2023年11月13日月曜日

小我の克服としての加害者意識とスタグフレーションの克服、マネーの支配の克服のための連帯

 

小我の克服としての加害者意識とスタグフレーションの克服、マネーの支配の克服のための連帯

どんなに自分の命を大切にして守ろう守ろうとしても人は絶対いつかは死んでしまう。どんなにお金を稼ぐことに精力を費やして実際お金持ちになったしても、死んだらお金はあの世には持っていけない。そういうふうに考えると、もしあの世があるならば現世を重んじて生きることは馬鹿げたことであるし、あの世の存在を信じないとしても、自分の生まれてから死ぬまでの総体としての人生を価値有らしめようとするならば、命やお金を過剰に愛するのは愚かなことである。

結局、命やお金に執着するということは、今現在の自我が無意識下で死に対する恐怖に支配されていることを端的に示しているに過ぎない。死に対する恐怖にものすごく怯えていて、その恐怖からなんとか逃れようとするため、その恐怖をなんとか一瞬でも解消しようとするため、命やお金に執着しているに過ぎないということである。

理性的に考えれば死に対する恐怖は、死んだ後の世界、今生きているこの世界の外側の世界がどうなっているのか分からなければ決して解消されないし、それがどうなっているのか人間が理性的に理解することは不可能である。つまり死に対する恐怖の解消方法を理性的に考えても現世では決して答えは見つからないので、あきらめることが理性的には正解なのだが、愚者はともかく金があれば死の恐怖から当面の間は逃れられると本気で信じて、一生を通じて命を守り、金を稼ぐことだけに集中するその非理性的でかつ卑賤なところが彼らが救われないところなのである。

確かに死に対する恐怖は基本的には宗教的道徳的な感情を持ってあの世の存在を確信しなければ解消できないが、現世的な加害者意識を強く持つことでもある程度は死に対する恐怖は解消できる。自分の命は日々数々の生物の犠牲の上に成り立っていること、先進国の豊かな生活が発展途上国への激烈な搾取によって成り立っていることを一日一回は思い出せば、この地獄のような世界で長生きしたいなどとはあまり思わなくなるということである。つまり通俗的な人にとっては加害者意識をきちんと持って自分を軽く扱うことが死に対する恐怖に支配されない唯一の方法なのである。

また加害者意識をきちんと持っていれば、友を大切にし、この世界をより良くしたいという理想を捨てないで生きていけ、実際に自分の人生をこの世をよりよくするために費やすので、その人の総体としての人生は客観的に見て価値のあるものとなる。また理想を捨てずに生きる人は必ずどんな逆境下においても自暴自棄、セルフネグレクトせず、自分の人生の主導権を離さず、自分の人生を自分でコントロールしようという意志を離さない人なので、困難や不幸に見舞われても何度でも立ち上がる強靭性を持っていて逆説的にあまり不幸になりにくい。

また被害者意識に凝り固まった人は自由、恋愛を愛し、世間への感謝という言葉を好む。一見するとそれは明るく、ある種の美徳のように感じるかもしれないが、自由や恋愛を謳歌することも世間への感謝をすることも他人の不幸は見て見ぬふりをすることという前提の上に立たないと成り立たない。また自由や恋愛を謳歌するには暇と金と若さが必要なので、自由や恋愛を謳歌しようとする人は必ず自分の余暇と金を手に入れるために弱者から搾取することを肯定するし、みんなのためによりよい世界を作ろうなどと言う真面目なことは金輪際考えない人であろう。

結局突き詰めて考えれば、自由も恋愛も世間への感謝も自分と自分の身近な人たちだけが幸せなら他の人たちがどんなに不幸でも、それでいいという差別愛の結晶化した悪徳なのである。また差別愛に凝り固まった人、自分と自分の身近な人だけの幸せを願う人はこの世界及び赤の他人と自分とは利益相反関係にあると確信している人である。つまり差別愛に凝り固まった人は赤の他人に接するときに自分の身の安全が保障されているなら必ず相手に損害を与え、極めて不快な思いをさせてやろうと思う人である。要するに差別愛に凝り固まるということは赤の他人への敵意に凝り固まるということと表裏一体なことなのである。

みんながこのように被害者意識に凝り固まり、差別愛に凝り固まる社会がどういう風になるかというと多くの民主主義先進国がそうであるように、社会がアノミー(無連帯、混沌)状態になる。

社会がアノミーになると、自由競争至上主義が煽られるから人類の不幸の源であるマネーによる支配がより強固になる。またこれから始まるスタグフレーションを克服するための絶対必要条件としての連帯が出来なくなるのでアノミーはなんとしてでも克服しなければならない。

アノミーというものは確かに人々がみな被害者意識に凝り固まることにより、また差別愛に凝り固まることにより生じるのであるが、なぜそうもみなが被害者意識、差別愛に凝り固まりやすいかというと、アングロサクソンによる分断統治や他人の不幸を見て見ぬふりをする個人主義の蔓延、またグローバリゼーションやデフレによる自由競争(つぶしあい)の激化やポストモダニズムの蔓延(善悪は相対的なものだからそれらを行動基準とせず損得勘定だけを大切にしろという思想、要するに功利至上主義)などがより人の業をより煽っている側面が多大にある。

また今後資本家が計画しているとされるベーシックインカムは、労働者に不労所得で得た札束で他の労働者の頬をはたく喜びを得させることによって、自分の所有する実物収益資産を支えてくれている他の労働者を軽んじさせ、かつ労働者同士を対立させ、それによって労働者同士の連帯感を崩し、結局労働者をマネーに支配されやすくするものなのでなんとしてでも阻止しなければならない。

 

そのため現代社会が連帯感を回復させるために、個々人が無抑制な自由を愛する社会を築くことを目的とするのではなく、みんながマネーの支配から解放された和やかな社会を築くことを目的とし、自由競争(つぶしあい)よりも各自がおのおの共同体感覚を持って相互互恵を大切にしようと思うことが肝要となる。(切磋琢磨という競争はお互いを尊敬、尊重しあうためにはもちろん必要ではあるが、基本は協力が大切ということ)、またお互いに信頼するために腹を割って話す場を作り、各々の損得勘定だけで動くのではなく、社会をよりよくするために各自が全体の利を考えて行動することが必要となる。なぜ功利至上主義が悪いのかというと功利至上主義は長期的利を考えて行動すること、全体の利を考えて行動することを不可能にするからである。つまりもしみんなが損得勘定から連帯して働いて長期的利、全体の利を最大化しようとすると、かならず短期的損得勘定および個人的損得勘定からそれに寄生し、ただ乗りしようとする人がでてくるが、功利主義の論理からその寄生虫、フリーライダーの行動を非難することは絶対できないからである。長期的利、全体の利をみんなで追求するにはやはりどうしても連帯感とその連帯感を壊して利を得ようとする裏切者は悪であるという善悪の価値観が必要なのである。

