ここですこし話はそれるが自由について語っておこう。
自由には無抑制に行動するという偽の自由と道徳的に行動するという真の自由と二種類ある。若いころは放縦であること、無抑制に振舞うことが真の任意性、真の自由意志であると思ってしまうものだが、上記に述べたように意のままに振舞うこと、生への盲目的意志を無制限に表現することは結局無意識下にある死に対する恐怖心から強制させられている行動に過ぎない。真の任意性、真の自由意志とは心の中に無意識下の恐怖心から損得勘定で動きたいという強制力があるにもかかわらず、それでも勇気をもって他人の幸せのため、志のために良心的行動を任意的、自主的に選択することなのである。
ちなみに処世術的なことになるが、もし自分の心の中の大慈悲と死に対する恐怖の割合が6対4だとするなら、人生においていつでもどの選択肢にも大慈悲の意見を聞くのではなく、10回中4回は小我の意見、損得勘定で考えた意見を採用することが通俗的な意味での幸せを得る要諦である。
上記の事から結局、真の自由とそれがもたらす解放感や安らぎといった幸せは本質的に勇敢である者以外獲得できないものであって、決して政治的に万人に与えられることができるような性質の富ではないということが分かるだろう。
人生において勇気は目の前に立ちふさがる障害を打ち砕く矛に例えられるのに対して、自尊心は外界からの攻撃から魂を守る盾に例えることができるが、ここで自由について簡単に述べた手前、自尊心についても少し簡単に述べておこうと思う。
自尊心には人並みに働き、人並みに幸せなとき及び自分を一人前の人間と確信できているときに感じられる心のゆとり、いわゆる自己肯定感とも言われる自尊心と良心的行動を積み重ねることによって得られる心のゆとり、いわゆる真のプライドとも言われる自尊心の二種類がある。
自己肯定感は図にも書いている通り被害者意識をその裏側に持つものであるから、自己肯定感の強い人は必ず他人一般に強い敵意を抱いている。そのため自己肯定感の強い人は必ず自分以下の弱者を見下すし、彼らに対して横柄な態度をとる。また自分自身が事故や病気などで障碍者になったりして人並みに働けなくなり、かつ自分と同じような自己肯定感の強い人たちに見下されるような弱者になると簡単にその自尊心が完膚なきまでに崩れ去り絶望して、二度と精神的に回復できなくなる。
一方、良心に基づいて行動する真のプライド、真の自尊心を持つ人たちは人生の途上で不運により挫折した時に何度でも立ち上がるレジリエンス(精神的回復力)を持っている。なぜなら不運により挫折しても自らの自尊心の土台である過去に自分がした善行の積み重ねの記憶は全く傷つかないからである。
また真の自尊心は勇気をもって良心的行動をすれば必ず得られることから、真の自尊心を持つ者は必ず自力本願になるし、自分で自分の人生を支配できている自己効力感が真の自尊心を持つ者に、無気力で他力本願な被害者意識に凝り固まった人々よりもストレスの少ない朗らかな人生を与えてくれる。また大病を患って奇跡的に回復した人なら分かると思うが、良心的行動の原動力となる加害者意識、強い良心の呵責(大病により被害者意識に凝り固まり、自分を過剰にかわいそうだと思う感情の否定)、美意識は病を患って生命力(生きんとする意志から生じる精力)が微弱になった時、第二エンジンとして動き始め奇跡的に身体精神を回復させる自然治癒力ともなるのである。
人並みな幸せを感じるときに得られる自己肯定感は、その本質を不幸という名の恐怖から逃れているという感覚にことに置くから自己肯定感の裏側には無意識下の恐怖心がぴったりと張り付いていることが分かる。一方、良心を大事にする真の自尊心は当然良心の呵責、加害者意識と表裏一体のものであることから真の自尊心の裏側には大慈悲がぴったりと張り付いていることが分かる。
以上のようなことから、健康な人はもちろん両方の自尊心を持つことが望ましいが、どちらかといえばより強固な真の自尊心を持つことにより精力を傾けるべきとは言えるだろう。そして良心を大事にする真の自尊心を得るためには繰り返しになるが勇気が必要不可欠となる。つまり結局真の自尊心も勇気から作られているというになる。そういうわけで幸福論的に人生において一番必要なものは勇気であるということはどうしても否定できない事実なのである。
明日に続く
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