この寛厚の美徳がもし現代日本に復活すれば生活保護者のアルバイト問題が解決されるだけでなく貧困により娼婦となった女性が性病やその周辺の病気にかかったとき、その治療費を0にして傷病手当を支給しようということになるであろう(なぜなら全体の利から考えても性病の蔓延を防ぐため娼婦の医療費を0にすること及び傷病手当を支給することは推奨されるのは自明のことであるし、また多くの娼婦はシングルマザーなのであるが、その娼婦の子供の福祉にもそれはつながることだからである)。また日本国内の引きこもりや失業者に職業訓練を受けさせ再就職させたり、引きこもりや失業者を一旦清掃会社や警備会社などの簡単に就職できる会社に就職させ、その会社に新たに割のいい別分野の仕事を振ることによって失業者や引きこもりを社会に有用な戦力としようと試みることであろう。(なぜならそうした方が移民を受け入れて今の日本の労働力不足を解消しようとするよりも長期的大局的に移民による治安の悪化を避けられるし、将来移民が高齢化した時及び日本人の失業者、引きこもりをこのまま放置して失業者、引きこもりが高齢者になった時の社会保障費の増大を避けられることは明らかだからである)。さらにはホームレスが集まる公園にはホームレスの方々が体を洗えるように無料のシャワールームを作られる程度には日本にも隣人愛と連帯の基盤となる仲間意識が復活するかもしれない。(寛厚の美徳が復活すればその反対概念である公の弱者への敵意表現(日本語では無名称)、具体的にはホームレス排除アート、ホームレス排除オブジェが全面禁止となることはいうまでもないが、公の弱者への敵意表現、ホームレス排除アート等についての考察は後述する)
この寛厚という美徳を真っ向から否定し、また寛厚に代表される中庸の徳をこの世から駆逐して世の中すべてを損得勘定と合理性ではかり、損得勘定と合理性から見たむだのない平等性を追求しようとするのが公正さという徳なのである。
前述しているとおり生活保護受給者はすでに国家から生活費をもらっているのだから、月7万円アルバイト代を稼いだら5万1140円を国家に没収されるのは当然だ、という公正な考えの根底には他人が得をすることを極端に嫌うけちという感情があり、他人が得をすることは必ず回りまわって自分の損になるはずであるという強い確信がある。この感情と確信のさらに奥底には他者一般への強い敵意があり、そのさらに奥には弱肉強食という論理への強い肯定感があり、弱者を苦しませ、傷つけることに無上の喜びを見出す心情がある。
生活保護者が月7万円アルバイトで稼いだら5万1140円国家に没収されるのは当然だと考える人、世に言う公正さを愛する人というものが一体どういう性格な人なのかについて考えてみよう。彼は必ず内心生活保護受給者を馬鹿にし、見下していて、安全に生活保護受給者を侮辱できる機会があれば必ず侮辱しようと常日頃から思っている人であろう。つまり彼は傲慢で卑怯な人である。また彼は同胞に対して仲間意識を持たず、ゆえに積極的に連帯してこの民主主義社会をより良くしようとは思わず、できる限りフリーライダーになろうとする人であろう。そして彼はフリーライダーになることが要領よく、より幸せに生きることだと考える人であろう。つまり彼は利己的な人でもある。
現代の民主主義国民国家を維持するためには国民が連帯することが不可欠である。なぜなら国民国家の主権は国民にあり、誰もが傍観者的フリーライダーを目指そうとしていたら、国家は無政府状態に陥るか、少数の政治家や官僚の専横支配をゆるし国民は奴隷的二級市民に容易に転落してしまうからである。
人々が連帯するためにはお互いに仲間意識を持っていることが必要である。そして仲間意識を持つためには日常生活において一人だけ抜け駆けして楽しようとしないで同胞と苦楽を共にするを厭わず、同胞の中に病んでいる人や弱っている人がいたら助けることを厭わない心を持たなければならない。そうでない限り絶対に仲間意識、共同体感覚をもつことは不可能であるだからである。
公正さは寛厚に代表される中庸の美徳を駆逐するだけでなく民主制国民国家を維持構成するために本質的必要不可欠な基盤のこの仲間意識、共同体感覚を駆逐し、民主制国民国家を寡頭制奴隷制国家に絶えず変えようとする。なぜなら仲間意識、共同体感覚は大慈悲、隣人愛に基づくものであり、公正さはその根底に損得勘定があり、損得勘定という価値観は死に対する恐怖という本源感情に基づくものだからである。
ゆえに上記のとおり具体的に考えても、公正さという徳は一見説得力のある美徳に見えるが極めて問題のある徳なのである。
さて寛厚及び公正さについて哲学的に語ろう。
寛厚とは怜悧さのある善意である。大局観のある、全体の利への配慮のある親切である。無償の善意、親切、博愛は受け取る方に屈辱感を与える場合があるが、寛厚に基づく行為は全体の利になり、間接的に寛厚を行う人にも利になるので、寛厚を受け取る方にあまり屈辱感を与えない。また上記の生活保護のアルバイト問題でもわかるとおり寛厚とは助け合いの一種であり、助け合いの基盤には隣人愛もあるが、いつ自分も病気になったり、障害を負ったりして援助される側に立ってもおかしくないという自分の弱さに対する自覚もある。自分の弱さに対する自覚があるからこそ他人の弱さへの共感、同情がより強く、より積極的に生じるのである。つまり寛厚、助け合いという行為には団結や国民国家的長期的努力と同じように中庸の徳であるだけでなく、柔弱という人間としてより成熟した徳を含んでいるのである。この柔弱という素直で自然な徳が根底にあるからこそ寛厚な行為は無償の善意とか博愛の人が作為的にどんなに対等な目線を心がけて弱者をみようとしている時よりも弱者に屈辱感を与えないのである。
また寛厚や知足等の中庸の徳は無償の善意や自己犠牲などの善なる徳とちがって容易に継続的に行うことができる点が、寛厚や知足等の中庸の美徳の優れた点でもある。
次に公正さについて哲学的に語ろう。
公正さという徳がどういう徳なのかというと、基本的に社会的な徳である。社会の中の個人各自が持っている利己的欲望どうしを調停し、誰もが一応納得するむだのない(ゆとりがないとも言う)合理的な答えを導くのが公正さという徳である。
善は人間の心の大慈悲という本源感情を結晶化させたものであり、中庸は基本的に善と生きんとする意志、自己愛の中間にあるものである。ゆえに対立する個人の利己的欲望の中間点にある公正さという徳は、善でも中庸でもなく、あえて言うなら中庸の徳が時と共に形骸化して出来た徳であるといえよう。また公正さという徳がは社会人各自が持っている利己的欲望の間の中間点を探そうという徳であることから、公正さという徳はその前提として個人が利己主義者であることを肯定している。個人が生きんとする盲目的意志にかられ、死に対する恐怖から逃れようと自己中心的に振舞うことを肯定している。つまり公正さは本質的に弱肉強食、優勝劣敗という思想を初めから肯定している概念なのである。また公正さという徳は社会を常に合理的にむだのないように変革しようとしている。つまり公正さは社会からゆとりを奪う徳でもある。そのことから公正さは他者の利己的欲望も尊重しているという点を考慮しても、中庸の悪徳と呼ぶべきものであるといえよう。
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