またみんなが各自共同体のために少しずつ損することがが社会のゆとりの本質であり、ゆとりのある社会、譲り合いのある社会が結局みんなが求めている和やかな心地よい社会なのであるという真理を各自が十二分に理解しておくことが必要となる。

結局、現代社会が連帯感、共同体感覚を取り戻すためにはみんながお互いに誠意をもって相手に接することが必要となる。損得勘定から来る猜疑心をいったん置いて、他人に誠意をもって接するためには胆力(恐怖心に支配されない心)がなければならない。胆力を持った人間になるには自尊心を持っていなければならない。この弱肉強食の地獄のような世界で自尊心を持ち続けて生きるには弱者への同情、きちんとした加害者意識を持っていることが必要となる。なぜなら加害者意識がなければ、必ず人は自己正当化して卑怯、卑賤になってしまい、その結果自分に誇りが持てなくなってしまうからである。

つまりみんなが現状に感謝するよりも生きていることに対する罪悪感、加害者意識を大切にし、自由な社会よりも和やかな社会を望み、恋愛よりも友情を大切にするようになれば、現代社会に連帯を取り戻せるようになるともいえる。

現代の大多数の人は加害者意識を薄暗いどこか不幸の匂いのする感情として忌み嫌う。確かに加害者意識という感情は陰陽で見れば陰の感情であるが、加害者意識こそが我々の無意識下になる大慈悲、無差別愛という至高の陽の感情が純度100%で裏返しにして意識上に現れた感情なのであり、私たちを美しく生きさせる原動力となり、結局私たちを真の幸せに導くものなのである。そしてまたきちんと加害者意識を持ちつづける心が、アフリカの子供たちやこの世界で虐げられた名も知れぬ多くの子供たちが少しでも幸せになれるなら多少自分が損をしてもいいと思わせ、その気持ちがこの世界にゆとりを与え、この社会に連帯を取り戻させる力となるのである。

結局、人々が各自ばらばらに個人的幸福を追求し、自分にとって居心地のいい社会を作ろうとして暗く冷たい地獄のような社会を作るのではなく、みんながマネーの支配からの解放を追求し、加害者意識で自分を律しながら、つまり全員が各自自分の利を最大化しようとするのではなく、各自一歩ずつ譲ることにより連帯するために必要なゆとりを作り出し、みんなにとって居心地のいい社会、明るく和やかな社会を作ろうと思うことが真の自由社会を作ることなのだという真理に気づくことがアノミーを克服し、アノミーを克服することがマネーの支配とスタグフレーションを克服する必要条件となるのである。

                 

 

 

 

2023年9月7日木曜日

優生学について

 

自己正当化と優生学について

 コロナウィルスやコロナワクチン、第三次世界大戦による人口削減計画の後ろには優生学という思想があると言われている。とりあえず優生学とはこの場合人口爆発して危機的状況にある地球環境を改善するために健康な有色人種や自国内の下層労働者をワクチン等により人口削減することを指すものとする。連続殺人鬼や性犯罪者、障碍者などに対して強制的にする不妊手術などをする一般的優生学についての私の見解はこの章の一番最後に述べる。

 優生学とは基本的に金持ちやエリートのルサンチマン、被害者意識または恐怖感から来る他人への敵意を思想化したものである。ほとんどの金持ちやエリートは、私たちは税金を多く払いすぎて損しているという被害妄想を抱く。(実際には労働者や発展途上国を搾取しているから高額所得者なのでまともな頭があったら、加害者意識を抱くはずだが、資本主義社会のほとんどの卑賤な勝者、幸福な卑怯者はマネーに洗脳されていて、小我による自己正当化し、自らの加害者意識、罪悪感を忌み嫌うことに疑いを持たないので被害者意識を決して捨てられない。)そのため彼らが無駄飯ぐらいと思う失業者やいくらでも替えが効くと思う下層労働者を人口削減しようと思う。

また少数のちょっとはまともな頭を持った金持ちやエリートは自分たちが搾取の限りを尽くしている労働者や発展途上国の人々からいつか報復されるのではないかという当然の恐怖感を持つ。そのためやられる前に叩き潰そうとワクチンなどで人口削減しようとしたり、第三次世界大戦を起こして中国などの新興国を焼け野原にして、発展途上国の人々が決して反抗しないようにさらに強く恐怖で支配しようとし、それを正当化する優生学を愛する。

現在の人口爆発の解決策としては、もし加害者意識を強く持っている人間なら、優生学ではなく、禁欲的に反出生主義を選択するはずだし、中庸な人間ならとりあえず発展途上国を経済援助しながら、発展途上国と信頼関係を築いて、そののちに発展途上国と腹を割って話し、なんとかして発展途上国に産児制限を取ってもらおうとするはずなので、優生学的に他人を人口削減することにより人口爆発問題を解決することは愚劣な解決策だが、卑賤な金持ちや卑怯なエリートはどうしてもその卑賤さ、卑怯さゆえにそういう解決策しか思いつかない。

またより大きな視点に立てば、優生学とは小人が望む理想社会を追求した結果だということもできる。職場や学校など自分の身の回りにいる小人を思い浮かべてみれば分かると思うが、小人というものは皆、自分にとって居心地のいい社会を作ろうとする。具体的には自分と気の合う人たちだけの温かいコミュニティを作ろうとし、かつ自分とは気の合わない人を冷たく排除しようとする。その結果、職場でも学校でもいくつかの集団ができ、全体として職場や学校は分断され、恐怖と敵意に満ち満ちた場となる。

自らの気の合わない人や弱者を排除しようとする残忍さ、敵意がこのような場を作ったわけだが、小人は被害者意識に凝り固まっていて、自らの差別愛を決して否定できないので、自らの敵意を肯定しようとして庶民の小人は実力主義者、自由競争至上主義者となり、金持ちやエリートの小人は優生学を信仰するというわけである。

