2024年1月31日水曜日

ファシズム、ナチズム克服法 3

 

さて、どうすればファシズムを克服できるかということについて考えてみる。

ファシズムというものは上述している通り民主主義(アメリカンデモクラシー)と同じように他人への敵意という感情を土台とした思想である。政治的な他人への敵意というものの本源には近代人を魅了してやまない幸福追求権というものがある。義理や人情などの面倒くさいことを考えず、ただ自分の幸せだけ、自分の利だけを追求する自由を政府が権利として認めたものを幸福追求権というのであるが、この自由、自己愛の解放と他人への敵意は表裏一体なのである。幸福追求権はマネーと同じように小人に対して、小我に対してあくまで甘くやさしい。が、しかし幸福追求権の中には一片の共同体感覚もない。つまり幸福追求権は人々を赤の他人への敵意に凝り固まらせるだけでなく、人々から共同体感覚を奪い、人々を家族や友人などの隣人とも無連帯にさせ、資本主義、マネーの支配をより強めてしまうのである。

上記のようなことを理解して、幸福追求権というものを政治的に認めなくなればファシズムは克服できる。(ついでに偽善に満ちたアメリカンデモクラシーも克服できる。)結局人生においては義理や人情などいろいろ面倒くさいことを忌避しようとすると、暗く冷たい社会をいつのまにかに作ってしまうものだという当たり前の真理に気づくということがファシズムを克服するということなのである。

ではどのような感情を土台としてどのような思想を持てばまともな国民国家を築けるかというと、弱者への共感、同情という感情を土台として格差の小さい、最小不幸社会を築こうと思えばまともな国民国家になれるはずである。政治というものはいつの時代の君主でも大統領でも領民のため、国民のため、つまり他人のためにする利他行為であって、自分や自分の党派の利の最大化のため、つまり利己主義に基づいてするものではないのである。

また国際政治経済的に言えば、搾取のない国際関係を作れば、ファシズム国家は340年で必ず自滅していくのでそれまでゆっくりと待つというのも戦略としてありうる。搾取のない世界ではファシズムとは決して持続可能な国家体制ではないからである。

また心理学的に言えば前章でも述べた通り、被害者意識に凝り固まった人が自らの差別愛と他人への敵意を強く正当化するので、国民一人一人がきちんと加害者意識を持てばファシズムは克服できる。

おそらくほとんどの人はファシズム政権下の暗く冷たい社会よりももっと明るく温かい社会に住みたいと思っていることだろうが、明るく温かい社会を築くためには一人一人が真のやさしさをもたなくてはいけない。そのためにはきちんと加害者意識を持つことによって多少自分の小我を自主的に傷つて差別愛の殻を破り、多少たりとも無差別愛を意識上に表出させなければならないということである。

また哲学的に言えば、死を重んじ、総体としての人生を大切にすればファシズムを克服できるともいえる。死を重んじ、総体としての人生を大切にすれば損得勘定だけを考えて生きることをやめらる。損得勘定だけ考えて生きることをやめれば、心にゆとりを持て社会全体の利を考えられる。社会全体の利を考えられれば正義(憎悪)を愛せ、弱者への敵意を持つ人を憎めるというわけである。

 

ファシズム、ナチズム克服法 2

 

さて、ここでファシズムの克服方法を考えてみる前に、ちょっと1930年代の大恐慌下、デフレ時代のファシズムと共産主義と民主主義(アメリカンデモクラシー国家)とこれから21世紀、スタグフレーション下において主流になるであろう中庸主義の違いについて分析しておこうと思う。

ファシズムというものは上述している通り、資本家及び健康な中産階級による、資本家及び健康な中産階級のための合理性の追求を正義として、その合理性を追求する原動力となる弱者への積極的敵意という感情を肯定する。

共産主義は中産階級と下層階級による中産階級と下層階級のための平等の追求を正義とし、その平等の追求のための原動力となる持たざる者の持てる者への憎悪という感情を肯定する。

