に発展途上国が破れたせいなのでかわいそうだが致し方ないことだ、それが世の中の摂理なのだと悪びれずにいう。つまりまず初めに実践不可能な理想、悪人も含めすべての人が幸せになれるような世界を作ろうという偽善を建前に掲げて全体の利を最大化しようとする中庸という徳を殺しておいて、そのあと当然そのような偽善を実現することは現実には不可能なので誠に心苦しいが公正に(弱肉強食というルールで)、政治的選択をしようと主張すること(つまり発展途上国の何の罪もない子供は見捨てて生きていこうと主張すること)が偽善者のやり口なのである。これが偽善と公正さは表裏一体であるということである。

ちなみにそういう偽善者を少し感情的になってそういう考え方は道徳的に見てどうなのか追いつめやると結局偽善者たちはエタ王橋本徹のように最後には大声で今までのきれいごとをすべてかなぐり捨ててこう叫ぶ。

「うるせー! 発展途上国の土人のガキの命なんて知ったことか! 土人どもに言ってやれ! 困難に陥っても誰にも助けを求めるな! 誰にも迷惑をかけるな! 黙って一人で苦しみぬいて死んでいけ! 絶対先進国に報復をしようと思うなよ! 死ぬなら一人で死ね! 自己責任だ!」

 

 

明日に続く

 

 

 

デフレ克服法 6

 

被害者意識の強い人間も加害者意識の強い人間も双方長所がある。被害者意識の強い人間は社会の細かいところに目がいき、社会の無駄をなくし、社会を合理的、効率的にしようとするし、加害者意識の強い人は社会を大局観をもって見、社会全体のシステムを改善して社会を向上させようとする。そういうことから、被害者意識の強い人間と加害者意識の強い人間が時々意見交換をするのは有益だが、交感神経のもたらす緊張と副交感神経のもたらすゆとりを強引に融合しても決していい精神状態が生まれないように被害者意識の強い人たちと加害者意識の強い人たちを一緒の共同体に入れ、つまり公正な社会と中庸な社会を融合しようとしてもいい社会は生まれない。

冷たい言い方かもしれないが被害者意識に凝り固まった人、つまり自分が得することだけ、自分が幸せになることだけしか考えられない人は公正さと自由競争を至上価値とする恐怖と対立をあおる社会で生きていくべきだし、そういう社会でしか一人前の人間として生きていけない。被害者意識に凝り固まった人はその弱さから一つの価値観ですべて体系づけられた合理的社会しか愛せないからである。中庸と公正さという二つの価値観を同時に持つ矛盾を許す心の広さというものを持つことはできないのである。

また加害者意識に苦しんでいる人たち、つまり他人のため次世代のために世界をよりよくしたいと考える人たちは、すでに自分が存在しているという罪悪感に十分苦しんでいるので、そのうえ弱肉強食のパワハラや学歴差別のあるような屈辱感に満ちた公正経済システムのなかでさらに苦しむべきではないし、共同体感覚を持って世界全体の利を最大化するために中庸と切磋琢磨を美徳とするような社会で自律的に努力して生き、公正経済システム内で生きているときよりももっと創造的で大局観に立った仕事をして社会に貢献すべきなのである。もちろん公正な社会で全体の利に対して配慮して働く人がいてかつその人が希望すれば中庸な社会に移動できるようにすべきだし、中庸な社会で初志を忘れ、自分の利だけを追求して社会の友愛、連帯感、共同体感覚を壊そうとする人は強制的に公正な社会に移動させるべきことは言うまでのない。また本来中庸経済システムに入るべき人でも公正経済システムの中で生きて弱肉強食、冷酷非情な公正経済システムを少しでもいいものに改善したいと思う人は公正経済システムに入れるようにすべきでもある。

デフレ下においてはすでに述べたようにデフレによって失われた神の見えざる手を全体の利を最大化するための談合によって代替させなければいけないから、加害者意識の強い人たちが組織する中庸経済システムを被害者意識の強い人たちが組織する公正経済システムより上位に置かなければならないことは致し方のないことであろう。