もし大人ならば、みんなにとって居心地のいい社会を作ろうとするはずである。具体的には気の合わない人同士もお互い排除せずに、距離を取って付き合い、お互い尊重しあって和やかに暮らせる社会を築こうとするはずである。つまりみんなが気の合わない人を排除しようとしあえば、マクロ的に社会は地獄のようになってしまうというくらいは大局観のある知性であれば分かるので、一人一人が自律して、自らのルサンチマン、被害者意識、恐怖感を自らで解消し、他人への無条件の敵意に変化させずに生きることを求めるような社会を作ろうとするはずである。

みんなが大人になり、大局観を持てるためには何が必要なのかというと、他の生物の犠牲の上で生きることに対してきちんとした加害者意識、罪悪感という陰の感情を大切に持ち続けることである。

不自然なまでに明るく自分に対して肯定的に生きようとして、人間として自然な感情である自らの中にある加害者意識や生きていること自体に感じる罪悪感などの自分に対して否定的な感情をを見て見ぬふりをして、決して自律的に生きようとしないキリスト教的な軽薄な思想が人類社会を現在のように地獄のような社会にしていることに人類もそろそろ気づくべきであるということである。

最後に連続殺人鬼や性犯罪者、障碍者などに対して強制的にする不妊手術などをする一般的優生学についての私の見解を述べてこの章を終わろうと思う。

 個人的には私は死刑肯定論者なので連続殺人鬼や性犯罪者については、不妊手術をするべきというよりもさっさと死刑にすべきだと思っている。ただ情状酌量の余地がある連続殺人鬼や性犯罪者や冤罪の可能性のある連続殺人鬼や性犯罪者で政治的に刑罰を与えなければおさまりがつかないような場合は死刑にすることはできないのでその場合強制的に不妊手術などをすることを私は否定はしない。

 しかし障碍者に不妊手術を強制する優生学には私は反対である。私自身手帳持ちなので、夫婦どちらとも一人前に働けない障碍者で子供を作りたいという人々が極めて利己的で(性格のいい障碍者はそもそもみんな反出生主義的で、自分の子供を作りたいとは思わない)、到底まともな子育てをする能力がないことはよく知っているが、だからといって他人が「あなたは生産性がないから子供を作ってはいけません」などと言うべきではないと思っている。

 そもそも猿や人類の集団や社会というものは、みんなが明るく温かい気持ちで暮らすことを目的としてできたというのが私の見解である。みんなの利の最大化を目的とする会社などの営利組織とはその点が根本的にちがうものなのである。確かに営利組織なら生産性の低い人や他人に迷惑をかける人は排除されるべきと短絡的に考える人がいるのもまだ分かるが(上述しているように営利組織でもそういうことをしていたら、組織の中が敵意に満ち溢れてしまって、決して上策だとは思わないが)、社会という共同体はもっと他人に対して寛容であるべきだと思っている。

 率直に言うならば、明るく温かい社会を作りたいと思っている人は必ず弱者を幸せにしたという理想を持っているので、優生学に反対するものだ。確かに客観的に見て一人前の稼ぎのない夫婦が子供を作ろうとすることは無責任だが、それを他人が否定しようとすると間違いなく社会は暗く冷たい合理的な社会になってしまうので私は現在のところは障碍者に対する優生学には反対の立場であると表明しておく。

 ただ将来的には信用ポイント制度の導入で人々は各々の道徳性によって中庸社会と公正社会に分かれていくものだと思われる。その時ともかく合理的な社会を望む公正社会に住む人たちの間で、優生学が全面的に採用されることはまぁやむを得ないことだとは思っている。

 ただ現在、「生産性の低い発展途上国の貧乏人は死ね。かわりはいくらでもいるんだ。この無駄飯ぐらいども」と発展途上国の人々を罵倒していた欧米の白人たちが、ブリックスに包囲されて、「お前が一番無駄飯ぐらいなんだ」と言われて絶体絶命の立場に立っているように、最終的には障碍者に対して優生学を主張する人達の未来は暗いものとなるであろう。

 他人を全く尊重せず、自分に都合の良い損得勘定で他人を排除したり、自分の他人への敵意を正当化する者は、遅かれ早かれ他人から何の情けもかけられることもなく、合理的理由から排除されたり、虐待、虐殺されるものなのである。

 因果応報ということわりはないようで見えて、必ずあるものなのである。

 

                 完

 

2023年8月16日水曜日

自己正当化と洗脳について

                                         自己正当化と洗脳について

 

 現代世界において人口の8割以上の人がマネーに支配されていて、かつ学歴主義により洗脳されている。マネーに支配されるとはどういうことかというと、金さえあれば楽して(横柄に振舞って、他人を人間扱いしなくても)幸せになれるという思想に洗脳されるということである。学歴主義による洗脳とは、高学歴者はどんな仕事をやっても低学歴者に比べて、段違いの作業量と高い質の仕事ができるから、たとえ同一労働であっても賃金に極めて高い格差があって当然という洗脳を受け入れるということである。

 金がすべてという思想はそれに洗脳された人たちに合法的に許されたあらゆる手段を使って他者から金を奪い取ろうとさせ、その結果そういう人たちは戦争に肯定的である。また金がすべてという思想は自由競争を積極的に奨励し、社会から連帯感や助け合いを排除しようとする。先進国の高学歴者が高い賃金をもらうのは決して低学歴者や発展途上国の人たちを搾取しているからではなく、完全に能力に応じた取り分であるという思想も、先進国の青少年に同年代の他者を蹴落としてなんとしてでもいい大学に行こうとさせる。

 つまりどちらの思想もこの世界は基本的に奪い合いのゼロサムゲームだという世界観をもっている。つまりどちらの思想も他者に対する強い敵意を前提としている。またどちらの思想も99%の人を不幸にするのは自明だが、みんながマネーに支配され、学歴主義に洗脳されるとほとんどみんなで大した話し合い、議論をしなくても社会を維持しやすいので、合理的で納得感がある公正な思想であるとして多くの被害者意識に凝り固まった人たちに支持されている。

 またマネーに支配された者も学歴主義者に洗脳された者も人を富んでいるか否か、高学歴か否かという点だけで判断し、人の精神性や道徳性の高低などの価値基準で判断することに価値を置かなくなる。

これらのことにより現代世界は、表面を覆っている偽善を一枚はがせば地獄のようになっている。一例をあげれば労働の苦しみとは最大の部分は現代においては上司や同僚などとの人間関係から生じているのだが、それはみんながマネーに支配されていることが原因であることがあげられる。上司や同僚、自分自身もみんなマネーに支配されていて、何としてでもお互いに使いつぶそうとしながら相手に接する。その結果、他人への圧倒的敵意や悪意が充満する職場の中でみんなが働かなければいけないのが現代の労働の苦しみなのである。 