民主主義は人権、自由、幸福追求権という偽善、きれいごとで身を隠しながらも、上級国民や資本家による、上級国民や資本家のための公正さの追求を正義とする。(ここでいう公正さとは、実力主義、弱肉強食の論理の全肯定である。つまり持てる者、上級国民などの強者は未来永劫勝ち続けるのが当然であり(なぜなら世の中は弱肉強食であるべきだから)、もし負けそうになったとしたらそれは世の中で何らかの不公正が行われているという価値基準である。つまり公正さの追求とは階級の固定化の追求ともいえる。)そして民主主義はその原動力として上級国民や資本家の中産階級や下層階級への消極的敵意(冷笑、軽侮)と自身の持っている卑劣さといった感情を肯定する。

上級国民や資本家の利益を守るために民主主義国政府は必ず中間搾取者を作り民衆を分断統治しようとする。日本を例にとるとまず日本のトップには米軍がいて、その下に明治維新以来の上級国民の朝鮮系日本人と第二次大戦後来た在日朝鮮人がいて(部落解放同盟や暴力団、民団、朝鮮総連など)、彼らが反体制派や独立派に対して集団ストーカーをしたり、精神病院に強制入院させ薬漬けにして廃人にさせたりするなど非合法的抑圧を担当する。さらにその下に警察をトップとする公務員や一流企業の正社員がいて非正規社員やシングルマザーなどに対して侮辱の限りを尽くし合法的抑圧をする。公務員は一流企業の正社員はその対価として高い給料と高い年金を保証され、また一流企業の正社員女性は長期間の有給育児休暇などのさまざまな福利厚生が認められている。(もちろん公務員の高い給料や高い年金、一流企業の正社員女性の有給の長期育児休暇の原資は非正規社員に対する苛烈な搾取から生まれていることについては読者も異論はないと思う。)また公務員や一流企業の正社員が贅沢して暮らさせること自体が、民衆の憎悪を米軍や朝鮮系日本人からそらすための統治戦術でもある。

大体このような統治システムにより日本では上級国民や資本家が永続的に階級を固定化させている。

中庸主義は99%の国民による、99%のための全体の利の最大化の追求を正義とする。ファシズム、共産主義、民主主義とも支持母体の利己的利の追求を正義としていたが、中庸主義はみんなの利の追求を正義とすることによって利己主義から解放されているのが前者たちとの決定的違いである。中庸主義はその全体の利の追求を可能にするために1%の上級国民や裏切者、フリーライダーや売国奴への憎悪という感情を肯定する。

そういうわけで、政治というものが明るく温かいなごやかな弱者にやさしい国家を作ることを目的とするものであったら、21世紀、もう発展途上国を搾取することができない状況下においては、憎悪を肯定する(つまりみんなの正義感が納得する)共産主義国家や中庸主義国家などの徳治国家が望ましいと言える。(敵意を肯定する民主主義国家、ファシズム国家などの功利至上主義国家というものはしょせん20世紀、植民地主義を肯定、正当化するために存在していたわけで、21世紀にこれらの体制で国家運営をするならば、恐怖によって社会を支配せざるを得ないということでもある。なぜならもう発展途上国から毎年搾取することによって本国にもたらされた富がなくなるから、みんなが自分の利の最大化を追求することを肯定する政治体制、他人への敵意肯定する政治体制ではみんなが納得する国家運営をすることは不可能で民衆の間に不平不満が充満するので、それらを抑圧するために恐怖政治にならざるを得ないからである。

どの体制を持った国家が軍事的に強いかというと、工業生産力が同じなら民主主義国家は偽善(きれいごと)をかなぐり捨てたファシズム国家には勝てないし、弱者への敵意に凝り固まったファシズム国家は持てる者への憎悪で凝り固まった共産主義国家には勝てない。なぜなら敵意というものは自分よりも圧倒的な弱者に対しては執拗で凶暴だが、自分と対等な武器を持っている者には弱いからである。対照的に憎悪は自分より強いものに対しても自分の命さえも顧みずに立ち向かっていく。つまりしょせん敵意は恐怖に基づく利己的で卑劣な感情であり、憎悪は大慈悲、正義感に基づく非利己的で高貴な感情であるということである。

