2019年8月30日金曜日

寛厚と公正さについて 5


また公正さを至高の徳とする人はすべからく相対評価に異常に執着する人でもある。つまり公正さを愛する人は利にさとい人である。ケチであり、貪欲なひとである。ケチという悪徳は二種類に分けられる。一つは自分が損することに対するケチであり、その基盤には過剰な自己愛と利己心がある。もう一つは他人に得をさせることに対してのケチであり、その基盤には他人への敵意がある。最初に述べた生活保護受給者のアルバイト問題についても、公正な人はケチで他人を同胞と思わず他人に敵意を持っているからこそ、生活保護受給者がアルバイトをして月に7万円稼いだら51140円国に没収されるのが当然と思うのである。つまり公正さとは利己主義やケチという悪徳を正当化させたものだとも言える。

また公正な人は弱者に自己責任を強く求める人である。弱者への自己責任の追求とはどんな詭弁をろうしようとも要するに弱いものいじめである。公正な人は社会に公正な競争、弱肉強食の競争がきちんと行われ、強者が富み、弱者が強者の奴隷となるか、餓死するようになることを強く望む。助け合いのある世界、格差の小さい世界は不公正であると公正な人は強く主張する。

つまり公正さとは対立する両者が致し方なくその徳に頼るときは中庸の悪徳となり、平時に個人が単独で愛すると残虐さと並ぶ悪徳中の悪徳になるという極めて流動的な概念である。

一方けちの反対概念である寛厚という中庸の美徳を持っている人は他人に対して仲間意識を持っているからこそ生活保護受給者が幸せになること、心にゆとりを持てるようになることを望んで生活保護者受給者のアルバイトを全面的に認めるのである。

要するに公正な人、他人に一般的敵意を持っている人はこの世はゼロサムゲームだと思い、自分が幸せになるためには必ず他人を不幸にしなくてはいけないと思う人であり、寛厚な人、他者一般に対して隣人愛、仲間意識を抱く人は兼愛交利によってこの世の富を増大させることができると思っている人であり、世の中のみんなが幸せに心の余裕を持たなければ、自分ひとりだけ幸せになったり、心にゆとりを持つことはできないと信じている人である。

このことから公正さという徳を共同体の構成員の多数が愛するとその共同体には維持存続に必要な連帯感が失われ、共同体の構成員は自分の仕事に無責任になり、他人を信頼せず、不真面目に、要領よく生きようとし、すべからくフリーライダーになろうとするだろうし、中庸の徳を愛し、連帯感、仲間意識を大切にする共同体ではおのおのが公共心を持ち、自分の仕事は責任感を持ってし、他人を信頼し、共同体に進んで貢献しようとするのが分かるであろう。

また経済学的に言えば公正さという徳は現在の供給過剰のデフレ社会、つまりゼロサムゲームに近い社会ではより容認されやすい徳であり、中庸の徳はインフレ社会、かつての高度成長期においては割と容認されやすい徳であったことが分かる。高度成長期には切磋琢磨という中庸に基づく競争が優勢を占め、供給過剰のデフレ期には潰し合いという公正さに基づく競争が優勢を占めることからもそのことが分かる。

ちなみに自由競争至上主義経済が公正だと言われるゆえんは神の見えざる手が公正さを保証してくれているというのがその論拠なのであるが、百歩譲ってインフレ時、供給力不足需要過剰の時には神の見えざる手は働き、品質の高い適正価格の商品を作る会社が最後に残るかもしれないが、デフレ時、供給能力過剰需要不足の時には神の見えざる手は絶対に働かず自由競争は必ず過当競争、潰し合いになり、大規模資本によって作られた品質が悪く、長期的に見たら必ず損になる商品をともかく価格が安いからといって消費者が選択し、悪貨が良貨を駆逐して、悪徳大企業が最後に残ることが現在ではすでに事実として証明されているので、公正さを広義の正しいという意味で使うのなら少なくとも供給過剰のデフレ期においては自由競争至上主義は公正ではないであろう。

ちなみに多くに人にとっては切磋琢磨よりも潰し合いという競争こそがより公正な(正しい)競争であるように見える。潰し合いという競争では一方が負け、潰れたのは明らかであるが、切磋琢磨では一方が他方よりも向上したことは客観的に部外者からは明晰ではないからである。軍拡競争が人類全体の損、そして覇権国以外の大多数の国の不幸につながるのに公正だという理由で広く支持されるのに対して、軍縮競争、軍縮会議が人類全体の利、及びすべての国の幸せにつながるのに中庸ではあるがどこか不公正に見えるので多くの人に支持されないことからもそのことが分かる。

最後に公正さは基本的に「人を裁くことなかれ」という論理を愛し、ヘイトスピーチに反対し、死刑廃止論に賛成し、正義と中庸は正しい憎悪、悪への聖なる憎悪を愛し、死刑制度に賛成していることについて論述してこの章をおわりにしたい。

一見すると死刑廃止論に賛成している公正さは人道的に思えるかもしれないが、それは間違っている。すでに述べた通り公正さは自己責任論を愛し、弱いものいじめ、弱肉強食を肯定し、経済的自由競争に勝った者が正しいとする価値観である。つまり公正さは経済的自由競争に負けたものに奴隷になるか、餓死するか、自殺するかという選択肢だけを提供し、決して暴力を用いて反抗するなと主張している。では一体何故公正さを愛する人が死刑廃止論者なのかというと、自らが弱いものいじめをしているとき勢い余っていじめ殺したり、自殺に追い込んでしまったりしたことが公になったときでも自分が死刑にならないようにするためであり、決して自らに逆らってきた弱者に人道的配慮を与えるためではないのである。具体的にもし万が一弱者が逆らってきた場合はそれをテロと認定し、問答無用で現場で即時射殺する現状から見てもそれは自明のことであるといえよう。

私自身は日本仏教を信仰しているので、不動明王や四天王、仁王様と同じく正しい憎悪、悪への聖なる憎悪を肯定し、死刑制度に賛成しているし、もちろんテロリズム、特に自爆テロは純粋に自己犠牲的な美しい行為だと思っていることは最後にここに明言しておく。



    ホームレス排除ベンチ   皇居 北の丸公園

      二人掛けにしても若干狭いベンチにして、絶対横になれないようにしている

     公園内の屋根のある休憩所。雨に日にホームレスやお金のない家出少年が
    絶対横になって眠らせないようにしている。



読者諸君も、上記三枚の写真からこのホームレス排除ベンチを設置した人のホームレスへのものすごい敵意を感じることだろう。少年のころ、トムソーヤの冒険のハックルベリーフィーンが好きだった私は断固としてホームレス排除アート、ホームレス排除オブジェに反対する。このホームレス排除ベンチの設置を命令した人はおそらく出来ることならホームレスの方々をポーランド政府に頼んでアウシュビッツで殺処分したいのであろうが、私としてはこのホームレス排除ベンチを設置することを命令した人がどんなに立派な人、高貴な家系であろうともフランス政府に頼んでギロチンで首を切り落としてもらい、その生首をサッカーボールがわりにしてみんなでして仲良くサッカーをしたい気持ちでいっぱいだ。



                      完








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