 なぜこんなにも多くの人たちがマネーの支配を受け入れたり、学歴主義の洗脳をこうもまともに受けてしまうのかというと、自らの自己愛(幸せになりたいという気持ち)、恐怖心(不幸になりたくないという気持ち)を自己正当化しようしてしまうことに最大の原因がある。

 発展途上国の子供たちが苦しみぬいて餓死していく光景を見て見ぬふりをする自分、自分の元同級生だったシングルマザーが苦境にあえいでいるのを見て見ぬふりをする血も涙もない自分を正当化しようとするとき、卑賤な人はいつも自分と自分の家族を守るためには致し方ないと思い込もうとする。つまり自己愛(自分が幸せになりたいという気持ち)や差別愛を正義や思いやり(無差別愛)や共同体感覚、連帯よりもずっと価値があるものだと卑賤な自分に信じ込ませようとする。その自己愛や差別愛という醜く大して価値のないものを正しく大変価値のあるものだと無理に確信しよう、自己正当化しようとして、その補強材料としてそれを自己愛と表裏一体である他人への敵意を前提とするある種合理的なマネーや学歴といった俗世間が価値を認める基準、思想に自ら進んで服従、洗脳されにいっているのである。

 また大我の論理(みんなの幸せを考えて生きていこうという思いが基盤にある論理)を無視して小我の論理(ともかく自分と自分の家族だけは幸せにしたい、不幸にしたくないという思いが基盤にある論理)だけで生きれば、大慈悲と死の恐怖という二つの本源感情の矛盾に引き裂かれて苦悩しなくて、楽に生きられるからという理由もマネーの支配や学歴主義の洗脳を受け入れる極めて大きな理由である。

 つまり個々人は二つの論理、二つの本源感情に苦悩しながら、かつ明るく温かいなごやかな社会を作るために色々面倒くさい行動を必要とする人生よりも、暗く冷たい地獄のような社会を作ることは分かっていてもともかく自己愛(死の恐怖)だけに基づく損得勘定という一つの論理で生きる人生(合理的人生)、つまり個々人としては何も苦悩する必要も、加害者意識を持つ必要もなく生存本能に従って自分の利の追求以外ほとんど何も考えずにいきていればいい楽な人生を選んでしまう心がマネーの支配と学歴主義の洗脳を受け入れてしまうということでもある。

 確かに今までは自由人として苦悩しながら生きるより、奴隷的に恐怖に怯え、自分の利だけにさとくなって生きようとするほうが、近代という合理的で(小我の論理という一つの論理だけで構成されている)暗く冷たい他人への敵意に満ちた社会に適応していたということもできたかもしれない。だが、来るべき世界的スタグフレーションによって所有するマネーの最大化競争から実物収益資産の評価額最大化競争に変わる世界においては、上司や同僚とお互いに敵意と悪意を持って相手を使い捨てよう、使いつぶそうとしあうのではなく、お互い仲間意識と善意を持って知っていることを教えあい、助け合いながら、切磋琢磨するほうが大局的に見て得策となる。そのことにより労働が心理的にずっと楽になり、過半数の人が明るく温かいなごやかな世界を作るために自己正当化をやめ、二つの論理を使って面倒くさく生きることを、二つの論理を使って苦悩しながら生きることを厭わない心の余裕を持てる可能性が出てきた。

つまり死に対する恐怖という一つの論理による洗脳(一つの論理による思想による支配)から解放されることによって、思考にかかっていたリミッターがはずれ、二つの相矛盾する論理をいつも統合しようと苦悩することにより、大局観という智を持てる可能性が出てきたということである。

 その結果、人類の過半数がマネーと学歴主義の洗脳から解放されることのよって思考にかかっていたリミッターがはずれ、他者への思いやり(無差別愛)を捨てずに世界を見れるようになり、今までは一部の賢者しか持てなかった大局観という智を民衆が持てるようになるかもしれない。何か大きな問題にぶつかった時に、大局観という智を使って全体像を把握し、自分のためにと思ってやったことが他人のためになり、他人のためにと思ってやったことが自分のためになる、そういう解決策を見出せるようになり、もう一度、今度こそは本当に、古の昔に捨てられた中庸と正義という美徳を愛せるようになれるかもしれないということである。

 

 


2023年1月8日日曜日

ハイエクの貨幣論集について

 

ハイエクの貨幣論集について

 

ハイエクの「貨幣論集」を読んでいろいろひらめいたのでメモしておく。

世の中には実物資産と金融資産という二つの資産がある。二つの資産の決定的違いとは実物資産は車だったら20年したらスクラップになるし建物だって100年したらボロボロになるが、金融資産、例えば100万円のお金なら20年後だろうが100年後だろうが100万円であるということである。(もし銀行預金しておけば利子までついてくることになる。)要するに基本的に実物資産は長期間ため込めないが、金融資産は基本的に永遠にため込み続ける、貯蓄し続けることができるということが決定的にちがう。

このことから基本的に世界はいつか金融資産が実物資産に対して供給過剰になりすぎハイパーインフレになり、金融資産は紙屑になることが必然であることが分かる。それゆえハイパーインフレになるのをなるべく先延ばしにするためにマイルドにインフレさせ貨幣価値を減価させようとすることは(インフレ主義)基本的に正しい。(だが、国家の創成期の7・80年までに実需に対する供給能力が整い、企業間で価格競争が激化し始めるデフレになると貨幣供給を増やしてもインフレが起きない期間が続き、4・50年(この期間の長さは金融緩和をどれだけしなかったかによって変わる)が続き、その後ある時急激にインフレが激化し始め、それに対して金融引き締めをすることにより国家は衰退していくことになる。)

実際の日本の歴史でも中国の歴史でも250年ごとに戦乱を経て権力が移動していくことがこの経済原則を証明している。歴史は創造、維持、破壊を繰り返して進んでいくと言われているし、この250年ごとの戦乱による破壊があるからこそ社会の腐敗が浄化され、まともな道徳観を持った人間が生き残ってきたともいえるので、今始まっている世界大恐慌という破壊も人類社会にとってはどうしても必要な浄化なので避けようとしてはいけないものだということが分かる。

 

