2019年8月30日金曜日

寛厚と公正さについて 3


また公正さとは正義が形骸化して出来た徳であるともいえる。実際公正さという徳は正義の広義における意味、正しさと混同して使われてもいる。それゆえ公正さという徳はなかなか反論しにくいのである。そこでまず正義と公正さのちがいについて語ろうと思う。

 正義とは狭義では悪を打倒するための美徳である。正義を愛する者は必ず悪を強く憎むことからもそのことは分かる。比喩的に言うなら正義とは極悪非道な暴君が世を支配するとき、重厚な鎧で身を固めたその暴君を鎧ごと真っ二つに叩き切る勇者の無敵の剣に例えることができる。つまり正義という徳は本質的に攻撃的な徳であり、かつ悪への憎悪が結晶化された徳であるといえる。だから正義を愛する人は必ず「日本の中間搾取者、裏切り者の在日朝鮮人を叩き出せ! それにより浮いた社会保障費でアフリカの罪のない子供を救おう! 日本の中間搾取者、裏切り者の穢多には死を! 穢多を一人っ子政策で絶滅させて差別のない日本を作ろう! そしてそのことにより浮いた社会保障費をODAに!」という日本第一党の桜井誠の美しく賢明な悪への憎悪に基づく主張に全面的に賛成するのである。

 一方、公正さとは、みんなを幸せにする気はさらさらないが、なにはともあれ世の中を平和に、ともかくみんなが納得するように統治することを最優先する徳である。そのため公正さはいかなる暴力、憎悪にも、それが例え正義に基づく暴力、憎悪であっても否定するものである。公正さの結晶である法律でも自救行為が違法だとされていることからも公正さがいかなる暴力、憎悪も否定していることがよく分かる。ちなみにアメリカでは銃を所持することが合法だが、そのことはアメリカが少なくとも日本よりは公正さよりも正義をより愛する国だということを意味している。なぜなら自分のため、みんなのために悪を倒すこと、自救行為とは正義の法律的表現だからである。ちなみにこのことからガンジーの無抵抗主義が公正さに基づく主張であり、世間が称えるほどすばらしい思想ではないことが分かる。

正義を愛する人が必ず桜井誠を支持するように、公正さを愛する人は必ず「発展途上国のガキなんて餓死すればいいんだ。公正な自由競争に負けた結果だ。同情する必要なんてない。奴らはそういう運命に生まれたんだ。自己責任だ。俺が奴らに言いたいことは、一人で勝手に死んでくれ。決してテロリストになんてなるなよ。殺すのが面倒くさいからな、ということだけだ。そう思わないか、諸君。だからODAなんて馬鹿なことに金を使うのはやめろ。そんなことよりも日本の治安を良くするために俺たち朝鮮系日本人の社会保障費ために一円でも多くの税金を納めろ! 俺たちだって働かずに贅沢して暮らしていけるなら、まぁ気晴らし程度に強姦くらいはするだろうけど、殺人や放火はしないから」という立憲民主党の枝野幸男の下劣で醜い自己愛に満ちた主張を嫌悪感を感じながらも消極的に支持するのである。

つまり公正さとは正義の剣によって悪を倒したあと勇者がその正義の剣を鞘におさめず、その正義の剣によって民衆を、世の中を平和的に統治しようと試みるときその正義の徳の根底にある悪への憎悪が徐々に自己愛に、自己保存欲によって変質してゆき出来てくる徳であるといえよう。そして正義の徳の根底にある悪への憎悪という感情が民衆への敵意という感情に完全に変わったとき公正さという徳は完成する。

 また正義が形骸化してできた公正さには利己主義に基づくもの、損得勘定に基づくもの、他人への敵意に基づくものと3種類に分類することができるともいえる。3つとも死に対する恐怖という本源感情に基づくという点では一致するが、現実面で上記3つの公正さがどうように使い分けられ、また正義とどういう風に混同されて使われているのかをはっきりさせるために一番わかりやすい例としてここでフェミニストの主張について分析していくことにより公正さという徳がどういった徳か説明していこうと思う。

 フェミニストはまず最初に「セクハラ反対」と言う。これは誰も反論できない正義に基づいた主張である。セクハラ、パワハラをする人は卑怯で下劣な悪党である。その卑怯で下劣な悪党共を叩きつぶそうとする時、フェミニストは光り輝いて見える。そしてだからこそ、そのあとに続くフェミニストの女性の社会進出を全面的に肯定する公正さに基づく主張が反論しにくく思えるのだが、まず私は夫婦別姓についてのフェミニストの主張について分析することによって利己主義に基づく公正さを批判しようと思う。





                   明日に続く

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