ここまで読んで私の意見に対して否定的感情を抱いている人も多いと思うが、なぜ一つの共同体に中庸と公正さの二つを同等の至上価値と置くことができないかということは、なぜ古代にあった中庸という美徳が今まで何千年も中庸という言葉だけ残って、その言葉の定義さえ失われていたのかということについて説明すると分かりやすい。

中庸とはそもそもどういうものかというとものすごく正義感が強い男が自らの加害者性(他の生命やほかの人の犠牲の上に自分が存在しているという意識)に真剣に苦悩した末に獲得する徳である。つまり中庸とは正義よりも上位の徳であるが、正義という徳の基盤がなければ存在できない徳でもあるともいえる。

どういうことかと具体的にいうとまず最初に悪い公正さを愛し、日本に派遣社員制度という準奴隷制度を敷き、かつプライバシーの自由のまったくない完全な監視社会、管理社会を築いて日本を搾取しようとする在日朝鮮人や竹中エタ蔵のような穢多が世の中にはびこる。

次に正義を愛する日本第一党の桜井誠が正しい憎悪をもって在日朝鮮人を叩き出そうとし、穢多を一人っ子政策により絶滅させようとする。卑賎な在日朝鮮人や穢多は、恐怖に怯え最後に山本太郎や共産党などの中庸を愛する集団に「俺たちは同じ日本に住む仲間じゃないか。お願いだから助けてくれ」と命乞いをする。そして山本太郎や共産党は「ヘイトはよくない、もっと博愛的にみんなが幸せになれるような社会を築こうよ」、と日本第一党を批判することにより、中庸と正義の間に決定的な溝ができ、正義を愛する桜井誠は山本太郎や共産党に距離を置くようになる。そのあと時が経ち山本太郎や志位和夫といった強いリーダーが死に、ただの弱者の集団となった中庸グループに公正さを愛する在日朝鮮人や穢多がまた本性をむき出しにして襲いかかってくる。「何が助け合いだ。ふざけるな、てめぇ。誰にも迷惑をかけずに生きろ。特に俺には絶対に迷惑をかけるな。自己責任だ」と長年隠していた敵意を丸出しにして怒鳴りつける。善良な弱者の集団となっているその時の中庸な集団はすっかり怖気付きまたブラック企業の従業員のように良心を逆手に取られ、公正さのいうこともある意味最もだと思い、なるべく他人に迷惑をかけまいと生きるようになり、その結果心の余裕、心のゆとりを失っていく。

中庸とは利他行為をする時に輝く徳であって、自分を守るためには輝かない徳なのである。そういうことで結局、正義に見放された中庸の集団は最終的に中庸を捨て、公正さを愛するようになる。

最後に公正さと正義の集団との最終決戦が行われるが、たとえ正義が勝って、正義が支配したとしても前章でも述べた通り、正義は中庸を伴わず、それだけによって支配しようとすれとあっというまに公正さに経年劣化してしまい、結局公正さが社会を支配することとなる。

つまり正義と中庸が意見を異にするときは中庸の方の集団の数が多い時でも正義の意見を通さなければ中庸は死んでしまうのだということである。何千年もの間、人はどうしてもそのことを認めたくなかったから中庸という美徳は消えていたのである。そして今私の意見に否定的感情を抱いている人たちも中庸という美徳を葬り去った過去の人々と同じ過ちを犯しているのである。いつまでも被害者意識に凝り固まってこの世界に存在していたい、何が何でも、自己正当化して、自らの存在の無罪性を感じたい、自分の加害者性に目を向けたくない、自己否定したくない、苦悩して生きていきたくないと思っている人は残念ながらどうしても中庸という美徳の存在を維持させるために、正義を中庸に優先させるということはできないのである。

 

 

明日に続く

 

 

デフレ克服法 5

 

ここで社会における良いゆとりと良い緊張についてもう少し詳しく語ろう。

人間には交感神経と副交感神経がある。交感神経は緊張を司り、副交感神経はゆとりを司る。生きるための糧を得ようとするとき人は交感神経優位になり、夜、休息して体力を回復しようとする時人は副交感神経優位になる。ゆとりと緊張、どちらも生きていくためには必要である。多くの人はついできるだけゆとりのある生活したいと思ってしまうが、他人から必要とされる緊張感のある仕事時間も生活に充実感と喜びを与えてくれるものだし、よい緊張感のある平日があるからこそ良いゆとりのある(安らぎと解放感のある)休日を過ごせるのである。

