2025年7月31日木曜日

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて  

 

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて

 

「被害者意識哲学と加害者意識哲学」という章において、中庸経済システムに属する人においては、中庸と同等に無差別社会正義というものを大切にしなければならないと説いた。具体的にはいじめに対する正当な理由による怨恨殺人やいじめに対する正義感から来た第三者による報復殺人は無罪であるべきであると説いたが、それについての因果律からみた説明をここで少ししておきたいと思う。

 中観を悟ると、つまり般若心経的悟り、色即是空、空即是色という悟りを悟ると悪人の来世というものが見えるようになる。(中観という悟りがどういうものかについての詳細はいつか暇なときに述べる。)例えば今世で善良な弱者が苦しむのを冷笑していた学歴エリートが来世で境界知能に生まれ、みんなから使えないなー、と言われながら一生を送ったりするのが見えるようになると因果律(良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるという法則)というものは確かに存在するものだということを理解できるようになり、かつ悪人は地獄で何百年責め苦を負っても決してあの世では改心したり、人間的成長はできないので、悪人が救われるにはどうしてももう一度この世に生まれてきて、この世で改心し、この世で人間的成長をして良き魂にならなければならないということも分かる。

この宇宙の法則、因果律の最大の問題点とは、中観という悟りを悟っていないこの世に生きている99%の人たちには因果律というものが本当に存在するとはどうしても信じ切れないので、なかなか改心しにくいことにある。なぜなら来世の自分は今世の自分の犯した罪を記憶していないからである。

そのため1%の中観の悟りを得た人は、一人でも多くの悪人を改心させ、救うためにも悪因悪果の法則をなるべくこの世界内で完結して見えるような社会を作るように努めることが求められる。そのためにセクハラやパワハラなどのいじめに対するような正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律を制定すべきであると主張すべきなのである。なぜ正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることが悪因悪果といういう因果律を見える化させるかというと、そうすることによって小悪党どもが部下に対してパワハラやセクハラをしたり、集団で特定の個人をいじめたときに、今よりもずっと高い確率で反撃される可能性が高くなるからである。つまり本来ならば死後にしか見えなかった因果律をこの世で生きているうちに凡人でもある程度はみえるようにさせるわけである。

またこの法律を作ることにより小悪党どもが損得勘定的判断力からもパワハラやセクハラ等の弱い者いじめを躊躇するようになり、間接的に今よりもお互いを尊重し合えるような社会を作りやすくする。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることはこの社会を弱肉強食の暗く冷たい原始林のような社会から誰もが共存共栄しやすい明るく温かい里山のような社会に作り替える作用もあるのである。

要するに悪党へのミクロの(個人的)不寛容が合成の誤謬によりマクロ的に見て(社会的には)みんなが尊重しあえるような寛容な社会を作るというわけである。(今まで人を直接的に殺すことは悪であるが、パワハラやセクハラなどにより間接的に相手を自殺に追い込むことは罪に問わないという罪を憎んで人を憎まずというようなキリスト教徒的ミクロの偽善的寛容さが合成の誤謬により、マクロの暗く冷たい敵意に満ちた社会を作ってきたという認識を持つということでもある。)

またパワハラやセクハラやいじめを周囲で見ていた第三者たちにも、その弱い者いじめをしていた人を殺す権利を与えることにより、今よりも友情や男気を大切にする社会を作ることになるし、友情や男気を正義に昇華させやすい社会を作ることもできるという副次効果も生む。

つまり正当な理由のある怨恨殺人を無罪とするということは、善人が誰しも持つ悪への憎悪という感情を肯定し、悪人が誰しも持つ他人への敵意という卑賤な感情を打倒することを肯定する社会を作るということなのである。そのことによって悪しき魂を持って生まれた人も、他人に対する恐怖心から、自らの自己愛を根源とする他人への敵意という感情を抑制しやすくなり、この世で改心しやすくなるというわけである。

良いことをしたら良いことが起こるという因果律を見える化させたのが兼愛交利、winwinという経済学的論理であるならば、悪いことをしたら悪いことが起きるという因果律を見える化させるのがこの正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律なのである。

また結局のあらゆる法律が存在するそもそもの意義とは因果律を可視化させ、人々に納得感を持って生きてもらうことによって社会秩序を整えるためであることから言っても正当な理由のある怨恨殺人は無罪にするという法律を制定することは望ましいだけでなく原理的に正しくもあるのである。

また真の社会的(マクロな)自由を愛する人ならば、必ずこの法律が制定されることに賛成してくれることを私は確信している。なぜならば言論の自由や信教の自由などはお互いに尊重し合う社会になればなるほど、より保障されるからである。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とする法律を作ることにより、悪人が相手から反撃されることを恐れてパワハラやセクハラを思いとどまり、消極的不作為によって相手を尊重するようになれば、言論の自由や信教の自由などの精神的自由は今よりずっとより保障されるからである。