ここで社会における良いゆとりと良い緊張についてもう少し詳しく語ろう。
人間には交感神経と副交感神経がある。交感神経は緊張を司り、副交感神経はゆとりを司る。生きるための糧を得ようとするとき人は交感神経優位になり、夜、休息して体力を回復しようとする時人は副交感神経優位になる。ゆとりと緊張、どちらも生きていくためには必要である。多くの人はついできるだけゆとりのある生活したいと思ってしまうが、他人から必要とされる緊張感のある仕事時間も生活に充実感と喜びを与えてくれるものだし、よい緊張感のある平日があるからこそ良いゆとりのある(安らぎと解放感のある)休日を過ごせるのである。
よい緊張、よいゆとりというものは理論的には誰でも得ようと思えば簡単に得られる。緊張を要する仕事をするとき気合を入れて全力で仕事をするとよい緊張ができ、そのあとその良い緊張がほどけたとき良いゆとりを得られるからである。ここで大切になってくることは、緊張を要する仕事をする場面で、自主的に気合を入れ、ベストを尽くそうと仕事をしなければよい緊張は得られないという事実である。
つまり人生に対して主体的に向き合って、かつやればできるという自己効力感を持っている人でなければいざというとき緊張を要する仕事する場面で気合を入れてベストを尽くせないのである。
国家経済にも人と同じようにゆとりと緊張双方が必要とされる。できるかぎり無駄をなくそう、効率的に仕事をしようと緊張すること、具体的に言えば上下水道を作ったり、港や道路を作ろうとする国民国家的長期的努力も必要だし、より魅力的な商品を作ろうと思ったり、より良い品質の商品を作ろうと思う心の余裕、心のゆとりに基づいた向上心、努力も必要だということである。
また社会にはゆとりをもたらし人々を幸せにしようとする中庸の徳だけでなく、人々を競争にかりたたせることにより緊張させ、世の中を効率的、合理的にさせ、かつ人々に納得のいく人生を送らせることにより世の中の平和を永続させようとするいい意味での公正さという徳も必要なのである。そういう面から見て中庸と公正さ双方に価値を置く一つの共同体を築くことは一見可能に見える。
しかし、残念ながら世の中には二種類のタイプの人間がいる。
まず第一に被害者意識の強い人間。このタイプの人は恐怖感に基づく心理的強制がなければ人のために働けない人である。恐怖感がないところではすぐ仕事をできるかぎりさぼろうとし、社会の寄生虫(フリーライダー)になることを目指そうとする人である。この世はお互いに殺し合い、奪い合い、騙しあう弱肉強食の恐怖に満ちた世界だという認識を持っている人でつまりいつも外的恐怖感という悪い緊張感を持って外の世界に向き合っている人間である。被害者意識に凝り固まっている人間とはつまり心の中にある恐怖感に支配されている人間でこのような人間は人生での重要な決定を恐怖感の命ずるところにより強制的他律的にさせられる。恐怖感が命ずる決定の基盤となる価値観はただ単に利己的で損得勘定に基づくものである。また恐怖感に支配されている被害者意識の強い人間は恐怖感の裏返しの感情として他人や世界に強い敵意を持っている。恐怖感を感じているときはともかく他人を表面は友好的に接しながら内心は他人の不幸を願い、自己中心的にどうすれば自分がより得をできるかばかり考えているし、恐怖感から逃れて安心しているときは、他者一般への敵意をむき出しにして他人に冷酷、横柄にふるまい、何とか他人に損させようと他人をいじめぬき、傷つけようとする。被害者意識に凝り固まったフェミニストが自分より低学歴な男や貧困に苦しんでいるシングルマザー、娼婦やホームレスに対していかに冷酷非情な態度で接するかを見てもそのことは分かると思う。このような人間が支配者となると過度に実力主義で弱肉強食的な競争に勝利したものだけが幸せになれる社会を築こうとする。つまり公正さという徳(自由で公正な競争至上主義)を社会の最高善とする。
第二に加害者意識の強い人間。このタイプの人は恐怖感による強制がなくてもちゃんと給料がもらえるなら他人のために役に立とうと任意的、積極的に働ける人である。加害者意識の強い人は発展途上国で毎年何百万人もの子供が餓死したりしていることに同情したり、人間の人口爆発のせいで数々の動植物が絶滅していっていることを苦悩している人間である。加害者意識の強い人間は他人の幸せを願っているから罪悪感に苦しんでいるのであり、つまり本質的に利他的な人間ということになる。また加害者意識の強い人間は自分が生きていくこと自体は容易にできる人間であり、外の世界に対してはあまり緊張して対峙せずもっぱら自分の内面に意識が集中している人間である。心のゆとりがあるから苦悩できるし、利他的になれるともいえるし、苦悩できるから、利他的になれるから心にゆとりが持てるとも言える。加害者意識の強い人間は自分の心の中の大慈悲、良心を大切にする人間であり、人生における重要な決定をする場合、恐怖感に命ぜられるままに強制的に決定するのではなく、大慈悲や良心の忠告に耳を傾けて、任意的意識的に決定する自由な人間であり、自尊心のある人間である。加害者意識の強い人間が罪悪感を忘れているとき、また年老いて柔弱というものを知り建設的に生きようと思った時、その人は他人が支えてくれるから自分が生きていられるのだという無邪気で幸せな共同体感覚を抱く。つまり加害者意識と共同体感覚は表裏一体なのである。このような共同体感覚を抱いた人はこの世の中を助け合いで成り立っていると思い、人を愛し人のために生きようとする。このような人間が支配者となるとみんなが幸せに生きられる共存共栄の社会をなんとか作ろうとする。つまり中庸という徳を社会の最高善とする。
明日に続く
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