加害者意識と被害者意識について
または幸福論
パスカルの言葉にこんな言葉がある。「人間は2種類に分けられる。自分を罪人と思っている義人か、自分を義人と思っている罪人である。」この言葉が本当に真実であるかどうかはともかくとして、とりあえず人間には加害者意識を強く持っている人と被害者意識を強く持っている人がいるという事実は読者も認めることであろう。
加害者意識とは自分の存在が多くの動植物の犠牲の上にあるという事実、発展途上国の人々からの搾取により自分が豊かに暮らせているという事実、そして発展途上国の何の罪もない子供たちが餓死していくのを横目で見ながら自分が生きているという事実に対して良心の呵責を強く感じることによって本来意識上にかすかにあった良心の呵責の声、罪悪感を強化、知性化した時にできるものである。
被害者意識とはこの世界では弱肉強食の生存競争の論理が支配していると判断し、そのことに心の底から恐怖し、そして本来意識上にぼんやりとあったなんとしてでも生き残ろうという意志(生への盲目的意志)が強化、知性化した時にできるものである。
大体6人中5人の質の悪い粘土で作られた人間は被害者意識に凝り固まる。なぜなら彼らにはわざわざ加害者意識を持って何の得にもならないことに苦悩することが馬鹿らしく思えるし、また被害者意識に凝り固まった方が自分の悪事、不道徳さを正当化できるので短絡的に都合がよいと思ってしまうからである。さてここでその考え方が本当に正しいかどうかについてよく検討してみよう。
そもそも幸福には二種類ある。解放感や安らぎを感じている時のおだやかな幸福と自分の持てる能力を全開にして運命と格闘しているときに感じる充実感や敵を倒した時に感じる勝利感、障害を乗り越えたときに感じる満足感のようなエネルギッシュな幸福である。解放感や安らぎを感じているときの穏やかな幸せも充実感、勝利感、満足感を感じているときのエネルギッシュな幸せもどちらも陰陽でいったら陽の気の明るい感情である。
人はみな陰の気を嫌い、なるべく陽気に生きたいと願うが、当たり前の事ではあるが陰陽は一体のもので決して分離させることはできない。
解放感、安らぎといった幸福の裏側、根っこには加害者意識という世界への陰気な態度、心があり、充実感、勝利感、満足感といった幸福の裏側には被害者意識という世界への陰気な態度、心がある。
図にするとこうなる。
図1
図の説明を少しすると、加害者意識や良心の呵責といった陰の感情を否定して心の中から排除してしまったら、解放感や安らぎといった幸せの基盤にある隣人愛、無差別愛を否定してしまうことになってしまい、(自分自身の心の中にある恐怖からの)解放感や(自分自身の心に中にある大慈悲の発する光としての)安らぎといった幸せも絶対に味わえなくなるということであり、自分の心の中に被害者意識、恐怖感があるからこそ被害者意識が自己正当化して自分の目の前に立ちふさがる敵を悪いものだと確信し、その敵と戦う充実感、その敵を打ち倒す勝利感に幸せを感じるのである。(敵が善人で、自分が悪党だと思っているならたとえ敵を打倒し、勝利してもそのことに人は喜びを感じない)
そういうことから短絡的に被害者意識に凝り固まろうとするのは間違っていて、どちらかというと自分の心の中で加害者意識7、被害者意識3くらいの割合で持ちながら生きていくのが正しいということがわかるであろう。
また確固とした解放感や安らぎを築きたいと思ったら、解放感や安らぎの土台となる加害者意識をきちんと持つようにしてすべきだし、劣等感や無力感、絶望感に満たされたくなければ被害者意識に凝り固まりこの世の勝利に強くこだわったり、ともかく快楽を貪ろうとしたり、一時的に社会的地位が上がっても人に対して傲慢に振舞ったりしてはいけないことが分かる。
だが基本的に被害者意識というものは自分の無意識下にある死に対する恐怖から強制的に作られる意識であり、誰でも多かれ少なかれ自然に持っている人生に対する態度であるのに対して、加害者意識というものは確かに自分の無意識下にある大慈悲、無差別愛から作られたものであるが、自分が任意的、自律的に良心の呵責という心の声に耳を澄まして、生きていることについて苦悩することによって作られる意識であり、人生に対する態度である。つまりきちんとした加害者意識を持つか否かはひとえに自分の自主的、任意的選択にかかっているのである。
明日に続く
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