よい緊張、よいゆとりというものは理論的には誰でも得ようと思えば簡単に得られる。緊張を要する仕事をするとき気合を入れて全力で仕事をするとよい緊張ができ、そのあとその良い緊張がほどけたとき良いゆとりを得られるからである。ここで大切になってくることは、緊張を要する仕事をする場面で、自主的に気合を入れ、ベストを尽くそうと仕事をしなければよい緊張は得られないという事実である。

つまり人生に対して主体的に向き合って、かつやればできるという自己効力感を持っている人でなければいざというとき緊張を要する仕事する場面で気合を入れてベストを尽くせないのである。

 

国家経済にも人と同じようにゆとりと緊張双方が必要とされる。できるかぎり無駄をなくそう、効率的に仕事をしようと緊張すること、具体的に言えば上下水道を作ったり、港や道路を作ろうとする国民国家的長期的努力も必要だし、より魅力的な商品を作ろうと思ったり、より良い品質の商品を作ろうと思う心の余裕、心のゆとりに基づいた向上心、努力も必要だということである。

また社会にはゆとりをもたらし人々を幸せにしようとする中庸の徳だけでなく、人々を競争にかりたたせることにより緊張させ、世の中を効率的、合理的にさせ、かつ人々に納得のいく人生を送らせることにより世の中の平和を永続させようとするいい意味での公正さという徳も必要なのである。そういう面から見て中庸と公正さ双方に価値を置く一つの共同体を築くことは一見可能に見える。

しかし、残念ながら世の中には二種類のタイプの人間がいる。

まず第一に被害者意識の強い人間。このタイプの人は恐怖感に基づく心理的強制がなければ人のために働けない人である。恐怖感がないところではすぐ仕事をできるかぎりさぼろうとし、社会の寄生虫(フリーライダー)になることを目指そうとする人である。この世はお互いに殺し合い、奪い合い、騙しあう弱肉強食の恐怖に満ちた世界だという認識を持っている人でつまりいつも外的恐怖感という悪い緊張感を持って外の世界に向き合っている人間である。被害者意識に凝り固まっている人間とはつまり心の中にある恐怖感に支配されている人間でこのような人間は人生での重要な決定を恐怖感の命ずるところにより強制的他律的にさせられる。恐怖感が命ずる決定の基盤となる価値観はただ単に利己的で損得勘定に基づくものである。また恐怖感に支配されている被害者意識の強い人間は恐怖感の裏返しの感情として他人や世界に強い敵意を持っている。恐怖感を感じているときはともかく他人を表面は友好的に接しながら内心は他人の不幸を願い、自己中心的にどうすれば自分がより得をできるかばかり考えているし、恐怖感から逃れて安心しているときは、他者一般への敵意をむき出しにして他人に冷酷、横柄にふるまい、何とか他人に損させようと他人をいじめぬき、傷つけようとする。被害者意識に凝り固まったフェミニストが自分より低学歴な男や貧困に苦しんでいるシングルマザー、娼婦やホームレスに対していかに冷酷非情な態度で接するかを見てもそのことは分かると思う。このような人間が支配者となると過度に実力主義で弱肉強食的な競争に勝利したものだけが幸せになれる社会を築こうとする。つまり公正さという徳(自由で公正な競争至上主義)を社会の最高善とする。

 

