2024年1月15日月曜日

正義と差別愛、どちらが大切かということについて 1

 

正義と差別愛、どちらが大切かということについて

 

日本の喫緊の政治的倫理的課題として一番重要な問題は、米軍が撤退した後、在日朝鮮人を国外追放し、かつエタ(朝鮮系日本人)を一人っ子政策により絶滅させることによって浮く社会保障費で発展途上国を援助して、発展途上国の飢えた子供たちを助けるべきか、それとも米軍が撤退した後も発展途上国の窮状は見て見ぬふりをして、これまで通りに中間搾取者として特権階級として君臨している在日朝鮮人やエタに贅沢な生活させるべきかという問題である。

基本的な私としての見解は、全部でたった1000万人程度の在日朝鮮人やエタにちょっと苦労させることにより、発展途上国の何億人という子供たちの命が助かることは必定なのだから、在日朝鮮人は国外追放すべきだし、エタは一人っ子政策によって絶滅させるべきだと思っている。またそのことにより日本国内に朝鮮人や朝鮮系日本人が一人もいなくなるので少なくとも部落差別(朝鮮系日本人差別)のない美しい日本も作れて一石二鳥になると思っている。

どう考えても小悪党の在日朝鮮人が国外追放され、また極悪非道のエタが一人っ子政策を嫌って海外に移住し、その結果生き地獄を味わい元在日朝鮮人やエタが1000万人くらい海外で野垂れ死にすることになったとしても、その結果何億人もの全く罪もない発展途上国の子供の命が助かるのだから四則計算ができるまともな頭脳を持った日本人からはどこからも文句がでてこないはずであると私は確信している。

また第二次世界大戦に日本が敗戦した時、満州や朝鮮半島から日本人が着の身着のままで帰還した事実からみても、第三次世界大戦におけるアジア最大の敗戦集団の在日朝鮮人やエタが基本的に日本から出ていくことについて少なくとも中国人や朝鮮人から何ら倫理的に非難されるいわれはないと確信している

だが、おそらく自分の親戚等に在日朝鮮人やエタがいるおかげで米軍占領下の日本で間接的にいい思いをしてきた既得権益階層らしき、良心的リベラルを自称する人間のクズや学歴エリートがネットでそれなりに反対意見を主張しているので、今少し暇なのでこの機にそれらの主張に対して徹底的に反論しておきたいと思う。

まずはネットでこれからも在日朝鮮人やエタは日本の特権階級として君臨させて、幸せに暮らさせるべきだという人の根拠理由を書いておく。

まずポストモダニズム的意見がある。正義などというものは相対的であてにならないものなので、あくまで目先の損得勘定だけを考えて国の予算を使うべきという意見である。つまり海外援助すればその金は海外に落ちてしまうのに対して、在日朝鮮人やエタを優遇すれば金は国内に落ちるのでその方が得策だという意見である。

この浅はかな意見に対する反論は、利によりて行えば怨み多し、という論語の言葉だけで十分だろう。これからも貿易立国としてやっていかなければいけない日本においては海外から恨みを買うことは長期的利から見てどう考えてもマイナスなのである。

また秩序は正義に勝るという意見がある。これは主に学歴エリートからでている意見で、在日朝鮮人やエタを追放しようとすると内乱状態になる可能性もあるので、それは避けるべきだという意見である。これはただのエリートの保身から出ただけの意見なので、反論するほどのことでもないが、あえて反論すると歴史を見ても平安時代も、室町時代も足利時代も、江戸時代も最後は内乱になって終わったことから見ても、時代の変わり目に国内が内乱状態になるのは避けられないことなのであきらめろ、というくらいで十分すぎるであろう。

また右頬を打たれたら左頬を差し出せ、とか罪を憎んで人を憎まずとかいう無責任な偽善的意見もある。これは現状を肯定するきれいごとを言うことで金をもらっている体制派の宗教家が言い出していそうなことである。偽善者の発言というものはいつも無責任なものだが、彼らに対してはもしあなたの意見が通ったら発展途上国の何の罪もない子供たちが苦しみぬいて死んでいくことになるのは必定だけれどもそれがあなたの神の御心に本当に沿うことなのかと真顔で問いただしたい。またこういう偽善者は無意識下できれいごとを言い続け、何の労働もせず、何の手も汚さずに生きてきた自分の宗教者としての人生を正しかったと肯定していて一片の加害者意識も持っていない人間である。そしてまたこういう偽善者は無意識下でそういう自分を何の苦労もなく生かさせてくれたこの悪の栄える世界を全肯定していて、発展途上国で何の罪もないのに苦しんで死んでいっている子供たちは前世でとてつもない悪行をしたのだろうと確信して何の同情もしていない人である。

弱者の不幸を見て見ぬふり、体制側の悪事はいつも見て見ぬふり、合法的なら中抜きや賄賂、公金横領、キックバック、脱税等、どんな弱者に対する搾取も肯定しながら、体制側の悪党が弱者の反撃にあって不幸になりそうなときだけは殊更に道徳的なふりをして、民衆に対してもっと道徳的になれと説教する宗教者。そういうきれいごと、偽善を押し通すことによりどれだけ世の中の相互扶助関係、中庸の美徳を毀損し、結果世の中が今よりさらに暗く冷たくなろうとも自分の言動の結果については全く責任を取るつもりも全くない宗教者。きれいごと、偽善はお互い様、おかげ様、中庸よりもずっと尊いのだと悪びれもなく言う宗教者。そういう偽善的宗教者、自分の人生に一つの落ち度もないと確信している人間、何の加害者意識も持たない人間の本性は表面をどんなに取り繕ってもこの世界では必ず極悪非情となり、また社会的に見てもマイナスの存在なのである。

この世界には食物連鎖、弱肉強食という側面があり、人は必ずそれなりに罪を犯さずには生きていけない。そういう真理を悲しいと思う人間は、自らのそういう生物としての罪を正当化してはいけないのである。自らの心の中の加害者意識、無差別愛を悪党への憎悪、正義に変え、理想世界を切り開くために行く手をさえぎる悪党どもをばっさばっさと切り殺して、少しでもより良い世界を作ろうとすることこそが、生きているという罪を多少なりとも償うことなのである。

 

(明日に続く)

 

 

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