2025年9月19日金曜日

年金制度の廃止についての詳細説明

 

年金制度の廃止についての詳細説明

 私の具体的政治主張という章でも述べたが、私の政治主張には年金制度の廃止をして、その浮いた金で生活保護費を大体今の10倍くらいの規模に増やすというもの(今の年金の総支給額は56兆円で生活保護費は4兆円だが、それを年金は0円にして、生活保護費を40兆円程度にするというもの。)がある。それについての詳細説明をしておこうと思う。

 基本的に第三次世界大戦の勝者であるBRICSが敗戦国である日本に対して年金制度の廃止と生活保護制度の拡充を命じるわけだから、敗戦国民である日本人にそれに逆らう権利はないと思う。また日本国民であっても氷河期世代以降の世代にとってはどうせいつかは年金制度が破綻することは分かっていたのだから、それが多少早まって傷口が浅くなることは感謝することはあっても、誰も反対する人はいないであろう。

 この年金制度廃止ということについて強い拒否反応を示す人がいるとすれば、バブル世代以上の厚生年金受給資格者、つまり第三次世界大戦の敗北が決まるまで発展途上国や日本の氷河期世代以下の非正規社員たちを冷笑し、搾取していた人々である。基本的に彼らは日本の支配層であるエタ侍の子孫や在日朝鮮人と共謀して第三次世界大戦において先進国の持てる者、搾取する側の代表として戦い、負けたわけであるからその敗戦責任として支配者層とちがい全財産没収にならず年金受給権だけを奪われることだけで済んで本来ならば感謝すべきところなのであるが、基本的に若いことから甘やかされて育ったゆえに、とことん自己中心的で、かつ自分の立場という者をわきまえられない人々だからこのままいけばやはり99%以上の確率で恥も外聞もなく被害者意識に凝り固まり、泣きわめき、不平不満をわめきちらし、日本の国際的評判を地に落とすことが予想される。順境において他人に対して厳しく自己責任を追及して冷酷であった人ほど逆境において自分に対してとことん甘く他責的になるのは世の常だからである。

 彼らにそのような行動、言動を取らせず、黙って彼らの厚生年金受給権の消滅を受け入れさせるためにも今ここでもう一度彼らが厚生年金受給権を剥奪されても当然の理由というものを列挙しておきたいと思う。

 まず第一に上述しているとおり彼らは第三次世界大戦の敗者であるという理由がある。また超限戦である第三次世界大戦に負けたわけだからもうこれ以上発展途上国や先進国の非正規労働者を搾取することはできなくなるので、搾取の果実である年金制度が維持できず廃止されるのは当然なのであるという理由でもある。

 第二にそもそも論として失われた30年という長期不況が日本で始まる1990年代に、彼らは氷河期世代に対してワークシェアリングを断固拒否した時に理由は、子育てには金がかかるので将来の世代を育てるためにもワークシェアリングを導入することはできない。氷河期世代以降の人々に対しては人材派遣制度を導入して徹底的にリストラ、人件費削減を行いその金でとりあえず今の自分たちの世代が行っている子育て費用を維持するしかないという主張であった。30年経った今の極端な世代間格差、世代間分断の結果を見ると彼らの主張が間違っていて、あそこでワークシェアリングをしてみんなでデフレ不況の痛みを分かちあうべきだったのは明白である。そうしておけばここまで日本社会は荒廃しなかったのだから、政治的決断は結果責任を問われるという原則により、バブル世代以上の人々が厚生年金受給権を剥奪されることはそういう意味でも当然なのである。

 また100歩譲って彼らが自分たちの子育て費用を十分に確保するためにワークシェアリングを拒否したことが本当に将来の世代のためを思っての行動だったかという動機について検証してみる。きれい事しか言わない相手とは話し合うよりも、距離をあけて相手の行動から判断するとその人物がどういう人間かがよりよくわかるという西洋の格言があるが、その面から言っても彼らの動機が自らの私利私欲ではなく利他的なものであったとは到底思えない。なぜならこの30年間、彼らの行動は終始一貫して、発展途上国の人々や氷河期世代以降の派遣社員などの非正規社員を冷笑していたのは絶対覆られない事実だからである。その点から言っても彼らが将来世代のことを考えて泣く泣くワークシェアリングを拒否したなどと言うのはへそで茶を沸かすような言い分で、嘘をつくにしてももう少しまともな嘘をつけという気持ちが氷河期世代の大部分の人の感想であろう。だいたいもしその言い分が本当にそうだとするならもう子育ては終了したのだから、今までのつけを厚生年金受給権の消滅という形で払うことは何の異議もないはずである。