共産主義と中庸主義が軍事的に見てどちらが強いかということは現時点では分からない。

GDP競争、経済戦争においてどの体制を持った国家が強いかというと、1930年代のデフレ下においては、つぶしあいを含むすべての自由競争を肯定する民主主義国家が最弱で、次に自由競争を完全否定する計画経済の共産主義国家があり、最強だったのは長期的視点に立った産業計画があり、かつ談合と切磋琢磨を推奨したファシズム国家だったというのが私の見解である。

第二次大戦後、ヨーロッパと日本の工業地帯が焼け野原になったことによりデフレが解消された後は、確かに自由競争を完全肯定する、第二次世界大戦で工業地帯が焼け野原にならなかったアメリカが勝ったように見えるが、これは対等な経済競争ではなかったし、もうファシズム国家もなかったのでここでは考慮しない。

21世紀これから始まるスタグフレーション下でどの体制の国家が強くなるのかと推測してみると、やはり長期的視点に立った産業計画があり、談合と切磋琢磨を推奨するファシズム国家と中庸主義国家が覇を競い合うものと思われる。

 

(明日に続く)

ファシズム、ナチズム克服法 1

 

ファシズム、ナチズム克服法

ファシズム、ナチズムについてちょっといろいろと考えてみたのでメモしておく。

 

ファシズム、ナチズムの定義というものは明確には定まっていないが、ここでは国家による優生学の推奨やホームレスや障碍者への虐待、虐殺の肯定、アウシュビッツなどがファシズム、ナチズム的なものとしておく。アウシュビッツというものがどういうものだったかというのもまた現在でははっきりと分かっていないが、ここではアウシュビッツとは、下層ユダヤ人を死の恐怖のみを原動力として無賃で働かせるドイツの国営工場だったという見解にしておく。もちろん最低限のカロリー摂取で衰弱して働けなくなったユダヤ人をガス室で殺処していたことを否定するものではないが、現在メジャーになっているアウシュビッツ強制収容所がユダヤ人に対する屠殺場だったという説は退けるものとする。

要するに合理的判断としての政府による弱者への積極的敵意表現を社会が肯定している国家がファシズム、ナチズム国家であるという見解をこの章ではとっている。

そういう意味ではホームレス排除ベンチやホームレス排除アートが町中にあふれ、また上級国民と正社員の合理的敵意と弱者への搾取の積極的肯定表現として奴隷同然の低賃金で働かせる派遣社員制度を肯定している現代日本は半分ファシズム、ナチズム国家になっているとも言える。

なぜ1930年代のドイツにおいて民主主義からファシズムが生まれたのかというと、最大の理由は大恐慌によって国内経済でデフレによるつぶしあいが激化したことにより、政府が民主主義的きれいごと、偽善で表面を取り繕う余裕がなくなってきて、個々人の心の中にある他人への敵意を表面化させることを正当化しやすくなったことがあげられる。また健康な中産階級の国民の間で満ち溢れた不平不満を政府が弱者への敵意に誘導しなかったら、共産主義革命が起こり支配者層が虐殺されかねなかったため、それを避けるためにファシズム国家になったという事情もある。また第一次世界大戦で植民地を失ったドイツ人が本来植民地人に向けられていた敵意や軽侮の感情を国内の弱者に向かわせたという側面もある。

ファシズム、ナチズムの大義名分は合理性の追求である。政治的合理性の追求とは社会の無駄をなくすことである。社会の無駄をなくすということは社会のゆとりをなくすことである。ここでファシズム国家というものは支配者層及び中産階級誰から見た合理的な社会を作ろうとすることであるから、政治力を使って弱者のゆとりを奪うことが社会の無駄をなくすということであり、社会をより合理的にするということになる。