第二に加害者意識の強い人間。このタイプの人は恐怖感による強制がなくてもちゃんと給料がもらえるなら他人のために役に立とうと任意的、積極的に働ける人である。加害者意識の強い人は発展途上国で毎年何百万人もの子供が餓死したりしていることに同情したり、人間の人口爆発のせいで数々の動植物が絶滅していっていることを苦悩している人間である。加害者意識の強い人間は他人の幸せを願っているから罪悪感に苦しんでいるのであり、つまり本質的に利他的な人間ということになる。また加害者意識の強い人間は自分が生きていくこと自体は容易にできる人間であり、外の世界に対してはあまり緊張して対峙せずもっぱら自分の内面に意識が集中している人間である。心のゆとりがあるから苦悩できるし、利他的になれるともいえるし、苦悩できるから、利他的になれるから心にゆとりが持てるとも言える。加害者意識の強い人間は自分の心の中の大慈悲、良心を大切にする人間であり、人生における重要な決定をする場合、恐怖感に命ぜられるままに強制的に決定するのではなく、大慈悲や良心の忠告に耳を傾けて、任意的意識的に決定する自由な人間であり、自尊心のある人間である。加害者意識の強い人間が罪悪感を忘れているとき、また年老いて柔弱というものを知り建設的に生きようと思った時、その人は他人が支えてくれるから自分が生きていられるのだという無邪気で幸せな共同体感覚を抱く。つまり加害者意識と共同体感覚は表裏一体なのである。このような共同体感覚を抱いた人はこの世の中を助け合いで成り立っていると思い、人を愛し人のために生きようとする。このような人間が支配者となるとみんなが幸せに生きられる共存共栄の社会をなんとか作ろうとする。つまり中庸という徳を社会の最高善とする。

 

 

明日に続く

 

 

デフレ克服法 4

 

また共同体感覚を持つためには人は他人を信じる勇気を持つだけでなく、人間は助け合うために集団化し、社会を作ったという当たり前の認識をきちんと持つことが重要になる。その認識が困っている人がいて自分が簡単に助けられる状態だったら当然の如く手を差し伸べる隣人愛の表現を容易にするからである。

利他的行動により隣人愛が強化され、意志化されたとき他人を信じる勇気がさらに強化されるとも言えるし、損する勇気をもって利他行為をすることが、各自の隣人愛を強化してお互いを信頼しあえる社会を作るともいえる。

そしてお互いに相手の善意を信じられ共同体感覚を持てるからこそ、お互い様です、と言えるようになるのである。

言葉にするのは簡単だが、確かに実践するにはかなり難しそうだ。だが政府が相互扶助社会を構築しようとするとき、または政府が障害者やホームレス、シングルマザーの娼婦などに支援の手を差し伸べようとするときにとりあえず不公正だと主張してお互いへの敵意を煽らないだけでもデフレを克服する程度の最低限の共同体感覚は一応なんとか足りるであろう。また、もしどうしても隣人愛を持てそうもない人は前章でも述べた通り社会の全体の利というものについて自らの損得勘定という価値観で考えて、共同体の全体の利を拡大することにより自分の利も間接的に拡大するものだと理性的に考えてなんとか同意してもらうしかない。

また共同体感覚を各自が持つためにはみんなが格差の小さいホワイトな労働環境に置かれる必要がある。現在の派遣社員や外国人労働者など奴隷的境遇に置かれている人に日本社会に対して共同体感覚を持てということが無茶であることからもそれは自明であろう。人間扱いされなかった恨み、不安定で低賃金な労働をさせられる屈辱感は必ず人から共同体感覚、自尊心双方を奪い、社会への復讐心を育ててしまうからである。

 

つまり中庸な談合とは誰もがほかの人を出し抜いて自分だけ贅沢して暮らそうとする生活を目指そうとするのではなく、供給過剰なのだからGDPの高成長を目指すことは困難であるがみんなで話し合ってゆとりある安定した雇用を作ることは理論的には容易であることを認識し、そのような屈辱的でない安らかな生活を目指そうとすると可能になる。つまり中庸な談合をするためには人々が弱肉強食というルールは決して変えられないルールであると考えず、各自が被害者意識を捨て、自尊心を持って自力本願になり自分の体重は自分で支え、他人を搾取しようとせず、かつお互いに仲間意識を持って信頼し合って共存共栄というルールを作り出して維持できると確信することが重要となる。

 

次にデフレ時代に切磋琢磨という競争を生じさせるためにはなにが必要かということについて考えてみよう。切磋琢磨という競争が古来からきちんと生じている業界、建設業について見てみると、切磋琢磨という競争をするためには適度な談合と適度な競争が必要であることが分かる。中庸な談合がお互いへの信頼を生み、デフレ下でも切磋琢磨できるようにし、切磋琢磨という競争がお互いへの尊敬、尊重の念を生み、より中庸な談合をできるようにするからである。

