2024年1月31日水曜日

ファシズム、ナチズム克服法 1

 

ファシズム、ナチズム克服法

ファシズム、ナチズムについてちょっといろいろと考えてみたのでメモしておく。

 

ファシズム、ナチズムの定義というものは明確には定まっていないが、ここでは国家による優生学の推奨やホームレスや障碍者への虐待、虐殺の肯定、アウシュビッツなどがファシズム、ナチズム的なものとしておく。アウシュビッツというものがどういうものだったかというのもまた現在でははっきりと分かっていないが、ここではアウシュビッツとは、下層ユダヤ人を死の恐怖のみを原動力として無賃で働かせるドイツの国営工場だったという見解にしておく。もちろん最低限のカロリー摂取で衰弱して働けなくなったユダヤ人をガス室で殺処していたことを否定するものではないが、現在メジャーになっているアウシュビッツ強制収容所がユダヤ人に対する屠殺場だったという説は退けるものとする。

要するに合理的判断としての政府による弱者への積極的敵意表現を社会が肯定している国家がファシズム、ナチズム国家であるという見解をこの章ではとっている。

そういう意味ではホームレス排除ベンチやホームレス排除アートが町中にあふれ、また上級国民と正社員の合理的敵意と弱者への搾取の積極的肯定表現として奴隷同然の低賃金で働かせる派遣社員制度を肯定している現代日本は半分ファシズム、ナチズム国家になっているとも言える。

なぜ1930年代のドイツにおいて民主主義からファシズムが生まれたのかというと、最大の理由は大恐慌によって国内経済でデフレによるつぶしあいが激化したことにより、政府が民主主義的きれいごと、偽善で表面を取り繕う余裕がなくなってきて、個々人の心の中にある他人への敵意を表面化させることを正当化しやすくなったことがあげられる。また健康な中産階級の国民の間で満ち溢れた不平不満を政府が弱者への敵意に誘導しなかったら、共産主義革命が起こり支配者層が虐殺されかねなかったため、それを避けるためにファシズム国家になったという事情もある。また第一次世界大戦で植民地を失ったドイツ人が本来植民地人に向けられていた敵意や軽侮の感情を国内の弱者に向かわせたという側面もある。

ファシズム、ナチズムの大義名分は合理性の追求である。政治的合理性の追求とは社会の無駄をなくすことである。社会の無駄をなくすということは社会のゆとりをなくすことである。ここでファシズム国家というものは支配者層及び中産階級誰から見た合理的な社会を作ろうとすることであるから、政治力を使って弱者のゆとりを奪うことが社会の無駄をなくすということであり、社会をより合理的にするということになる。

ナチスドイツを例にとって説明すると、極端な優生思想やアウシュビッツ強制収容所は下層ユダヤ人から見ても、客観的に第三者から見ても非人間的で極悪非道な思想であり、施設であったが、ドイツ国内の上級国民や健康なユダヤ人以外の中産階級の人にとっては極めて合理的な思想であり、施設だった。つまり合理的思考、論理的思考を必ず正しいとする理性から見ると、極端な優生思想やアウシュビッツは正しい思想であり、施設なのである。

 

(明日に続く)

 

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