ナチスドイツを例にとって説明すると、極端な優生思想やアウシュビッツ強制収容所は下層ユダヤ人から見ても、客観的に第三者から見ても非人間的で極悪非道な思想であり、施設であったが、ドイツ国内の上級国民や健康なユダヤ人以外の中産階級の人にとっては極めて合理的な思想であり、施設だった。つまり合理的思考、論理的思考を必ず正しいとする理性から見ると、極端な優生思想やアウシュビッツは正しい思想であり、施設なのである。

 

(明日に続く)

 

2024年1月15日月曜日

正義と差別愛、どちらが大切かということについて  3

 

また差別愛は自己愛と無差別愛の中間にある中的であり、人間にとって自然な感情であるのに対して、アフリカの飢えた子供たちを救うために在日朝鮮人を追放したり、エタを一人っ子政策により絶滅させようとする正義というものは、無差別愛だけを前提とする極めて不自然で非人間的な美徳なので、正義よりも差別愛を大切にすることが人間的で、人道的なことなのだという意見がある。 

(図Bを見る)

 


この意見に対する反論としては自然に任せておけば、肥沃な田畑もすぐ何も生み出さない荒野になり、実り豊かな里山も生物の少ない原生林になってしまうように、人間にとっても他の生物にとっても世界への良き人為的な介入はすべての生物にとって望ましいものであるという二宮尊徳の教えを持ってしたい。正義という鍬で日々、俗世間を耕してこそより多くの弱者が屈辱的な生活から解放されるし、悪党は不幸になり、結果、よりみんなが幸せになる世の中が作れるのである。人道はあくまで作為の道で会って自然の道ではないのである。

確かに差別愛は自己愛と同様に自然なもので悪しきものというわけではないが、悪の前提感情となるもので決して一定以上に尊重してはいけないものであるということである。つまり差別愛と表裏一体である他人への敵意を肯定してはいけないし、弱者の不幸を見て見ぬふりをすることも肯定してはいけないのである。

 

最後に差別愛というものを哲学的心理学的ににもう少し深く分析し、批判してみる。

差別愛主義者の特徴は自分は全く非のない人間、罪のない人間だと思っていることである。逆に無差別愛主義者、加害者意識をきちんと持っている人間は、自分の心はもしかしたら純粋無垢で罪がないものなのかもしれないが、この世界における自分の存在は、数々の動植物の犠牲や発展途上国の人々の犠牲の上に立たざるをえない罪深いものだと確信している人間であり、それに対して罪悪感を持っている人間である。

つまり差別愛主義者は心の弱さから自分が生きているという罪、この世に人間として存在している罪を直視できない人間である。そのことによってこの世界の摂理、全体像も把握できなくなり、差別愛主義者は自分自身をより愚かに、より罪深くさせているのである。

(図Cを見る)


 

なぜなら自分には全く非がない、罪がないと思えば、人は必ず他人や世界を恨み、被害者意識に凝り固まる。被害者意識に凝り固まった人は必ず自分のことにしか興味がなくなり、他人への気遣いも思いやりも良心も捨て、ともかく他人より得したい、幸せになりたいと思う。ともかく他人より得したい、幸せになりたいと思いつめると、必ずこの世界は弱肉強食のゼロサムゲームだとしか思えなくなり、味方(差別愛の対象)以外の他人は敵だと思うようになり、自らの心の中の他人への敵意を正当化するようになる。

そういうわけでこの世界では、ちょっとした心の弱さから自分の存在に非がないと自己正当化してしまう人は必ず卑劣な極悪人、偽善者となるのである。

 