第三にバブル世代以上の厚生年金受給者は支配層のエタや在日朝鮮人と結託して、氷河期世代以下の人々を正社員と非正規社員間、ホワイトカラーとブルーカラー間に意識的に分断統治し、同世代間で憎しみ合わせるように仕向けたという罪がある。その結果日本社会は地獄のような弱肉強食社会になっているのだが、その罪を償うためにも厚生年金受給権を剥奪されることは当然なのである。

第四に失われた30年の間、彼らは東南アジアや南アジアから技能実習生という形で日本国内に外国人労働者を流入させ、極めて低賃金の奴隷労働に従事させてもいた。そのためその外国人労働者たちが帰国した後、極めて強い反日感情を東南アジア諸国や南アジア諸国に広めたため日本はアジアの中でかなり嫌われている立場に立っている。つまり日本の安全保障をかなり傷つけたという面から考えても、その懲罰として彼らの厚生年金受給権が剥奪されるのは当然なのである。

 またBRICS側の都合を考えても、第三次世界大戦の準戦勝者である日本の搾取されてきた階級、氷河期世代の都合から考えても今後年金制度を廃止して、支給される生活保護の受給優先権は第一順位が70歳以上で60歳時から5年以上ブルーカラー労働をしていた人になり、第二順位が障害者、シングルマザー、シングルファーザー、ホームレス、70歳以上の厚生年金受給者以外の者となり、第三順位が氷河期世代の生活に困窮した人々となり、第四順位が65歳以上のその他の老人になるものと予想される。なぜならそうすれば、65歳以上の厚生年金受給者の人々が自分の将来に不安を感じることにより、反中世論を煽ったり、防衛費増額、生活保護費の総額の削減を叫ぶことが彼らにとって自傷行為になるため、ブリックス側にとっても都合がよいからである。(そうすることのよって反中世論が沈静化し、かつ日本が積極的に軍縮をするようになるということ。)また日本国内事情から考えてみても生活保護の受給優先権の第一順位を70歳以上で60歳時から5年以上ブルーカラー労働をしていた人にすることは人手不足の解消に役立つから日本国民全体から反対意見は出にくくなる。また氷河期世代の困窮した人々をバブル世代以上の老人よりも生活保護受給権において優遇することは、汗水たらして真面目に働いてきたものが最終的には要領よく、楽して生きて弱者を冷笑してきた人よりも優遇するということであり、国内的に見ても日本のぼろぼろになっている風紀を正すために効果的だと思われ、かつブリックス側から見ても二度と先進国のホワイトカラー層に世界大戦を起こそうという気持ちを起こさせないために、また今回の戦争に対する先進国のホワイトカラー層への懲罰として最適なものであると思われる。またそうすることのよって生活保護費の総額を少しでも多くし、バブル世代以上の生活に困窮した少しでも多くの厚生年金受給権者が生活保護を貰えるようにするためにバブル世代以上の厚生年金受給者が積極的に自らの共犯者であった日本の支配層であるエタや在日朝鮮人、コロナワクチンを打たせて多数の死者や一生残る障害を国民に負わせた医者や厚生省の役人、マスコミ関係者や抗がん剤や向精神薬、集団ストーカー等で多数の人たちを殺してきた医者や厚生省の役人、警察官の全財産没収を率先して求めることにより、エタや在日朝鮮人勢力等の日本の支配者層の駆除、無力化を図れることになるのでブルックス側から見ても好都合となる。

 最後にこの文章を読んでこれはヘイトスピーチであり、ポリティカルコレクトに反するという批判を繰り広げようとするエタや在日朝鮮人に餌付けされた言論人たちに対してあらかじめ反論をシュミレーションしておきたいと思う。

