2019年8月30日金曜日

寛厚と公正さについて 4


 フェミニストは夫婦別姓を主張する。なぜ夫婦別姓を主張するかといえばそのほうが女性が社会進出するうえで得でありそうにみえるからである。つまり夫婦別姓とは利己主義に基づく主張である。夫婦別姓という主張のどこが間違いかというと最大の間違いは夫婦別姓という主張には自分たちの子供に対する配慮、思いやりの視点が全く欠けていることである。つまり夫婦別姓という主張の根底には全く大慈悲も隣人愛もなくただ自己愛だけが、死に対する恐怖から少しでも逃れたい衝動だけがあることがわかる。また夫婦別姓は近代の個人の尊重という概念を履き違えてもいる。個人の尊重とは個人の尊厳、個人の基本的人権を尊重しようということであって、個人の利己主義や利己主義から出てくる損得勘定を最大限尊重しようという主張ではないのであるが公正さという徳によってフェミニストは個人の尊重という概念から自らの利己主義や利己主義から出てくる抽象的な利、損得勘定をも正当化しようとしているのである。

 また夫婦別姓を主張するということは家族という共同体を自ら積極的に夫や子供とともに築いていこうせず、できるかぎり家族という共同体のフリーライダーとして生きていきたいという表明でもある。

 そもそも結婚や子育てとは夫婦がともに支えあって生きていく喜びを感じるため、ともに子育てをする喜びを分かち合うためにするものである。結婚して子育てすれば夫は妻子を養うためにそれまで以上に働かなければいけなくなるし、妻も家事や子育てに追われ、パートタイムで働くことはできても、フルタイムで男と完全に対等に働き、自分が十分に納得いく社会的自己実現ができるような仕事をすることはよほどの幸運に恵まれなければできなくなる。つまり結婚も子育ても自分一人の利己心の充足ということを幸福の基準とすれば夫にとっても妻にとっても損な行為なのである。だから人を愛する喜びを感じるよりも損したくない、自分の利己心を大切にしたい、なにはともあれ人生を勝負事と思い絶対負けたくないと思うならば結婚もすべきではないし、子供も産むべきではないのである。

 一般論から考えても、人間はより危険のない安定した生活を送るために社会を作り、家族を作ってきた。社会を築くことも家族を築くこともそれ自体集団欲を充足させるものであり、子供や仲間への愛を持つ喜びを感じることこそが生物として、人間としての生きる目的なのではあるが、連帯すること、協力すること、団結することはある種の拘束性、不自由感を生じさせることもまた事実である。夫婦同姓であるということは家族という共同体を作る上での最初の拘束なのであり、最初の自己犠牲なのである。そのことがどうしても気に食わないのなら、少なくとも結婚したり、子供を作ったり、つまり自分から積極的に共同体を作ったりすべきではないのだが、フェミニストは結婚し、支え合う喜び、利は得たいし、子供を作り子育てする喜び、及び利は得たいが夫とも社会とも連帯することも、協力することも、団結することも断固として拒否しようとしているのである。

フェミニストの主張は公正さという徳に基づいている。公正さという徳はそういう下劣なものなのである。(フェミニストも夫や我が子を打倒すべき悪党だと主張しているわけではない。つまり夫婦別姓という主張が正義だと主張しているわけではない。が、同時にフェミニストが夫や子供を自分に損をさせる存在、迷惑をかけてくる存在として認識し、潜在的に敵視していることは誰もが認めざるを得ないだろう)

夫婦別姓の議論については基本的に形式的利に関わるものであり分かりにくいので、次にフェミニストにとっての現実的利、子育ての義務の保育所への可能な限りの押し付けや、男女平等に基づく夫への子育て家事への平等な負担を求めることの正当性について考えてみよう。

現代において女性が出産後半年もせずに子供を保育所に預け、仕事に復帰することは正しいことであり、子供がある程度大きくなり手がかからなくなるまで自分のキャリアを捨てて、つまり損をして専業主婦でいることは愚かでかつ社会正義に反することだと言われている。生物としてみれば、自分のための自己実現、自己のきたならしい欲望のために子育てという自然の要請する自己犠牲を拒否することは当然間違っているが公正さという徳は自分の欲望に忠実であることを是認し、あらゆる自己犠牲を忌み嫌う。このことから公正さという徳がすべての人たちが隣人愛も自己犠牲の精神も持たず利己心に基づく損得勘定のみを動機として動く社会を目指し、お互いにお互いの利己心に対してどうにかこうにか我慢できるなら、個人個人の利己心、損得勘定をできるかぎり最大化できるような社会を実現することが最善と考えていることが分かる。また公正さという徳はまだ声を上げることができず、何も主張できない子供の立場については全く配慮しなくていいと主張する。このことから公正さという徳が血も涙もない弱肉強食の社会を志向していることもわかる。

