2020年12月8日火曜日

デフレ克服法 8

 

少し例として十分でなかったのでもう一例、具体例をあげて説明する。

日本の安全保障政策についてである。中国が日本に侵略してくる確率は最新の防衛白書でも万に一つ、つまり0.01%くらいと言われている。一方南北間の経済格差と南アジアやアフリカで近未来必ず起こる大飢饉が原因になって第三次世界大戦、核戦争が勃発して人類が滅亡してしまう確率はどう考えても10%くらいは最低でもある。(すでに毎年1000万人近くの人々が発展途上国では貧困による病気などで死んでいっているので、大飢饉自体はもう始まっているともいえる。またインド、パキスタンは核を保有しているので南北世界間で戦争になればほとんど失うものがないインドやパキスタンが核戦争を望むことは大いにありうることである)

このような確率論から理性的に賢明に考えれば日本は中国からの侵略に最新鋭の戦闘機や潜水艦を開発、配備して備えるよりも南アジアやアフリカに技術援助や低利の有利子資金援助を行い、南アジアやアフリカの人々にできるだけ自分で働いて自尊心を持って生きていけるようにして、南アジアやアフリカの人々自身が他律的、奴隷的に生き先進国への怨恨、憎悪をいたずらにつのらせるのではなく、その自尊心によって自律的、自由人となって人類以外の他の生物のためにもこの水と緑にあふれた地球を存続させようと自由意思によって思うことが日本の真の安全保障とあることは明白である。

しかし、にもかかわらず日本政府の防衛政策は発展途上国に対してはできる限りの援助はすべきだが、自国の安全保障はそれによりおろそかにすべきではないので、中国からの侵略に備えて今の軍事費を倍増して、具体的にはGDP2%くらいを軍事費に充て最新鋭の戦闘機や潜水艦、ミサイルの開発や配備しすることが日本の安全保障にとっては好ましいとしている。

軍事費をGDP2%くらいにすべきだというこの政策は5年10年という短期的に見れば確かに日本国の存続確率を99.99%から99.999%くらいに高め日本をより安全にするが、100年、200年という長期的に考えれば日本国の存続というよりも人類の存続確率を90%から50%くらいまで落とすし、かりに100年後人類、日本国がまだ存続していたとしても日本は南アジアやアフリカから徹底的に憎まれ、恨まれているだけでなく、世界の大多数の国々から敵意を抱かれているだろうから他国と友好的な関係を持っていないと生きていけない貿易立国の日本は少なくとも貧しくなっていることは確実である。

上記の二つの対照的な安全保障政策はどこが根本的にちがうのかというと、理性的に考えて現在の人口爆発という最大の危険の前には最新鋭の戦闘機や潜水艦な度というものは何の役にも立たないものであるから発展途上国にできる限りの援助をすべきという主張には、人は他人から人間扱いされず、屈辱的に扱われれば必ず他人を憎悪し、報復してくるという大慈悲に基づいた価値観があるのに対して、長期的、人類全体のことは考えずともかく個人主義に徹して自分の短期的利だけを考え、地球および人類全体のことは他の誰かが考えるだろうと無責任に確信し、短期的、近場の中国からの侵略という脅威に対して最新鋭の戦闘機や潜水艦を開発、配備すべきという主張の奥底には公正さ、弱肉強食という思想に対する全肯定があり、その全肯定の基盤には外の世界に対する敵意と恐怖感で心がいっぱいで目先のことに反応することしか頭を使えない盲目的自己愛、生への意志、愚かな利己主義がある。

またこの主張は、弱者は侮辱すればするほど、虐待すればするほど無抵抗になり、従順な奴隷となるという確信がある。おそらくこのように考える人間はそのような人間なのだろう(笑)。だがしかしヴェーダの教えを今に受け継ぐインド人やパキスタン人はすべての発展途上国で虐げられ、死んでいっている何の罪もない子供たちの無念を晴らすために極悪非道の先進国に対していつか必ず核で報復してくると私自身は確信している。

つまり何が言いたいかというと21世紀になってもはや地球の資源の有限性が分かったことから人類が無限に増えることができないという真理が眼前に突き付けられている今、20世紀までと同じように偽善と公正さを至高価値とすることは人類の存続を危機的状況に置くほど愚かなことであるということである。

また目前に迫った有史以来最大の世界的大飢饉において発展途上国を見殺しにした場合、金輪際自分の子供に道徳というものを教えることは口が裂けてもできず、日本国内において基本的道徳というものが根本的に破壊されてしまい、すべての日本人がお互いに殺し合い、騙しあい、奪い合うことを肯定するような修羅界が日本に出現してしまうこともまた問題となる。

21世紀において偽善と公正さに社会を支配させることは極めて愚かであるということについてはこのくらいでいいであろう。

ここまで書いてきて今、はたと気づいたのだが、基本的に今まで書いてきたことに間違いはないのだが、ミクロの個人道徳とマクロの社会道徳を明確に分けずに混同しながら説明しようとしてきたのでここまでややこしい文章になってしまったともいえるので、ここでミクロ道徳とマクロ道徳(社会道徳)とを明確に分けてその関係性について述べたいと思う。

個々人を剛強な魂を持つ個人主義者(よく言えば強さと独立を愛する男らしい人、悪く言えば自分の権利、利を最大化しようとする自分勝手な人)と規定して、社会は彼ら個人主義者の集合体だとみなすと、個人主義者同士がお互いの正義、権利を主張し争う社会が生まれ、必然的にそれらを調停するために公正さがマクロの至上道徳となり、その公正さが学歴社会を作り、個人のミクロ道徳でも公正さを至上価値と置かせるようになる。

個々人が柔弱な魂(よく言えば自我と共同体との境目があいまいなしなやかな優しい魂、悪く言えば意志薄弱な弱い魂)でそれなりに隣人愛を持つ存在だと規定して、社会は彼ら柔弱な魂を持つ集合体だとみなすと彼らは和やかに話し合い、全体の利に配慮した安心感のある互恵的な社会に作ろうとする。マクロ道徳はお互い様、寛厚、おかげさまといったような中庸を至上価値とする。

具体的に言えばミクロ道徳の思いやりがマクロ道徳のお互い様になり、ミクロ道徳の無償の利他行為がマクロ道徳の全体の利を最大化するための寛厚に変わり、ミクロ道徳の知足がマクロ道徳のおかげ様に変わるのである。

なぜそうなるのかというと個人はそれなりに無限の隣人愛というものを感情として表現することは可能だが、社会は資源が有限であるために人類は無限には増加できないし、微視的に言えば国家予算は有限であるので行為としては隣人愛を優先順位をつけて限定的にしか表現することはできないからである。

つまりミクロの中庸を空虚なマクロの偽善に変えず実のある美徳のまま保つためには、他人の利、社会全体の利を尊重することが必要不可欠なのである。

 

 

明日に続く

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