また発展途上国の飢えた子供たちよりも国内のエタや在日朝鮮人の幸せを優先させようとする差別愛主義者は一見すると悪人をも許すどこまでも他人に寛容なヒューマニストに見えるかもしれない。しかし結局、悪人を許すということは、自分の醜く卑劣な小我を許すということと同一なのである。つまりこの弱肉強食の世界を肯定し、弱い善人の不幸を見て見ぬふりをすることによって弱者への敵意を不作為によって表明する極悪非道な自分というものを正当化、肯定することと同一なのである。逆を言えば、悪人を許さない人は自分の醜く卑劣な小我を許さない人間であり、悪を憎み、正義感を強く持つ人間である。自らの小我を律することは自分の大我(魂の高貴さ、弱者への思いやり、良心など)を守ることと同一なのである。

 

要するに死の恐怖に怯え、各々の小我からみると対立しあっているこの世界において差別愛に凝り固まるということは、赤の他人への敵意に凝り固まり赤の他人の弱者は不幸になれ! と願うことと同じことだし、無差別愛、大我を大切にして生きるということは、弱者の不幸に同情し、悪を憎み、クズは不幸になれ! と願うことと同一なのである。

差別愛に凝り固まっている人は、この世界に対する大局観に基づく感情、大悲というものが欠けているのである。要するに差別愛に凝り固まっている人は人間として成熟していないから耳ざわりのいいきれいごと、偽善に心を奪われてしまうのである。

こういう差別愛主義者は結局、自分が利を追求することを無条件に肯定してくれ、小我の欲を叶えてくれる小我にとってあくまで心地よく甘く接してくれるマネーをどんなものよりも愛するようになり、マネーに支配される。そうしてマネーに支配された差別愛主義者は自らの利を最大化させることに一生を捧げ、世の中を地獄的に変えるのである。

そういうわけで理性ある人は無差別愛や正義を差別愛よりも断然大切にすべきなのである。

 

 

 

正義と差別愛、どちらが大切かということについて 2

 

また人はまず身近な人をきちんと愛すべきであり、それができた後に遠くの人を愛すべきであると主張する人がいる。要するに差別愛は無差別愛よりも本源的感情なのであるという意見である。この意見が真実で生物が差別愛の前提である自己愛を本源とするなら、この地球上は生存競争によりとっくに単一生物種だけになっていなければならないが、実際はこの地球上には多種多様な種の生物が存在している通り、科学的生物学的に見ても生物にとって無差別愛は差別愛よりも本源的なのである。

だが、差別愛は無差別愛よりも大切だとする差別愛主義者というものは根強く存在するのでここでもう少し差別愛主義について反論しておきたいと思う。

差別愛主義者が差別愛を賛美するときに例として挙げるのは、弱者の差別愛、貧しき人々が見せるお互いを支えあう家族愛の美しさである。確かにそれに対しては誰しも肯定的感情を抱くものだが、だからといって強者の差別愛、金持ちの縁故主義、赤の他人の弱者の不幸は見て見ぬふりをしながら自分と自分の身近な人達さえぬくぬく幸せならそれでいいという考えは絶対否定すべきものなのである。だが差別愛が無差別愛よりも本源的だと主張する人々は特権階級のそういう縁故主義を批判できなくなってしまう。そういうわけでみんなの利やみんなの幸せが上級国民の幸せよりも当然価値があると思うのなら、無差別愛が差別愛よりもやっぱり本源的なものなのだと思うべきなのである。

また恋愛至上主義という差別愛主義がある。恋愛至上主義とは差別愛主義の極致というもので、特定異性を守るために、幸せにするために自分の人生や財産を費やすことによって、下劣で極悪非情な自分の人生を価値あるものと思い込もうとする思想である。しかし恋愛対象を守ろう、幸せにしようと思うことは確かにある種の利他行為ではあるが、差別愛という小我の欲、自己保存欲の拡大したものに基づいた利他行為であり、しょせん自己愛の肯定なので少なくとも大我の観点から見れば大して価値のある行為ではないのである。だから自分の好きな女と相思相愛になって、その女を守るために、幸せにするために良心を捨て、弱者を搾取するために徹底的に弱者を虐待したり、弱者の不幸を見て見ぬふりをしながら生きていくことを肯定するハリウッドの恋愛映画というものは何か釈然としない気持ちにいつも人をさせるものなのである。あらゆる宗教が恋愛、色欲というものを蔑視していることにはそれ相応の訳があるのである。