またお互いに向上し合おうと切磋琢磨する道徳的社会では自然におかげ様です、という言葉をみんなが言い合うようになる。どうしてそうなるかというとお互いに向上し合おうと切磋琢磨して勝者になった者は、相手がつぶし合いの競争をしかけてこず、つまりある程度のところで相手が負けてくれたことに感謝できるようになるからである。そのような社会では必ず勝者は敗者にとどめを刺そうとはせず、かつ自分の勝利者としての権利を最大化しようとはせず、共同体がゆとりを持つために幾分かの富を社会に残すことを厭わない。つまりおかげ様ですとみんなが言い合う社会とはみんなが足ることを知る社会であり、現在の焦りに満ちた、自分の権利を積極的に主張しなければ権利が踏みにじられる社会、自分の利を常に最大化することを強く要請される社会とは基本的に正反対なのである。結果、そのような社会では他人の良心、善意をより信じられるようになる。そしてその利他行為によって勝者自らも良いゆとりが持て、社会もゆとりが持てることによってデフレ下でも人々は容易に協調でき、連帯でき、共同体感覚を持てるようになるのである。

 

 

明日に続く

 

デフレ克服法 3

 

まずはじめにデフレを解消するための最大のキーワードとなる談合、話し合いという言葉について詳細に分析してみよう。談合という言葉は現代経済においては悪事を話し合うことという意味があるが、それはなぜかというと談合という言葉から人は公正な談合(悪い談合)というものを想像してしまうからである。

公正な競争とは各自が被害者意識に凝り固まり、利己的になって自分の短期的利を最大化しようと思い競争することを意味するように、公正な談合とは各自が被害者意識に凝り固まり、自分の利を最大化しようと思って話し合いをすることを意味する。つまり悪意を持って仲間内だけで話し合って仲間以外のものでもある社会の富、全体の利、公的な富を自分たちの私有に帰さしめようとすることが経済学的な意味での公正な談合だから民衆は談合を憎むわけである。公正さという徳または経済学が本質的に全ての人の悪意を前提とし、弱肉強食というルールを最大の暗黙の前提とするのであるからそう考えてしまうことはある意味致し方ないことかもしれない。

だが、ここで話す談合とは公正な談合ではなく中庸な談合(良い談合)、つまり勝とうと思わずみんなで幸せになろうと話し合うこと、自分たちの子供たちのために幸せな社会を作ろうと話し合うことである。具体的に言えば全体の長期的利を最大化しようと話し合うこと、またはどのようなセーフティーネットを張ればデフレ下でもみんなが安心してつぶしあいをやめてホワイトな労働環境で社会経済に良い競争、切磋琢磨をすることができるのかということについての話し合いである。つまり全ての人の善意を想定し、共存共栄というルールが暗黙の前提ルールとして認めたうえでの話し合いである。

中庸な談合、よい話し合いをするためにはゆとりある社会に住んでいるが必要である。ゆとりのある社会とはどんな社会かというと共同体感覚(仲間意識)と自尊心と切磋琢磨がある社会である。なぜ切磋琢磨という競争がゆとりある社会に必要であるのか疑問に思う人がいるかもしれないが、切磋琢磨という自主的、積極的に行うよい緊張の後にだけ中庸な談合のできるよいゆとりを社会の中に生むことができるからで、切磋琢磨という競争はゆとりある社会を作るために必要不可欠なものなのである。

共同体感覚を持った人間とはつまるところ、お互い様です(おもいやり)、と素直に言える人のことだし、自尊心のある人とは要するに自分の良心の判断を大切にする人、つまり勇気のある人のことだし、切磋琢磨ができる人とはおかげ様です(知足、謙虚)、と素直に言える人のことだが、そう言ってしまうと身も蓋もないので詳しく分析しよう。

まずはじめに言っておきたいことだが、インフレ下、つまり全体のパイが大きくなるとき、人手不足のときは人は自尊心を持って生きることや、切磋琢磨したり、連帯したり、共同体感覚を持って生きることは容易だが、デフレ下において、つまり全体のパイが縮小していくとき、人あまりの時においてはどうしても人は他人に対して攻撃的になり、自らの良心に反して損得勘定で行動したり、つぶしあいとしての競争をしたり、利己主義者になりやすいという認識を前提としてもっておきたい。しかしにもかかわらず、今我々はデフレ下においてどのようにすればゆとりある社会を築けるのかということについて考えているのである。