ここで第二次世界大戦後から現在と少し先の未来までの世界をマネタリズム的に説明しようと思う。

まず戦後の焼け野原から経済復興が始まった。戦後から20年くらいは実物商品が需要過剰供給不足のころだった。そのころ、マネーは金本位制だったが実体は金本位制とは名ばかりのものだった。なぜならアメリカは東西冷戦を戦うためという大義のもと軍拡を続けるため初めから金融緩和していたからである。ただインフレは1970年くらいまではマイルドに推移していた。だがそれも1971年のニクソンショックにより名実ともに不換紙幣の時代となった。

不換紙幣経済の本質は何かというと、不換紙幣は実物資産に対していつも供給過剰なのでマネーの不足ということは起こりえないということにある。(なぜなら不換紙幣は印刷すればいくらでも供給できるから)

1816年のイギリスの行った金本位制ではマネーの不足ということは起こるし、事実植民地インドではマネーの不足が起こった。この植民地でマネーの不足をわざと起こすことこそイギリスの植民経営、インド人を搾取するエッセンスなのである。どうして19世紀の金本位制下では植民地でマネーの不足が起こったかというと、まず金本位制下でマネーが潤沢にある国とはゴールドをたくさん所有している国である。つまり18世紀までにインドにあった膨大なゴールドを奪ってイギリスに輸送していたからイギリスには潤沢にマネーがあり余っていて、インドはすでにほとんどすべてのゴールドをイギリスに奪われてから金本位制になったからマネー不足だったのである。

マネーの不足ということが何を意味するかというとインドで人為的にデフレを起こさせることができるということである。デフレが起こるとどうなるかというとインドでつぶしあいの競争が起こり、綿花の低価格競争、低利益率競争が起こる。またそのことによりインドの労働者の賃金の切り下げ競争が起こる。デフレはイギリスがインドにおけるマネーの量をコントロールしていることに原因があるから、実物商品の供給過剰によって起こるデフレと違い談合と切磋琢磨によって自力でこの貨幣の供給過少デフレを解決することはできない。

またここが一番重要なのだがマネーが不足しているインドでは基本的にマネーの貯蓄ができなくなり(なぜなら生活水準を落とし続けながら日々の生活を送るのが精いっぱいのマネーしか与えられていないから)、借金をするとしてもデフレだから高金利になる。(日本がデフレの時低金利だったのは世界的に金融緩和して貨幣がじゃぶじゃぶに余っていたから低金利だったのであり、普通はデフレ状態の時は貨幣が供給不足により希少価値を持つから高金利になる。ちなみに日本でデフレ状態でもどうにかこうにか製造業が残ったのは世界が金融緩和していて低金利だったからである。)

貯蓄がない、マネーがないから高額な工作機械を買って工場を自分で作って服を生産することができない。(高金利で借金して工場を作ってもイギリスが借金しないで作った工場や低金利で作った工場には対抗できない。)つまりその日暮らしをしながら、長い償却期間を要する大規模な設備投資の必要のない綿花生産を永久に続けることしかできなくなるのである。

マネーの潤沢にあるイギリス本国ではどうなるかというとインドから安値で買いたたいた生産品があるためマネーが過剰であるにもかかわらず極端なインフレが起きない。またマネーが潤沢にあり、借金するとしてもインドよりずっと低金利なため、長期間の償却期間を要する大規模設備投資して国内にインドの綿花生産よりもずっと高利益率な衣服の生産工場を作ることがたやすくできる。イギリス国内では切磋琢磨という競争が起こり商品の高品質化の競争が起こり、労働者の賃金が上がる。労働者の賃金が上がるから需要という国内のパイが拡大してより供給強化が起こり、経済成長していく。

以上のようなことが起こることにより、金本位制によって先進国が後進国を永遠に搾取することができるのである。

つまり不換紙幣通貨国家主義経済とはマネー不足を起こさせないから(紙幣が足りないなら造幣局ですればいいだけだから)金融資産をほとんど持たない貧乏人有利、労働者有利、発展途上国有利の経済であり、金本位制国際通貨性とは植民地や発展途上国にマネーの不足を引き起こさせることにより金持ち有利、投資家資本家有利、先進国有利の経済システムであると基本的には言える。

 

1980年ごろから実物需要が落ち着いて世界は実物商品の供給過剰となった。そのため実物商品を作って生計を立てている国では激烈なつぶしあい競争が生まれ、派遣社員に代表されるように弱者に屈辱的生活を押し付け、使い捨てにするような気風が世界的に広まった。

マネーはそのころから一段と金融緩和が進み始めたが、世界の金利、インフレはまだマイルドだった。

ただ永遠に続くと思われた世界的低インフレ時代もコロナショックとともに終わりをつげ、まだ株価の大暴落はしていないが、一足先に2022年ごろからインフレが激化し始めた。

 

ではアメリカは不換紙幣に変わったからニクソンショック以降一貫して発展途上国の味方だったのかというともちろんそうではない。不換紙幣経済は基本的には確かに発展途上国有利の経済システムなのだが、ただし先進国で金融緩和していて、かつ先進国でインフレが始まらない間は先進国有利のシステムなのである。

だが、金本位制は理論的に先進国が半永久的に後進国を搾取できるシステムだが、不換紙幣による金融緩和は永久には後進国を搾取できないシステムなのである。どういうことかというと世界中の人々がいつか自分たちの持っている実物資産に対して金融資産があまりにも大きくなっていることに気づく。そして自分たちの紙幣や株式がもしかしたら明日紙くずになってしまうのではないかと思う。だからそうなっても自分の財産を減らさないため自分の持っている金融資産を不動産などの実物資産に変えようと誰もが思う。その時長年の金融緩和で膨れに膨れ上がったバブルがパチンとはじけてしまう。

バブルがはじけると先進国に企業の過半数は債務超過になり倒産となる。大量の失業者が出て、先進国は不況になる。バブルがはじけた後も持っている金融資産を実物資産に変えようとする動きは世界的に続くので実物資産の相対的価値が上がり続け、世界は実物商品が供給過剰であるにもかかわらず、それにも増してマネーが供給過剰なので先進国ではスタグフレーションとなり、発展途上国ではインフレとなる。

なぜなら今現在の実物資産の代表である工場などは発展途上国にあるので、基本的にマネーは先進国から発展途上国に流れ続けることになるからである。つまりそういうわけで先進国ではスタグフレーションがおそらく450年間続くことになる。また発展途上国では先進国からマネーが流れ込み続けることにより、新たな需要が生まれ続け450年間おそらくは許容できる範囲のインフレ下で好景気高度成長が続くことになる。