 

結局、差別愛主義者(恋愛至上主義者、家族愛至上主義者)はどんなに善良でも赤の他人の不幸は見て見ぬふりをすることにより、この世界をある種弱肉強食の地獄だと判断している。そしてまた差別愛主義者であるということは、自分たちはそういう地獄を自分たちの力では決して改善できないという無力感を肯定していることなのである。その結果たいていの差別愛主義者は結局、差別愛と表裏一体である赤の他人への敵意を全面的に正当化、肯定し、赤の他人の弱者に対しては「他人に迷惑をかけるな! 俺に損をさせる奴は死ね!」というようなナチス的優生学の熱烈な支持者となってしまうし、そういったナチス的優生学は公正で正しいものだと心から思ってしまうのである。

 (図Aを見る)



 

逆に言えばきちんと加害者意識を持つことにより無差別愛が差別愛より本源的だと思っている人、無差別愛主義者は、こんな世界でも心のゆとりを持て、そのことにより生物多様性、共存共栄の論理に目が向けられ、すべての生物はお互いを尊重しあっていると信じることができるし、この世を自分たちの力でより良くできるという自己効力感を失わないで生きていけるのである。

およそこの世の中が地獄的である最大の原因は、卑賤な小人が逆境においては被害者意識に凝り固まり、順境においては差別愛と赤の他人への敵意に凝り固まることなのであり、この世の中を少しはましなものにするためには、逆境においても加害者意識を忘れず、順境においては無差別愛に基づいて行動しなければならないということに小人ももうそろそろ気づくべきなのである。

(明日に続く)

正義と差別愛、どちらが大切かということについて 1

 

正義と差別愛、どちらが大切かということについて

 

日本の喫緊の政治的倫理的課題として一番重要な問題は、米軍が撤退した後、在日朝鮮人を国外追放し、かつエタ(朝鮮系日本人)を一人っ子政策により絶滅させることによって浮く社会保障費で発展途上国を援助して、発展途上国の飢えた子供たちを助けるべきか、それとも米軍が撤退した後も発展途上国の窮状は見て見ぬふりをして、これまで通りに中間搾取者として特権階級として君臨している在日朝鮮人やエタに贅沢な生活させるべきかという問題である。

基本的な私としての見解は、全部でたった1000万人程度の在日朝鮮人やエタにちょっと苦労させることにより、発展途上国の何億人という子供たちの命が助かることは必定なのだから、在日朝鮮人は国外追放すべきだし、エタは一人っ子政策によって絶滅させるべきだと思っている。またそのことにより日本国内に朝鮮人や朝鮮系日本人が一人もいなくなるので少なくとも部落差別(朝鮮系日本人差別)のない美しい日本も作れて一石二鳥になると思っている。

どう考えても小悪党の在日朝鮮人が国外追放され、また極悪非道のエタが一人っ子政策を嫌って海外に移住し、その結果生き地獄を味わい元在日朝鮮人やエタが1000万人くらい海外で野垂れ死にすることになったとしても、その結果何億人もの全く罪もない発展途上国の子供の命が助かるのだから四則計算ができるまともな頭脳を持った日本人からはどこからも文句がでてこないはずであると私は確信している。

また第二次世界大戦に日本が敗戦した時、満州や朝鮮半島から日本人が着の身着のままで帰還した事実からみても、第三次世界大戦におけるアジア最大の敗戦集団の在日朝鮮人やエタが基本的に日本から出ていくことについて少なくとも中国人や朝鮮人から何ら倫理的に非難されるいわれはないと確信している

だが、おそらく自分の親戚等に在日朝鮮人やエタがいるおかげで米軍占領下の日本で間接的にいい思いをしてきた既得権益階層らしき、良心的リベラルを自称する人間のクズや学歴エリートがネットでそれなりに反対意見を主張しているので、今少し暇なのでこの機にそれらの主張に対して徹底的に反論しておきたいと思う。