デフレ下の神の見えざる手が存在しない経済において中庸を愛するためには各々が積極的自主的にゆとりある社会を築こうと思い行動しなくてはならない。ゆとりある社会を築くためにはお互いに信頼することが必要条件だが、誰も人に他人を信頼するよう強制することはできないことが問題を難しくしている。

つまりゆとりある社会(中庸経済システム)に入会するためにはそれなりの資格がいるということである。他人を信頼できない人、信頼したくない人、つまり被害者意識に凝り固まり、自分が感じている屈辱感を機会があれば他人に味わせそうとしているような他人への敵意を捨てられない人、傲慢、横柄なフリーライダー、絶対に自分だけは幸せになりたいと強く執着している人はデフレ下でパイが縮小していく公正経済システムの中に留まるしかないともいえる。

共同体感覚を持つ前提条件としてはお互いの信頼関係が必要である。他人を信頼するためには、勇気がなければできない。「勇気を失うことはすべてを失うことである」、とゲーテが言っているがまことにその通りで臆病者は勇気がないから他人を信頼できず、他人を疑い、他人の悪意を確信してしまう。そしてその想定される悪意から身を守るために利己主義者にならざるを得ない。ゆえに臆病者は常に卑賤になのである。

現代社会が至上価値とする公正さという徳はできるだけ勇気を持たずとも快適に生きていけることを目指している徳とも言えるが、その公正さという徳が作った現代先進国の血も涙もない極悪非道の人非人がはびこる社会が反面教師として人間にとって勇気の大切さを雄弁に物語っている。

 

 

明日に続く

 

デフレ克服法 2

 

また大衆というものは臆病者だから、できるかぎり自分自身は一生安全圏の中で生活したいと願う。民衆は本質的にリスクある贅沢な生活よりも安全で安定的な質素な生活を望むものなのである。より安全圏の広い社会とはゆとりある他人にやさしい利他的な社会なのではあるが、大衆がどうしても捨てられない他者一般に対する敵意が他者にゆとりある生活を与えることを拒むので、代わりに大衆は運が作用するような(意識的に予見できないような)あいまいな選択肢が少なければ少ないほどいいことだとして、なるべく運が人生に作用する確率を減らし、できるだけ目に見える肩書き、学歴ですべてが決まる社会、つまり減点方式で人を評価するギスギスした階級社会を望ましいとする。

真のチャレンジすることには恐怖感がつきものだし、恐怖感を克服してチャレンジしてこそ人は真に成長するものだが、大衆は真にチャレンジして社会に有益な貢献をした者が成功するのではなく、基本的に恐怖感の伴わない偽のチャレンジ(テスト勉強)によって社会的勝者と敗者が決まり、所得格差が決まる社会が望ましいとする。

大衆がいかに恐怖を忌避し、減点法で人が評価される社会が望ましいと古来から思ってきたかは法律を見ても分かる。法律では殺人など悪いことをした人は刑務所に行き罰を受けるべし、と書かれていても世の中にとっていいことをした人には何か褒美をとらすという規定がない、つまり法律とは本質的に減点法のルールブックなのである。

減点法で人事が評価される世の中とはつまり何事も現状維持を心がけ失敗しない人が評価される世の中、つまり何もチャレンジしない人が一番評価される世の中なのだが、そういう世の中ではデフレは克服できない。なぜならインフレ時には神の見えざる手が働いていたがデフレ時には神の見えざる手が働かないので、デフレ時には神の見えざる手に代替するシステムを新たに考え、積極的に導入し、それを維持管理しなければなければならないからである。つまりデフレを克服するためにはどうしても世の中をいい方向に変革する人を加点法で評価しなければならない。

 

また大衆は恐怖感を感じないためにできる限り他人を信用する必要のない社会を望むため大衆は社会に過剰な透明性を要求し、プライバシーの自由の全くない監視社会を望む。つまりそのように各人がお互いを敵視し合い、お互いが陰でズルをしないように監視し心の余裕のない(つまり無駄のない、合理的に)、正々堂々とただ自分の利を最大化させようと全ての人が考えているシンプルな社会で自分の幸せを築きたいと考えるのが大衆であり、また大衆の愛する公正さという徳の本質なのである。

