合理性と兼愛交利
副題 神一厘の仕組み
現代人の愛する悪徳に合理性というものがある。合理性を愛する人は合理的な社会を望む。合理的な社会とは便利な社会、無駄のない社会(つまりゆとりのない社会)である。
合理的な社会とはつまり金持ちが自分の持っているマネーを最大限有効活用できる社会といってもいいかもしれない。
合理的な社会は99%の大して金持ちでない人々にとってはゆとりのない不幸な社会だが、被害者意識に凝り固まった多くの大衆、つまり被害者意識と表裏一体の他人への敵意を強く持つ多くの大衆にとって便利だし、隣人に最低限の報酬しか与えないという損をさせるので(合理的社会は人件費を抑制させるから)納得感のある社会である。
合理的な社会、無駄のない社会とはみんなが基本的に自分さえよければ他人はどうなったっていいと思っている社会だから、基本的に他人への敵意という感情の上に立つ暗く冷たい社会である。またみんなが被害者意識に凝り固まった選民意識をもって自分は特別扱いされて当然だという傲慢な社会だともいえる。ちなみにみんなが加害者意識を凝り固まった選民意識をもつとみんながこの弱肉強食の世界を見て、自分の中の生きんとする意志と大慈悲という二つの本源感情の間で苦悩する社会となる。
合理的な社会を愛する人は必ず公正さというものを愛する人だから、公正社会仮説(みんなが損得勘定で生きていけば神の見えざる手が働いてすべてまるく治まるという仮説)を信じているので、他人の不幸はあくまで見て見ぬふりをしながらこの地獄のような現代社会を肯定している。
公正さを愛する人は効率的、合理的な実力主義社会を肯定し、弱者が不幸になるのは当然だとし、勝者が利益を総どりする格差の大きな社会を作ろうとする。公正で思いやりがある人というものはいないのである。
また合理的な社会は勝者が利益を総取りして庶民の取り分、共同体の取り分が少ない社会だから、ほとんどの人が一歩も譲れなくなって、基本的に自分のためと思ってやったことが他人のためになり、他人のためと思ってやったことが自分のためになるようなウィンウィンの解決策を見つけ出せない社会であり、基本的に全体の利への配慮のない社会となる。
合理的な社会の反対の中庸な社会、共同体感覚に基づく社会は庶民と共同体の取り分がそれなりにあり、みんなが一歩ずつ譲り合って、全体の利を最大化させてみんなでウィンウィンの社会を作ろうとする社会であり、格差の小さい社会を目指す。
このように合理性というものは基本的に悪徳といえる。だが、ゲーム理論ではこの合理的思考を駆使してもお互いに相手の善意を信じあうと条件が満たせれば、合理的思考は悪なのにもかかわらず両者にとって最良の結果を得られることが理論的に証明されている。
ゲーム理論の論理をビジネスの場に持ち込むと、お互いに長期間にわたって何回も取引をするという前提があれば相手の善意を信じなくても、共同体感覚に基づく兼愛交利の取引と同様にお互いにウィンウィンの取引ができる。なぜならどちらかが一回でも裏切ってしまうともう取引がそこで終了してしまい、長い目で見れば損になることはお互いに理性的合理的に考えて明らかであるからである。
そして取引を両者が何回も続けてお互いに得することのより、両者の心の中にお互いを信じる心を生じさせ、両者の合理性への愛という悪の心を共同体感覚、兼愛交利という善の心に変えることが自然にできる。そしてこのお互いにビジネスの利を分かち合う喜びは私が8月1日にアップした加害者意識哲学で述べた純粋善、与える喜びとほとんど同じものなのである。これが日月神示のいう神一厘の仕組みというものなのである。
自らの合理性への愛という悪の心を共同体感覚、お互いに分かち合う喜びという善の心に変えつづけ生きるということが、インド哲学的に言ってこの世という修業の場で在家の人が魂を向上させる具体的方法であるとも言えるし、この世をみんなが共同体感覚を持ち、おたがいに助け合い、尊敬しあい、愛しあう天国のような世界に変えようと志すことが中国哲学的に言ってこの世に人間として生まれてきた意味なのだともいえる。
そういうわけなので今、世界ではDS(大金持ちの権力者)と99%の庶民との間で第三次世界大戦が勃発しそうになって人類滅亡の瀬戸際に立たされているが、もしDSが改心して上記のようなゲーム理論に基づくビジネスをして、自らの悪の心を善の心に変えて、真人間になるつもりがあるならば、第三次世界大戦を起こさないという条件で私の意見としてはDSの財産没収はしなくてもいいと思っている。
2024年10月19日 橘謙信
完
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