先進国で起きるスタグフレーションとはどういうものか詳細について説明すると、まずスタグフレーションとは実物の供給過剰とマネーの供給過剰が表面化することを言う。つまり実物の供給過剰によるつぶしあい競争の一環として先進国内で企業の低利益率競争が起き、労働者間では低賃金競争が起きる。またマネーの供給過剰により、高インフレが起き、それを抑え込もうとするため金融引き締めが起こることによって大量の失業者が出、かつ借金をすると高金利になる。つまり現在は不換紙幣経済であるにもかかわらず、19世紀の金本位制でのインドで起きたデフレと同じことが先進国で起きる。このことをスタグフレーションというのである。(1929年の世界大恐慌ではアメリカは不換紙幣制度に変え、金融緩和して国内を低金利にするという逃げ道があったが、今回の世界大恐慌ではその逃げ道はないということでもある。)

これを発展途上国による先進国への搾取ととるか今まで虐げられてきた発展途上国がただ単に解放されただけととるかは評価者が先進国に住んでいるか、発展途上国に住んでいるかという立場と評価者自身の性格によるところが大きくなるだろう。

そして最終的にどうなるかというと発展途上国と先進国の格差はおそらくはほとんどなくなることになり、そこまで行くと先進国のスタグフレーションも止まる。

この先進国が今まで450年間金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを、先進国自身が今後450年のスタグフレーション耐えることによって間接的に支払うことをベイルインという。(2022310日の5chに書いた私のレスは忘れてくれ。あの時はまだマネタリズムについて私自身あまり良く理解していなかった。笑)

ベイルインは民主主義的に見て納得のいく解決策といえるが(世界人口の60億人以上は発展途上国に住んでいる人だから)、このベイルインが実行されるには今後も世界経済が不換紙幣経済であることが必須条件である。

先進国が金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを発展途上国が延々と支払うことをベイルアウトという。どういう風にするとベイルアウトできるのかというと上述した金本位制経済に世界をもう一度戻すことによってそれは可能になる。なぜなら今でもゴールドの大部分は先進国、特にアメリカが保有しているからである。

どういう手順でベイルアウトするかというととりあえず金融引き締めをあまりせずに世界的インフレを放置する。そのことによって世界的にインフレをなんとかしてくれという世論が起こり、いったん今の不換紙幣の価値を全部なくし、そのことにより今のマネーの供給過剰状態を解消して、新たに金本位制に基づく通貨に切り替えようとマスコミを使い世論を誘導する。(このリセットの事をグレートリセットとダボス会議では言っているらしい。この今現在じゃぶじゃぶに余っている不換紙幣の価値を全部なくし、新たに金本位制の世の中にすること自体が、先進国が金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを発展途上国が一気に支払うということを間接的に意味することになる)。それから先はまた19世紀イギリスとインドと同じような関係に世界はなり、先進国はゴールドを保有しているので大規模設備投資が続けられるようになり、発展途上国ではゴールドがあまりなく、いつもマネーが不足しているので設備投資のいらないような仕事しかできないので、先進国は半永久的の発展途上国を搾取できるような世の中になる。

一見するとこれは先進国にあまりに都合がよすぎて不可能そうに見える。ハイエクも「人々が欲することなく世界が公式に金本位制に戻ると試みれば、おそらくはこうした状態では新たな崩壊につながるだけである」と貨幣論集p217でも言っているし、現実問題として歴史的に19世紀イギリスがなぜ金本位制を導入できたかというとイギリスの軍事力がインドに対して圧倒的に勝っていたことに原因がある。

だが、世界は現在きな臭くなってきて、本当に第三次世界大戦が起きても不思議ではない雰囲気が漂ってきた。マスコミは専制国家群と民主主義国家群(つまり実質はベイルイン派とベイルアウト派、発展途上国群対先進国群と言ってもいいかもしれない)との対立の激化はやむを得ないし、第三次世界大戦が専制国家群と民主主義国家群との間で行われてもおかしくないとの意見をあおり始めた。

おそらく私の予想では第三次世界大戦になる直前で発展途上国側の大国の一つが自らが半永久的に中間搾取国家になることを条件に先進国側に寝返り、第三次世界大戦自体は起きないが、世界がベイルアウトを選択して、金本位制に戻る確率が50%くらいはあると思っている。

そうならないためにもより多くの人がハイエクの「貨幣論集」を読んで邪悪で薄汚い先進国側の経済理論をよく理解し、反論や対抗策を練っておくことが急がれる。(ハイエクの「貨幣発行自由化論」には貨幣論集の約3分の2が入っているが、もっとも重要な論文「通貨国家主義と国際安定性」という論文が入っていないのでどうしても「貨幣論集」を手に入れる必要がある。)

ハイエクの基本的な間違いはどこにあるのかというと私見によれば、競争にはつぶしあいと切磋琢磨という二種類の競争があることを知らなかったことと豊かな国のインフレなき安定的な通貨とは他国や他地域に対する構造的搾取なくしては存在しないことを認めなかったことである。つまりハイエクは自分たちが富んでいるのはマックスヴェーバーのいうようにプロテスタンティズムの倫理によるものであって、植民地からの搾取によるものとは絶対認めなかったことがハイエクの間違いだったのである。


                完

2022年4月20日水曜日

幸福論 4

 

また幸福論的に加害者意識と被害者意識をこう説明することもできる。

人はだれしも子供のころ、自分を弱いと感じる。そこでその自分の弱さについて劣等感を抱いたり、世界に対して被害者意識を持ったりする。

劣等感を抱いてそれを自分に甘く、安易に解消しようとする人は優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとする。優越感、自己肯定感を持つために多くの人は受験勉強して同世代の人とのつぶしあいの競争に勝っていい大学に入り、いい会社に入ろうとする。他人を出し抜いて競争に勝ったら、確かに優越感、自己肯定感を手に入れることができる。だが同時に優越感の土台となる傲慢、横柄、という感情で心が満たされてしまいどうしても自分より学歴の低い他人を見下し、馬鹿にしてしまう。またそういう自分の傲慢さ、そして学歴社会、つぶしあいの競争を自己正当化のために肯定する。そのような人が上に行くと、どうしても主観的利己的にしか社会を見れず、目先の損得勘定、自己愛から全体の利に反して学歴社会やその他つぶしあいを奨励する制度をより強固にしようとする。その結果社会は当然弱肉強食、つぶしあいの競争の論理が支配し、誰もがお互いの足を引っ張りあい、お互いを疑いあい、監視しあい、足元を見あう失敗回避欲求に満たされて、他人の失敗は徹底的にその自己責任を追及するような冷たく暗い誰にとっても不幸で消極的な社会が出来上がる。またそういう人の持つ中核信念は至恐怖というものになる。至恐怖とはどういうものかというと自分は恐怖心に絶対服従して生きるし、他人も恐怖によって支配しようとすること、恐怖こそこの世を支配する絶対的な力だと思うことである。