また上記のとおり公正さは他人への不信が基盤にあるため公正さを愛する大衆は必ず短期的利の最大化を強く求める。(長期的利を最大化させるためには他人への信頼が必要不可欠だからである)そのことによって資本主義の本質である長期的大局的努力が不可能になり公正さがその意味でもデフレを悪化させる要因となることが理解できよう。

 

 

上記のような理由でデフレは起こるわけであるから、その解消法は神の見えざる手の代替として、及び自由競争の代わりに談合することになる。具体的には移民の禁止や派遣制度の廃止等を行い、労働者間で雇用の奪い合いによる賃金の切下げ競争、雇用の過剰流動化を回避し実質賃金の向上と雇用の安定化を目指し中間層を拡大させることによる需要の拡大を目指すことについて話し合うこと。また国際協調によって地産地消を推進することとし、そのことによって各国が分厚い中間層を作り、グローバル時代よりは小さいけれど、格差の少ないより健全でより幸せな社会を作ることによるゆとりある社会の創造と需要の拡大の追求をすることについて話し合うこと。企業間でつぶしあいの競争をやめさせ、かつ個人が心のよゆう、ゆとりをもつために国際協調による全世界の工場の深夜操業の禁止をするについて話し合うこと。企業間で談合、話し合いをすることによって企業間の競争をつぶしあいから切磋琢磨に変えること。また企業間のつぶし合い緩和のために新規参入事業者を許可制にすることについて話し合うこと。また抽象的に言えば自分の幸せ、勝利を人生の目的とするのではなく自分が人間的に向上すること及びみんなで幸せになること、次世代に幸せな社会を残すことを人生の目的とすること。公正な社会(みんなが納得する社会)を作ろうと目指すのではなく、中庸な社会(みんなが幸せになる社会)を作ることを目指すことがデフレを解消する根本的な方法といえる。

上記のような解決方法を実行することによりデフレは克服できるが、もう少し上記のデフレ克服法の詳細な分析をしてみよう。

 

 

 

明日に続く

デフレ克服法 1

 

デフレ克服法 

一応はじめに十分な構想を練って書き始めたのですが、文章を書いている途中でひらめいて哲学的発展をしてしまったため、グダグダな文章になってしまいました。4・5年先に本にするときはもう一度構成を練り直して流暢性をもって書くつもりですのでとりあえず今現在の文章の下手さは見逃してください。

 

 

デフレとはどうして起きるのか、及びデフレの克服方法について語ろうと思う。

まずデフレとはどうして起こるのかというと平和な時代が長く続きすぎ(大体大戦争後または内乱で供給施設が壊滅してから後7080年ほど経ってしまって)民衆の需要が頭打ちになり、そしてその需要に見合う工場やその他の供給力がすでに世界に整備されているのにも関わらず、さらに産業界に新規事業者が押し寄せ供給過剰になったことが原因になり起こるものである。

またデフレの定義を一般的に言うと、産業界にそれまで需要過剰時に起こっていた企業間でお互いの商品の品質や魅力を向上させ合うような切磋琢磨という競争がいつの間にか供給過剰になりつぶしあいというお互いの会社の倒産を望み合うような競争に変わることをいう。具体的にいえばデフレとは商品の低価格競争による物価の下落と商品の低価格競争をする一貫として人件費の切り下げ競争が起こりそれによる実質賃金の低下による、国家経済の不況、つまり低いもしくはマイナスの経済成長をいう。

需要過剰時には各自が自分の利を最大化しよう、つまりともかく競争に勝利しようとだけ考えていても神の見えざる手が働き自然に切磋琢磨という全体の長期的利から見て好ましい競争が起こっていたが、供給過剰時に各自が何も考えず自分の短期的利を最大化しようとすると神の見えざる手が働かず、悪魔の見えざる手が働き、つぶし合いという全体の利、長期的利を毀損する短期的利を追求する競争が起こってしまうという認識こそがデフレがどうして起こるのかという理由を理解するうえでの最大のポイントである。