まずはネットでこれからも在日朝鮮人やエタは日本の特権階級として君臨させて、幸せに暮らさせるべきだという人の根拠理由を書いておく。

まずポストモダニズム的意見がある。正義などというものは相対的であてにならないものなので、あくまで目先の損得勘定だけを考えて国の予算を使うべきという意見である。つまり海外援助すればその金は海外に落ちてしまうのに対して、在日朝鮮人やエタを優遇すれば金は国内に落ちるのでその方が得策だという意見である。

この浅はかな意見に対する反論は、利によりて行えば怨み多し、という論語の言葉だけで十分だろう。これからも貿易立国としてやっていかなければいけない日本においては海外から恨みを買うことは長期的利から見てどう考えてもマイナスなのである。

また秩序は正義に勝るという意見がある。これは主に学歴エリートからでている意見で、在日朝鮮人やエタを追放しようとすると内乱状態になる可能性もあるので、それは避けるべきだという意見である。これはただのエリートの保身から出ただけの意見なので、反論するほどのことでもないが、あえて反論すると歴史を見ても平安時代も、室町時代も足利時代も、江戸時代も最後は内乱になって終わったことから見ても、時代の変わり目に国内が内乱状態になるのは避けられないことなのであきらめろ、というくらいで十分すぎるであろう。

また右頬を打たれたら左頬を差し出せ、とか罪を憎んで人を憎まずとかいう無責任な偽善的意見もある。これは現状を肯定するきれいごとを言うことで金をもらっている体制派の宗教家が言い出していそうなことである。偽善者の発言というものはいつも無責任なものだが、彼らに対してはもしあなたの意見が通ったら発展途上国の何の罪もない子供たちが苦しみぬいて死んでいくことになるのは必定だけれどもそれがあなたの神の御心に本当に沿うことなのかと真顔で問いただしたい。またこういう偽善者は無意識下できれいごとを言い続け、何の労働もせず、何の手も汚さずに生きてきた自分の宗教者としての人生を正しかったと肯定していて一片の加害者意識も持っていない人間である。そしてまたこういう偽善者は無意識下でそういう自分を何の苦労もなく生かさせてくれたこの悪の栄える世界を全肯定していて、発展途上国で何の罪もないのに苦しんで死んでいっている子供たちは前世でとてつもない悪行をしたのだろうと確信して何の同情もしていない人である。

弱者の不幸を見て見ぬふり、体制側の悪事はいつも見て見ぬふり、合法的なら中抜きや賄賂、公金横領、キックバック、脱税等、どんな弱者に対する搾取も肯定しながら、体制側の悪党が弱者の反撃にあって不幸になりそうなときだけは殊更に道徳的なふりをして、民衆に対してもっと道徳的になれと説教する宗教者。そういうきれいごと、偽善を押し通すことによりどれだけ世の中の相互扶助関係、中庸の美徳を毀損し、結果世の中が今よりさらに暗く冷たくなろうとも自分の言動の結果については全く責任を取るつもりも全くない宗教者。きれいごと、偽善はお互い様、おかげ様、中庸よりもずっと尊いのだと悪びれもなく言う宗教者。そういう偽善的宗教者、自分の人生に一つの落ち度もないと確信している人間、何の加害者意識も持たない人間の本性は表面をどんなに取り繕ってもこの世界では必ず極悪非情となり、また社会的に見てもマイナスの存在なのである。

この世界には食物連鎖、弱肉強食という側面があり、人は必ずそれなりに罪を犯さずには生きていけない。そういう真理を悲しいと思う人間は、自らのそういう生物としての罪を正当化してはいけないのである。自らの心の中の加害者意識、無差別愛を悪党への憎悪、正義に変え、理想世界を切り開くために行く手をさえぎる悪党どもをばっさばっさと切り殺して、少しでもより良い世界を作ろうとすることこそが、生きているという罪を多少なりとも償うことなのである。

 

(明日に続く)