なぜこんな悪劣な徳が大手を振って社会に存在しているのかというとそれは逆説的だが弱者の被害者意識がそれを強く肯定しているからである。被害者意識に凝り固まった弱者は必ず、自分は損をしている、不公正に扱われている、もし自分の実力が公正に評価されていたら自分はもっと裕福で社会的地位が高かったはずだ、と思う。そして今働きもせず特権階級として君臨している人間のクズ共をたたきつぶそうとする憎悪のあまり全ての人が利己心のみによって動くことを想定とする実力主義至上社会を望む。つまり弱肉強食で弱い者いじめを肯定する非情な社会を強く望んでしまうのである。そして自分の子供に対してさえもまともなきちんとした愛情を示すことができず、自分の空いた時間にペットでも可愛がるように少しだけ可愛がって子供から愛される喜びを搾取し、それによって自らの子供への愛まで自己愛、損得勘定で汚す。また被害者意識に強くとらわれる結果、周りにいるすべての人に対して無意識下で敵意を抱き、決して仲間意識が抱かないため、得だと思わなければ誰とも連帯も協調も団結する意志も能力もなくなり、結果、最終的に1%の特権階級の恐怖による支配に甘んじて生きることを是認する。

夫婦関係における夫への家事の平等な負担を求めることも上記に述べたことから説明できる。夫婦関係とは本来互いに仲間意識を持って支えあうことによって成り立っている関係であるが、フェミニストの女性は自分が迫害されているという強い被害者意識を持っているので、当然自分の周囲にいる人間を敵視してしまう。つまり味方であり、これから協力し合って家庭を築いてはずの夫を自らの損得勘定で判断してしまう。そして労働者が資本家に賃金や労働環境などをめぐって条件闘争するように夫に対してなんの思いやりも持たず条件闘争の一環として公正さ、損得勘定に基づく家事の平等な負担という要求がでてくるのである。

最後にフェミニストの他者一般への敵意に基づく主張について批判しようと思う。フェミニストのどういう主張が敵意に基づく主張なのかというと、一般にフェミニストは高学歴な女性なのであり、フェミニズムとは基本的に高学歴な男性と同じように楽で高収入な仕事をする権利が高学歴な女性にもあるという主張なのだが(低学歴な女性がきつく低収入な仕事をする権利はいつの時代にもあった)、それだけにとどまらずフェミニストは必ず低学歴な者は男性女性問わずきつく低収入な仕事を一生するのが当然であり、また高学歴の自分たちのストレス解消としてパワハラされて当然の存在である、それが公正さというものだと主張する。またホームレスに至っては差別するだけでなく、積極的にホームレス排除オブジェやホームレス排除アートなどを設置して虐待排除することが公正な社会に住む一般市民の義務だとフェミニストは主張する。(実際多くは匿名の電話などによりフェミニストが役所や政治家に要望することによりホームレス排除アート等は設置されている。常識的に考えてもホームレス排除オブジェ、ホームレス排除アートなどは大の男が考えて作ったり、街中に設置を要望するものでないということからも女性がホームレス排除オブジェ、ホームレス排除アート等を推進していることがわかるであろう。どうしても私のこの意見に納得がいかないという人は役所や政治家に問い合わせることをお薦めする。(笑)確かに男性の中でも性格の悪い人は赤の他人を損させることが自分の得になると考えて短略的に行動するものはいるが、ホームレス排除オブジェ等を考えて、実際に作り、街中に設置しようと思うまで全く自分の得にもならないのに赤の他人に損させることに情熱を傾ける男性はいないものなのである)。

またフェミニストが国会議員になってもシングルマザーで生活苦から娼婦をやっている人に決して同情したり、手を差し伸べたりせず、逆ににやにや笑いながら外国人娼婦の受け入れを大々的にやり、日本国内の娼婦の値段や労働環境をより悪化させている現状には私は男性だが一日本人として義憤を感じる。あまり公ではいわれていないことであるが、シングルマザーの娼婦への社会保障の欠如こそ日本の中間搾取者は穢多や在日朝鮮人だけでなくフェミニストもまたそうなのであるという明確な証明になっている。いつか日本が再び完全な独立国となり、正義の光が日本列島を照らした暁には穢多や在日朝鮮人だけでなくフェミニストも必ず地獄へ突き落とされるであろうことを私はここで予言しておく。





               明日に続く






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