話をもとに戻して加害者意識と被害者意識について語ろう。
人間には緊張を司る交感神経とリラックスを司る副交感神経がある。図を見ても分かる通り、我々は安らぎや解放感といった副交感神経的幸福(大我の幸福)も欲しければ、充実感や勝利感といった生きる喜び、交感神経的幸福(小我の幸福)もまた欲しい。つまり我々が幸福になるには自分の中の加害者意識と被害者意識をバランスよく両方持つことが必要不可欠なのである。どうすれば自分の心の中に加害者意識と被害者意識をバランスよく持てるのかというと結論から言えば、死を重んずれば双方をバランスよく持てる。
「死を重んずる」「生を重んじる」とは双方老子の中に出てくる言葉なのであるが、「死を重んじる」という言葉がどういう意味かと説明する前にまずその反対語である「生を重んずる」という言葉の意味することを説明する。
生を重んずるとはいつか必ず人間は死ぬし自分もいつか死ぬ、という真理に目をつぶり、ともかく今の自分の命を執着して、この世の今現在の自分(小我)を大事にして生きるということである。生を重んじる人は表面ではきれいごとを言うかもしれないが、行動からその人を観察すればなんでもかんでも損得勘定でだけ考え、ともかく目先の生存競争に熱中して、どんなに自分の魂を汚すことになろうが、自分の愛する妻子や友人を傷つけることになろうが、自分の利を最大化しようとする卑賤な利己主義者であるということが分かる。どうしてそうなるかというと生を重んじる人は死に対する圧倒的恐怖心から死んだらすべて終わり、完全に無になると何の根拠もないが強く確信しているからである。つまり生を重んじる人は恐怖に自分の心を支配されているから他人を思いやる心の余裕が持てないのである。この世を主観内世界、つまりニヒリスティックに言えばこの世界を一種の仮想現実か何かだと思っているから我欲に凝り固まり自分以外の他人の死や不幸に全く同情しないのである。
これに対して死を重んずる人は、どうせいつか必ず死んでしまうのだから今現在の自分よりも生まれてから死ぬまでの総体としての自分(大我)、総体としての人生を大切にする人である。総体としての人生を大切にしようとする人は自分にとって自分の人生を価値あるものにしようと思う。なぜなら自分の人生に価値があると思わなければ自分の人生を貴重に思い、大切にしようとは思えないからである。そして自分の人生を価値あるものにしようと思うと必ず人は美しく生きよう、人間的に成長させて、できればこの人生を、また自分自身を完成させようと思う。また死を重んじる人は大局観のもたらす心の余裕を持っているからこの世界を美しいと感じるし、この世界への愛を持っている。そのためこの美しい世界にふさわしい人間でありたいと思う。そういう面からも死を重んじる人は美しく生きたいと思うし、自分を成長させたいと思うのである。
つまり死を重んじる人はどうせいつか必ず死んでしまうのだから自分の中にある死に対する恐怖心を意識的に軽視して目先の生存競争(先進国では快楽と幸福の獲得競争)、自分の利を最大化しようとして生きることはほどほどにして、時には自分に利に反してでも、自分の人間的成長を最大化しようと生きる人である。
そういうわけで人は死を重んじた上で(総体としての人生を大切にした上で)、表面的生活の上では生を重んじて生きると、きちんとした加害者意識を根底に持ちながらそのうえでいまを大事にするという被害者意識の昇華した状態をバランスよく持てるのである。
明日に続く
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