被害者意識の強い人間も加害者意識の強い人間も双方長所がある。被害者意識の強い人間は社会の細かいところに目がいき、社会の無駄をなくし、社会を合理的、効率的にしようとするし、加害者意識の強い人は社会を大局観をもって見、社会全体のシステムを改善して社会を向上させようとする。そういうことから、被害者意識の強い人間と加害者意識の強い人間が時々意見交換をするのは有益だが、交感神経のもたらす緊張と副交感神経のもたらすゆとりを強引に融合しても決していい精神状態が生まれないように被害者意識の強い人たちと加害者意識の強い人たちを一緒の共同体に入れ、つまり公正な社会と中庸な社会を融合しようとしてもいい社会は生まれない。
冷たい言い方かもしれないが被害者意識に凝り固まった人、つまり自分が得することだけ、自分が幸せになることだけしか考えられない人は公正さと自由競争を至上価値とする恐怖と対立をあおる社会で生きていくべきだし、そういう社会でしか一人前の人間として生きていけない。被害者意識に凝り固まった人はその弱さから一つの価値観ですべて体系づけられた合理的社会しか愛せないからである。中庸と公正さという二つの価値観を同時に持つ矛盾を許す心の広さというものを持つことはできないのである。
また加害者意識に苦しんでいる人たち、つまり他人のため次世代のために世界をよりよくしたいと考える人たちは、すでに自分が存在しているという罪悪感に十分苦しんでいるので、そのうえ弱肉強食のパワハラや学歴差別のあるような屈辱感に満ちた公正経済システムのなかでさらに苦しむべきではないし、共同体感覚を持って世界全体の利を最大化するために中庸と切磋琢磨を美徳とするような社会で自律的に努力して生き、公正経済システム内で生きているときよりももっと創造的で大局観に立った仕事をして社会に貢献すべきなのである。もちろん公正な社会で全体の利に対して配慮して働く人がいてかつその人が希望すれば中庸な社会に移動できるようにすべきだし、中庸な社会で初志を忘れ、自分の利だけを追求して社会の友愛、連帯感、共同体感覚を壊そうとする人は強制的に公正な社会に移動させるべきことは言うまでのない。また本来中庸経済システムに入るべき人でも公正経済システムの中で生きて弱肉強食、冷酷非情な公正経済システムを少しでもいいものに改善したいと思う人は公正経済システムに入れるようにすべきでもある。
デフレ下においてはすでに述べたようにデフレによって失われた神の見えざる手を全体の利を最大化するための談合によって代替させなければいけないから、加害者意識の強い人たちが組織する中庸経済システムを被害者意識の強い人たちが組織する公正経済システムより上位に置かなければならないことは致し方のないことであろう。
ここまで読んで私の意見に対して否定的感情を抱いている人も多いと思うが、なぜ一つの共同体に中庸と公正さの二つを同等の至上価値と置くことができないかということは、なぜ古代にあった中庸という美徳が今まで何千年も中庸という言葉だけ残って、その言葉の定義さえ失われていたのかということについて説明すると分かりやすい。
中庸とはそもそもどういうものかというとものすごく正義感が強い男が自らの加害者性(他の生命やほかの人の犠牲の上に自分が存在しているという意識)に真剣に苦悩した末に獲得する徳である。つまり中庸とは正義よりも上位の徳であるが、正義という徳の基盤がなければ存在できない徳でもあるともいえる。
どういうことかと具体的にいうとまず最初に悪い公正さを愛し、日本に派遣社員制度という準奴隷制度を敷き、かつプライバシーの自由のまったくない完全な監視社会、管理社会を築いて日本を搾取しようとする在日朝鮮人や竹中エタ蔵のような穢多が世の中にはびこる。
次に正義を愛する日本第一党の桜井誠が正しい憎悪をもって在日朝鮮人を叩き出そうとし、穢多を一人っ子政策により絶滅させようとする。卑賎な在日朝鮮人や穢多は、恐怖に怯え最後に山本太郎や共産党などの中庸を愛する集団に「俺たちは同じ日本に住む仲間じゃないか。お願いだから助けてくれ」と命乞いをする。そして山本太郎や共産党は「ヘイトはよくない、もっと博愛的にみんなが幸せになれるような社会を築こうよ」、と日本第一党を批判することにより、中庸と正義の間に決定的な溝ができ、正義を愛する桜井誠は山本太郎や共産党に距離を置くようになる。そのあと時が経ち山本太郎や志位和夫といった強いリーダーが死に、ただの弱者の集団となった中庸グループに公正さを愛する在日朝鮮人や穢多がまた本性をむき出しにして襲いかかってくる。「何が助け合いだ。ふざけるな、てめぇ。誰にも迷惑をかけずに生きろ。特に俺には絶対に迷惑をかけるな。自己責任だ」と長年隠していた敵意を丸出しにして怒鳴りつける。善良な弱者の集団となっているその時の中庸な集団はすっかり怖気付きまたブラック企業の従業員のように良心を逆手に取られ、公正さのいうこともある意味最もだと思い、なるべく他人に迷惑をかけまいと生きるようになり、その結果心の余裕、心のゆとりを失っていく。
中庸とは利他行為をする時に輝く徳であって、自分を守るためには輝かない徳なのである。そういうことで結局、正義に見放された中庸の集団は最終的に中庸を捨て、公正さを愛するようになる。
最後に公正さと正義の集団との最終決戦が行われるが、たとえ正義が勝って、正義が支配したとしても前章でも述べた通り、正義は中庸を伴わず、それだけによって支配しようとすれとあっというまに公正さに経年劣化してしまい、結局公正さが社会を支配することとなる。
つまり正義と中庸が意見を異にするときは中庸の方の集団の数が多い時でも正義の意見を通さなければ中庸は死んでしまうのだということである。何千年もの間、人はどうしてもそのことを認めたくなかったから中庸という美徳は消えていたのである。そして今私の意見に否定的感情を抱いている人たちも中庸という美徳を葬り去った過去の人々と同じ過ちを犯しているのである。いつまでも被害者意識に凝り固まってこの世界に存在していたい、何が何でも、自己正当化して、自らの存在の無罪性を感じたい、自分の加害者性に目を向けたくない、自己否定したくない、苦悩して生きていきたくないと思っている人は残念ながらどうしても中庸という美徳の存在を維持させるために、正義を中庸に優先させるということはできないのである。
明日に続く
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