2024年1月15日月曜日

正義と差別愛、どちらが大切かということについて 2

 

また人はまず身近な人をきちんと愛すべきであり、それができた後に遠くの人を愛すべきであると主張する人がいる。要するに差別愛は無差別愛よりも本源的感情なのであるという意見である。この意見が真実で生物が差別愛の前提である自己愛を本源とするなら、この地球上は生存競争によりとっくに単一生物種だけになっていなければならないが、実際はこの地球上には多種多様な種の生物が存在している通り、科学的生物学的に見ても生物にとって無差別愛は差別愛よりも本源的なのである。

だが、差別愛は無差別愛よりも大切だとする差別愛主義者というものは根強く存在するのでここでもう少し差別愛主義について反論しておきたいと思う。

差別愛主義者が差別愛を賛美するときに例として挙げるのは、弱者の差別愛、貧しき人々が見せるお互いを支えあう家族愛の美しさである。確かにそれに対しては誰しも肯定的感情を抱くものだが、だからといって強者の差別愛、金持ちの縁故主義、赤の他人の弱者の不幸は見て見ぬふりをしながら自分と自分の身近な人達さえぬくぬく幸せならそれでいいという考えは絶対否定すべきものなのである。だが差別愛が無差別愛よりも本源的だと主張する人々は特権階級のそういう縁故主義を批判できなくなってしまう。そういうわけでみんなの利やみんなの幸せが上級国民の幸せよりも当然価値があると思うのなら、無差別愛が差別愛よりもやっぱり本源的なものなのだと思うべきなのである。

また恋愛至上主義という差別愛主義がある。恋愛至上主義とは差別愛主義の極致というもので、特定異性を守るために、幸せにするために自分の人生や財産を費やすことによって、下劣で極悪非情な自分の人生を価値あるものと思い込もうとする思想である。しかし恋愛対象を守ろう、幸せにしようと思うことは確かにある種の利他行為ではあるが、差別愛という小我の欲、自己保存欲の拡大したものに基づいた利他行為であり、しょせん自己愛の肯定なので少なくとも大我の観点から見れば大して価値のある行為ではないのである。だから自分の好きな女と相思相愛になって、その女を守るために、幸せにするために良心を捨て、弱者を搾取するために徹底的に弱者を虐待したり、弱者の不幸を見て見ぬふりをしながら生きていくことを肯定するハリウッドの恋愛映画というものは何か釈然としない気持ちにいつも人をさせるものなのである。あらゆる宗教が恋愛、色欲というものを蔑視していることにはそれ相応の訳があるのである。

 

結局、差別愛主義者(恋愛至上主義者、家族愛至上主義者)はどんなに善良でも赤の他人の不幸は見て見ぬふりをすることにより、この世界をある種弱肉強食の地獄だと判断している。そしてまた差別愛主義者であるということは、自分たちはそういう地獄を自分たちの力では決して改善できないという無力感を肯定していることなのである。その結果たいていの差別愛主義者は結局、差別愛と表裏一体である赤の他人への敵意を全面的に正当化、肯定し、赤の他人の弱者に対しては「他人に迷惑をかけるな! 俺に損をさせる奴は死ね!」というようなナチス的優生学の熱烈な支持者となってしまうし、そういったナチス的優生学は公正で正しいものだと心から思ってしまうのである。

 (図Aを見る)



 

逆に言えばきちんと加害者意識を持つことにより無差別愛が差別愛より本源的だと思っている人、無差別愛主義者は、こんな世界でも心のゆとりを持て、そのことにより生物多様性、共存共栄の論理に目が向けられ、すべての生物はお互いを尊重しあっていると信じることができるし、この世を自分たちの力でより良くできるという自己効力感を失わないで生きていけるのである。

およそこの世の中が地獄的である最大の原因は、卑賤な小人が逆境においては被害者意識に凝り固まり、順境においては差別愛と赤の他人への敵意に凝り固まることなのであり、この世の中を少しはましなものにするためには、逆境においても加害者意識を忘れず、順境においては無差別愛に基づいて行動しなければならないということに小人ももうそろそろ気づくべきなのである。

(明日に続く)

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