一方自分の弱さに対してより真摯に向き合い、自分に厳しく自分の弱さを中和しようとする人は自分が今被害者意識に凝り固まっていると思い、加害者意識、罪悪感という陰の感情を持つことによりその被害者意識を中和しようとする。自分を客観的に見て、(とりあえず自己愛(生への執着)をわきに置き、)自分が不幸になることを恐れず加害者意識に向き合おうとする。誰もが無意識に被害者意識に凝り固まり、なんとかして他人をつぶそうとする世の中で加害者意識をもって生きようとするとよほどの幸運がない限りまず人並みの幸せをつかむことはできない。だがそれでも加害者意識を持ち、人生を苦諦、修業期間だと思い、自分の良心、美意識から思いやりを捨てずに真面目に陰徳を積んで生きると前述している通り加害者意識の裏側の真の自尊心という確固たる感情を持つことができるようになる。また陰徳を積むと自然に心から邪心、私心、つまり小我の心が減少する。そしてそういう人が年老いて自分の弱さを自然に受け入れられるようになると柔弱という心の持ち方をできるようになり、死に対する恐怖、生への執着(自己愛)からの解放感とそこから生じる成熟した大人の安らぎといったような真の幸せを手に入れることができる。そしてそのような大人たちが中庸経済システムを作ればその社会はお互いを信頼しあい、譲り合い、助け合う、誰もが成功達成欲求に従って積極的に働き、お互いの失敗にドンマイと言い合えるような明るく温かい社会になる。このような人の中核信念は至誠となる。至誠とはどういうものかというと端的に言うと大局観を備えた美徳である。人は自己愛、生に執着しているうちはどうしても大局観を持てないが、加害者意識をきちんと持って長年苦悩しながらも陰徳を積むことにより、私心、自己愛をなくして大局観を持つことができるようになる。そして大局観を伴う美徳を持つと初めて自らの美徳が世のため、そして自分自身のために実際の生活でも有用に使えるようになる。つまり他人のためと思ってやったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになる、そういう道を見出せるようになる。そういう道を見出せる目を持つことを至誠というのである。

結局自分に甘く安易に劣等感を解消しようと優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとした人や社会、生きることに苦悩せず、安易に自己正当化して生き、自分を守ることをともかく最優先しようとする人や社会は冷たく暗く不幸になり、自分に厳しく、きちんと加害者意識という陰の感情を持ち、苦悩して生きることを厭わず、自分を人間的に成長させることを最優先する人や社会は明るく温かい幸せになるというのがこの世の摂理なのである。聖書の「狭き門よりは入れ」という言葉はやはり正しかったのである。

ただここで一つだけそれでもまだ優越感を持って生きていきたいという人たち、つぶしあいの競争、学歴社会を至高と考える人たちの考えの大局的誤謬について指摘しておきたい。これらの人たちの考えでは人は自然に集団化して、どんなにエリートが傲慢、残虐でも共同体は壊れない、つまり共同体を維持するためには公正という美徳に沿って学歴によって階級化していれば、その階級格差がどれくらいむごくても共同体は維持できると考えているようだが、確かに共同体は公正さも必要だが、基本的にはそもそも人は隣人愛から集団化して共同体を作ったのであり、かつ共同体感覚(隣人愛)なしでは共同体は維持できないという歴史的事実を忘れていることが学歴社会を至高とする人たちのまちがっているところなのである。

つまり被害者意識に凝り固まり、絶対自分の加害者性には目を向けないといった態度の人がエリートとなり共同体を永続的に統治することは不可能だという真理は傲慢横柄な学歴主義者にも絶対理解しておいてほしい。そのうえであくまで一小市民として社会の片隅で優越感を持ち、傲慢、横柄に、(客観的に見れば卑賤に)生きていきたいというのであれば、それについては私としてはもうこれ以上何も言うことはない。

最後に幸福論的に具体的に総体としてどのように人生を生きることが美しいかと私が思っているかということについて述べてこの章を終わりにしたい。若い頃は生きているという罪悪感に暗く苦悩しながら世間に対して悪戦苦闘して生き、壮年以上になったらあの世があるかどうかは分からないがとりあえずこの人生は魂を向上させるための修業期間と思い、大局観のある美徳、至誠を以て世のため人のためにエネルギッシュに明るく働いて生き、死に際においては自分の魂を向上させてくれた世界に対して感謝の気持ちを持って穏やかに死んでいく、そんな風に人間は生きるべきなのであると私は思っている。

 

 

 完

幸福論 3

 

話をもとに戻して加害者意識と被害者意識について語ろう。

人間には緊張を司る交感神経とリラックスを司る副交感神経がある。図を見ても分かる通り、我々は安らぎや解放感といった副交感神経的幸福(大我の幸福)も欲しければ、充実感や勝利感といった生きる喜び、交感神経的幸福(小我の幸福)もまた欲しい。つまり我々が幸福になるには自分の中の加害者意識と被害者意識をバランスよく両方持つことが必要不可欠なのである。どうすれば自分の心の中に加害者意識と被害者意識をバランスよく持てるのかというと結論から言えば、死を重んずれば双方をバランスよく持てる。

「死を重んずる」「生を重んじる」とは双方老子の中に出てくる言葉なのであるが、「死を重んじる」という言葉がどういう意味かと説明する前にまずその反対語である「生を重んずる」という言葉の意味することを説明する。

