また共同体感覚を持つためには人は他人を信じる勇気を持つだけでなく、人間は助け合うために集団化し、社会を作ったという当たり前の認識をきちんと持つことが重要になる。その認識が困っている人がいて自分が簡単に助けられる状態だったら当然の如く手を差し伸べる隣人愛の表現を容易にするからである。
利他的行動により隣人愛が強化され、意志化されたとき他人を信じる勇気がさらに強化されるとも言えるし、損する勇気をもって利他行為をすることが、各自の隣人愛を強化してお互いを信頼しあえる社会を作るともいえる。
そしてお互いに相手の善意を信じられ共同体感覚を持てるからこそ、お互い様です、と言えるようになるのである。
言葉にするのは簡単だが、確かに実践するにはかなり難しそうだ。だが政府が相互扶助社会を構築しようとするとき、または政府が障害者やホームレス、シングルマザーの娼婦などに支援の手を差し伸べようとするときにとりあえず不公正だと主張してお互いへの敵意を煽らないだけでもデフレを克服する程度の最低限の共同体感覚は一応なんとか足りるであろう。また、もしどうしても隣人愛を持てそうもない人は前章でも述べた通り社会の全体の利というものについて自らの損得勘定という価値観で考えて、共同体の全体の利を拡大することにより自分の利も間接的に拡大するものだと理性的に考えてなんとか同意してもらうしかない。
また共同体感覚を各自が持つためにはみんなが格差の小さいホワイトな労働環境に置かれる必要がある。現在の派遣社員や外国人労働者など奴隷的境遇に置かれている人に日本社会に対して共同体感覚を持てということが無茶であることからもそれは自明であろう。人間扱いされなかった恨み、不安定で低賃金な労働をさせられる屈辱感は必ず人から共同体感覚、自尊心双方を奪い、社会への復讐心を育ててしまうからである。
つまり中庸な談合とは誰もがほかの人を出し抜いて自分だけ贅沢して暮らそうとする生活を目指そうとするのではなく、供給過剰なのだからGDPの高成長を目指すことは困難であるがみんなで話し合ってゆとりある安定した雇用を作ることは理論的には容易であることを認識し、そのような屈辱的でない安らかな生活を目指そうとすると可能になる。つまり中庸な談合をするためには人々が弱肉強食というルールは決して変えられないルールであると考えず、各自が被害者意識を捨て、自尊心を持って自力本願になり自分の体重は自分で支え、他人を搾取しようとせず、かつお互いに仲間意識を持って信頼し合って共存共栄というルールを作り出して維持できると確信することが重要となる。
次にデフレ時代に切磋琢磨という競争を生じさせるためにはなにが必要かということについて考えてみよう。切磋琢磨という競争が古来からきちんと生じている業界、建設業について見てみると、切磋琢磨という競争をするためには適度な談合と適度な競争が必要であることが分かる。中庸な談合がお互いへの信頼を生み、デフレ下でも切磋琢磨できるようにし、切磋琢磨という競争がお互いへの尊敬、尊重の念を生み、より中庸な談合をできるようにするからである。
またお互いに向上し合おうと切磋琢磨する道徳的社会では自然におかげ様です、という言葉をみんなが言い合うようになる。どうしてそうなるかというとお互いに向上し合おうと切磋琢磨して勝者になった者は、相手がつぶし合いの競争をしかけてこず、つまりある程度のところで相手が負けてくれたことに感謝できるようになるからである。そのような社会では必ず勝者は敗者にとどめを刺そうとはせず、かつ自分の勝利者としての権利を最大化しようとはせず、共同体がゆとりを持つために幾分かの富を社会に残すことを厭わない。つまりおかげ様ですとみんなが言い合う社会とはみんなが足ることを知る社会であり、現在の焦りに満ちた、自分の権利を積極的に主張しなければ権利が踏みにじられる社会、自分の利を常に最大化することを強く要請される社会とは基本的に正反対なのである。結果、そのような社会では他人の良心、善意をより信じられるようになる。そしてその利他行為によって勝者自らも良いゆとりが持て、社会もゆとりが持てることによってデフレ下でも人々は容易に協調でき、連帯でき、共同体感覚を持てるようになるのである。
明日に続く
0 件のコメント:
コメントを投稿