またデフレの原因を現代の株主資本主義、金融資本主義に求めることもできる。現代の株主資本主義、金融資本主義の最大の問題点はどこにあるのかというと農業や製造業、小売業などの労働にはお金を稼ぐという利己的な動機があるのと同時に何らかのモノやサービスを社会に提供するという社会貢献という利他的な動機、目的がある。つまり労働とは自分を幸せにしようと思って他人を幸せにする道であり、また他人を幸せにしようと思って自分が幸せになる道である。それに対して個人投資家や証券会社の投資は純粋に1円でも多くのお金を稼ぐという利己的な動機しかないギャンブルであることを本質とする。そして純粋に利己的に行動する投資家、株主が国家間に法人税の切り下げ競争を求め、企業間には株主資本配当率の引き上げ競争、労働分配率の切下げ競争を求める。このことにより金が循環せず投資家、株主だけがどんどん富を蓄積していって、労働者、大衆から金が奪われていき、格差社会になり、その結果需要が減少していく。つまり株主資本主義とは本質的に他人を不幸にして自分が幸せになろうと追求することともいえる。そういうわけで株主資本主義はデフレの原因となるのである。

また現代の金融資本主義はデリバティブによって信用創造を極大化させ企業が借金をしやすくし、その金で企業が供給力を強化し、より企業間のつぶしあいの競争を激化させデフレを促進させるとも言うことができる。また企業は借金した金で自社株を買って株価を上げてその企業の株主が儲けさせること、つまり株主資本主義を後押しすることを目的とすることで金持ちをより金持ちにし、貧乏人をより貧乏人にすることによって需要を長期的に見れば縮小させデフレの原因となるということも言える。

また哲学的に見れば公正さという価値観を民衆が至上価値とすることにより、デフレを後押しし、より悪化させているとも言える。ここで注意しなければいけないことはインフレ時代は前述しているとおり各自が自分の利をともかく最大化させようとする公正さという徳(利己的な自由で公正な競争至上主義)がはびこっても神の見えざる手が働き、結果は一応我慢できるものにはなるが、供給過剰時、デフレ時には利己的な自由で公正な競争(公正さという徳)は99%の人に牙を向いてくるということである。公正さという徳は上位1%から見た公正な社会を求める徳なのだが、その公正な社会とはともかくみんなが納得のできる社会を意味する。そもそも経済とは経世済民という言葉に由来があり、本来国民全員がゆとりをもって健康的かつ幸せに暮らせる社会を作る方法を考えるものであって、みんなが一応納得するが99%の人が不幸になる社会を作ることを目指すものではなかった。だが、そのことはひとまず置いておいて、とりあえず今は悪い公正さが作ろうとする公正な社会とはどういうものか分析してみよう。

知能の低い大衆が理性的に納得する社会とは安全で効率的、合理的でなければならない。つまりその社会は無駄がなければないほどいいし(つまりゆとりのないギズギズした中央集権的社会を大衆は望む)、また大衆は自律的でなく他律的、依存的でエリートのトップダウンにより強制的に働かされて、何も考えなくても自然に金を得ることができる社会を安全な社会とみなす。また大衆が意識上よく認識できる価値観、損得勘定と勝ち負けですべてが体系的に説明できる社会が望ましいと大衆は思う。(つまり被害者意識に凝り固まった大衆はみんなが幸せになる道を話し合おうとするよりもみんながお互いを尊重することも信頼することもなく、単純に損得勘定だけで行動し、その結果競争に勝った一番利にさとかった者が勝利を手に入れ、利益を総取りする社会に納得する。)

無駄のない効率的な社会、短期的全体の利を追求する社会とは長期的に見れば弱肉強食を信条とし、必ず他国と際限のない軍拡競争することにより99%の国民を貧しくする。または結局公正さとは社会における勝者の為の無駄のない効率的な社会を作ろうとすることだから最終的に奴隷制社会を作ろうと目指す。そういうわけで基本的に大衆は貧しくてプライバシーのない奴隷となる運命だが、今の非正規社員に対する正社員の傲慢無礼な態度を見ても分かる通りほとんどの大衆は恥知らずの低脳な小悪党であるから長期的視野など持ち合わせておらず自分は支配者の側に回れると確信して1%の勝者のための公正な社会の構築しようとすることに異議を唱えない。

 

 

 

               明日に続く