生を重んずるとはいつか必ず人間は死ぬし自分もいつか死ぬ、という真理に目をつぶり、ともかく今の自分の命を執着して、この世の今現在の自分(小我)を大事にして生きるということである。生を重んじる人は表面ではきれいごとを言うかもしれないが、行動からその人を観察すればなんでもかんでも損得勘定でだけ考え、ともかく目先の生存競争に熱中して、どんなに自分の魂を汚すことになろうが、自分の愛する妻子や友人を傷つけることになろうが、自分の利を最大化しようとする卑賤な利己主義者であるということが分かる。どうしてそうなるかというと生を重んじる人は死に対する圧倒的恐怖心から死んだらすべて終わり、完全に無になると何の根拠もないが強く確信しているからである。つまり生を重んじる人は恐怖に自分の心を支配されているから他人を思いやる心の余裕が持てないのである。この世を主観内世界、つまりニヒリスティックに言えばこの世界を一種の仮想現実か何かだと思っているから我欲に凝り固まり自分以外の他人の死や不幸に全く同情しないのである。

これに対して死を重んずる人は、どうせいつか必ず死んでしまうのだから今現在の自分よりも生まれてから死ぬまでの総体としての自分(大我)、総体としての人生を大切にする人である。総体としての人生を大切にしようとする人は自分にとって自分の人生を価値あるものにしようと思う。なぜなら自分の人生に価値があると思わなければ自分の人生を貴重に思い、大切にしようとは思えないからである。そして自分の人生を価値あるものにしようと思うと必ず人は美しく生きよう、人間的に成長させて、できればこの人生を、また自分自身を完成させようと思う。また死を重んじる人は大局観のもたらす心の余裕を持っているからこの世界を美しいと感じるし、この世界への愛を持っている。そのためこの美しい世界にふさわしい人間でありたいと思う。そういう面からも死を重んじる人は美しく生きたいと思うし、自分を成長させたいと思うのである。

つまり死を重んじる人はどうせいつか必ず死んでしまうのだから自分の中にある死に対する恐怖心を意識的に軽視して目先の生存競争(先進国では快楽と幸福の獲得競争)、自分の利を最大化しようとして生きることはほどほどにして、時には自分に利に反してでも、自分の人間的成長を最大化しようと生きる人である。

そういうわけで人は死を重んじた上で(総体としての人生を大切にした上で)、表面的生活の上では生を重んじて生きると、きちんとした加害者意識を根底に持ちながらそのうえでいまを大事にするという被害者意識の昇華した状態をバランスよく持てるのである。

 

明日に続く

 

幸福論 2

 

ここですこし話はそれるが自由について語っておこう。

自由には無抑制に行動するという偽の自由と道徳的に行動するという真の自由と二種類ある。若いころは放縦であること、無抑制に振舞うことが真の任意性、真の自由意志であると思ってしまうものだが、上記に述べたように意のままに振舞うこと、生への盲目的意志を無制限に表現することは結局無意識下にある死に対する恐怖心から強制させられている行動に過ぎない。真の任意性、真の自由意志とは心の中に無意識下の恐怖心から損得勘定で動きたいという強制力があるにもかかわらず、それでも勇気をもって他人の幸せのため、志のために良心的行動を任意的、自主的に選択することなのである。

ちなみに処世術的なことになるが、もし自分の心の中の大慈悲と死に対する恐怖の割合が64だとするなら、人生においていつでもどの選択肢にも大慈悲の意見を聞くのではなく、10回中4回は小我の意見、損得勘定で考えた意見を採用することが通俗的な意味での幸せを得る要諦である。

上記の事から結局、真の自由とそれがもたらす解放感や安らぎといった幸せは本質的に勇敢である者以外獲得できないものであって、決して政治的に万人に与えられることができるような性質の富ではないということが分かるだろう。

人生において勇気は目の前に立ちふさがる障害を打ち砕く矛に例えられるのに対して、自尊心は外界からの攻撃から魂を守る盾に例えることができるが、ここで自由について簡単に述べた手前、自尊心についても少し簡単に述べておこうと思う。

自尊心には人並みに働き、人並みに幸せなとき及び自分を一人前の人間と確信できているときに感じられる心のゆとり、いわゆる自己肯定感とも言われる自尊心と良心的行動を積み重ねることによって得られる心のゆとり、いわゆる真のプライドとも言われる自尊心の二種類がある。

自己肯定感は図にも書いている通り被害者意識をその裏側に持つものであるから、自己肯定感の強い人は必ず他人一般に強い敵意を抱いている。そのため自己肯定感の強い人は必ず自分以下の弱者を見下すし、彼らに対して横柄な態度をとる。また自分自身が事故や病気などで障碍者になったりして人並みに働けなくなり、かつ自分と同じような自己肯定感の強い人たちに見下されるような弱者になると簡単にその自尊心が完膚なきまでに崩れ去り絶望して、二度と精神的に回復できなくなる。

一方、良心に基づいて行動する真のプライド、真の自尊心を持つ人たちは人生の途上で不運により挫折した時に何度でも立ち上がるレジリエンス(精神的回復力)を持っている。なぜなら不運により挫折しても自らの自尊心の土台である過去に自分がした善行の積み重ねの記憶は全く傷つかないからである。

また真の自尊心は勇気をもって良心的行動をすれば必ず得られることから、真の自尊心を持つ者は必ず自力本願になるし、自分で自分の人生を支配できている自己効力感が真の自尊心を持つ者に、無気力で他力本願な被害者意識に凝り固まった人々よりもストレスの少ない朗らかな人生を与えてくれる。また大病を患って奇跡的に回復した人なら分かると思うが、良心的行動の原動力となる加害者意識、強い良心の呵責(大病により被害者意識に凝り固まり、自分を過剰にかわいそうだと思う感情の否定)、美意識は病を患って生命力(生きんとする意志から生じる精力)が微弱になった時、第二エンジンとして動き始め奇跡的に身体精神を回復させる自然治癒力ともなるのである。

人並みな幸せを感じるときに得られる自己肯定感は、その本質を不幸という名の恐怖から逃れているという感覚にことに置くから自己肯定感の裏側には無意識下の恐怖心がぴったりと張り付いていることが分かる。一方、良心を大事にする真の自尊心は当然良心の呵責、加害者意識と表裏一体のものであることから真の自尊心の裏側には大慈悲がぴったりと張り付いていることが分かる。

以上のようなことから、健康な人はもちろん両方の自尊心を持つことが望ましいが、どちらかといえばより強固な真の自尊心を持つことにより精力を傾けるべきとは言えるだろう。そして良心を大事にする真の自尊心を得るためには繰り返しになるが勇気が必要不可欠となる。つまり結局真の自尊心も勇気から作られているというになる。そういうわけで幸福論的に人生において一番必要なものは勇気であるということはどうしても否定できない事実なのである。

 

明日に続く