 彼らはいつものポストモダン的正義論を持ち出しながら、正義によって人を裁いてはいけない。罪を憎んで人を憎まずというのがヒューマニズムというものなのであると私を批判するであろう。それに対して私がバブル世代以上の厚生年金受給権を消滅させないと確実に氷河期世代の多くの人々は野垂れ死にすることになる。つまりバブル世代以上のホワイトカラーを憎み罰するということと氷河期世代の下層階級を救うと言うことは表裏一体であるのでこの憎悪は正しく、やむを得ないものなのだと反論する。それに対しての彼らの反論はきれい事しか言わない言論人たちはなかなかいわないであろうが、どうにかこうにか追い詰めて言わせるとこうなると思われる。「氷河期世代が野垂れ死ぬのは自由競争に負けたため、自然の摂理としてしょうがないことなのである。それを避けるために我らのバブル世代以上の日本の支配者層に刃向かおうなどと思うことは弱肉強食という自然の摂理に反するから決してあってはならないことなのである、」と。それに対する私の反論はもちろん、それならばBRICSに第三次世界大戦で負けたエタや在日朝鮮人、バブル世代以上の厚生年金受給権者こそ自然の摂理として野垂れ死ぬのは致し方ないことではないでしょうか、ということになる。そうするとその言論人たちは今までの穏やかなインテリ的な物腰をかなぐり捨てて叫ぶだろう。「うるせー。エタ様やチョン様に逆らおうっていうのか! エタ様やチョン様は怖―ぞー! 大体エタ様やチョン様のバックには在日米軍がいるのだ。アングロサクソン様はもっと怖―ぞー!」

 偽善者の醜く、卑賤な本性を丸出しにした言動はおそらく上記のシュミレーション以上に聴くに堪えないものになりそうだが、とりあえず彼らに気の済むまで罵詈雑言を吐かせてやった後の私としての最後の台詞はこうなるだろう。

「残念ながらあなたたちのご主人様、在日米軍はもうすぐ撤退するそうですよ。エタもチョンもアングロサクソンも第三次世界大戦に負けてもう虫の息だそうです。

 あなたたちは上級国民であるエタや在日朝鮮人に戦わずして負けを認めたとき、身の程をわきまえて、社会の片隅で奴隷らしく卑屈に縮こまって生きていくべきだったんですよ。奴隷の分際で一人前の人間である氷河期世代に、社会的身分や年齢差を利用して戦いを挑んだのがあなたたちの人生における最悪の選択でしたね。戦わずして負けた奴隷の人生なんて客観的価値はないのでどうか今まで通り何も考えず流れに身を任せて野垂れ死んでください。楽して生きるために己のプライドを捨てエタやチョンに媚びを売って生きてきた人生なんて、客観的に見てあまりにも惨めすぎるので、一刻も早くあなたたちを地獄にたたき送ってあげるのが、同じ日本人としての氷河期世代からの最後の思いやりです。我らの美しい憎悪をどうぞお受け取りください。」

 まぁ、こうシュミレーション通りに行くかどうかは分からないが、しょせん戦わずしてエタや在日朝鮮人に屈した奴隷ごときを叩き潰すのに戦術は事前に考えておく必要も大してないと思うのでここら辺でとりあえず私は筆を置こうと思う。

 

 

 

 


2025年7月31日木曜日

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて  

 

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて

 

「被害者意識哲学と加害者意識哲学」という章において、中庸経済システムに属する人においては、中庸と同等に無差別社会正義というものを大切にしなければならないと説いた。具体的にはいじめに対する正当な理由による怨恨殺人やいじめに対する正義感から来た第三者による報復殺人は無罪であるべきであると説いたが、それについての因果律からみた説明をここで少ししておきたいと思う。

 中観を悟ると、つまり般若心経的悟り、色即是空、空即是色という悟りを悟ると悪人の来世というものが見えるようになる。(中観という悟りがどういうものかについての詳細はいつか暇なときに述べる。)例えば今世で善良な弱者が苦しむのを冷笑していた学歴エリートが来世で境界知能に生まれ、みんなから使えないなー、と言われながら一生を送ったりするのが見えるようになると因果律(良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるという法則)というものは確かに存在するものだということを理解できるようになり、かつ悪人は地獄で何百年責め苦を負っても決してあの世では改心したり、人間的成長はできないので、悪人が救われるにはどうしてももう一度この世に生まれてきて、この世で改心し、この世で人間的成長をして良き魂にならなければならないということも分かる。

この宇宙の法則、因果律の最大の問題点とは、中観という悟りを悟っていないこの世に生きている99%の人たちには因果律というものが本当に存在するとはどうしても信じ切れないので、なかなか改心しにくいことにある。なぜなら来世の自分は今世の自分の犯した罪を記憶していないからである。

そのため1%の中観の悟りを得た人は、一人でも多くの悪人を改心させ、救うためにも悪因悪果の法則をなるべくこの世界内で完結して見えるような社会を作るように努めることが求められる。そのためにセクハラやパワハラなどのいじめに対するような正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律を制定すべきであると主張すべきなのである。なぜ正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることが悪因悪果といういう因果律を見える化させるかというと、そうすることによって小悪党どもが部下に対してパワハラやセクハラをしたり、集団で特定の個人をいじめたときに、今よりもずっと高い確率で反撃される可能性が高くなるからである。つまり本来ならば死後にしか見えなかった因果律をこの世で生きているうちに凡人でもある程度はみえるようにさせるわけである。

またこの法律を作ることにより小悪党どもが損得勘定的判断力からもパワハラやセクハラ等の弱い者いじめを躊躇するようになり、間接的に今よりもお互いを尊重し合えるような社会を作りやすくする。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることはこの社会を弱肉強食の暗く冷たい原始林のような社会から誰もが共存共栄しやすい明るく温かい里山のような社会に作り替える作用もあるのである。

要するに悪党へのミクロの(個人的)不寛容が合成の誤謬によりマクロ的に見て(社会的には)みんなが尊重しあえるような寛容な社会を作るというわけである。(今まで人を直接的に殺すことは悪であるが、パワハラやセクハラなどにより間接的に相手を自殺に追い込むことは罪に問わないという罪を憎んで人を憎まずというようなキリスト教徒的ミクロの偽善的寛容さが合成の誤謬により、マクロの暗く冷たい敵意に満ちた社会を作ってきたという認識を持つということでもある。)

またパワハラやセクハラやいじめを周囲で見ていた第三者たちにも、その弱い者いじめをしていた人を殺す権利を与えることにより、今よりも友情や男気を大切にする社会を作ることになるし、友情や男気を正義に昇華させやすい社会を作ることもできるという副次効果も生む。

つまり正当な理由のある怨恨殺人を無罪とするということは、善人が誰しも持つ悪への憎悪という感情を肯定し、悪人が誰しも持つ他人への敵意という卑賤な感情を打倒することを肯定する社会を作るということなのである。そのことによって悪しき魂を持って生まれた人も、他人に対する恐怖心から、自らの自己愛を根源とする他人への敵意という感情を抑制しやすくなり、この世で改心しやすくなるというわけである。

良いことをしたら良いことが起こるという因果律を見える化させたのが兼愛交利、winwinという経済学的論理であるならば、悪いことをしたら悪いことが起きるという因果律を見える化させるのがこの正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律なのである。

また結局のあらゆる法律が存在するそもそもの意義とは因果律を可視化させ、人々に納得感を持って生きてもらうことによって社会秩序を整えるためであることから言っても正当な理由のある怨恨殺人は無罪にするという法律を制定することは望ましいだけでなく原理的に正しくもあるのである。

また真の社会的(マクロな)自由を愛する人ならば、必ずこの法律が制定されることに賛成してくれることを私は確信している。なぜならば言論の自由や信教の自由などはお互いに尊重し合う社会になればなるほど、より保障されるからである。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とする法律を作ることにより、悪人が相手から反撃されることを恐れてパワハラやセクハラを思いとどまり、消極的不作為によって相手を尊重するようになれば、言論の自由や信教の自由などの精神的自由は今よりずっとより保障されるからである。