2024年9月23日月曜日

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

 

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

統合失調症を発症してしまうと、自尊心がどうしてもいったんボロボロになる。自尊心がボロボロになるということは、被害者意識に凝り固まりセルフネグレクトを肯定するような不幸で卑賤な、他人への思いやりのない小悪党に自分がなってしまうということである。その人生最大の逆境時において、どうすればよいかというと落ち着いて真面目に考えて自らの美意識による判断に従ってもう一度加害者意識をあらためて持ち直すことである。加害者意識を持てれば、魂の高貴さを取り戻せ、人生を修業の場だと思えるようになる。人生を修業の場と思えれば、心のゆとりが持て、セルフネグレクトをやめ再びに人間として向上しよう思えるようになる。向上心を持てるようになるから自分自身を尊敬できるようになり、自尊心を徐々に回復させることができるようになる。

 つまり加害者意識をきちんと持てれば逆境であればあるほど必ず人生を修業の場と思え、向上心を持てることにより自尊心を回復させることができるということである。

 逆を言えば、統合失調症初期の回復期(統合失調症発症から3年以内)において、一番やってはいけないことは自分を許すということである。自分を許すということは、今のセルフネグレクトしている自分を自己正当化して、自分を無力な存在だと認め、他人の不幸を見て見ぬふりをしながら被害者意識に凝り固まっている自分をあわれだとしみじみと思うことである。

 統合失調症回復期後期において、自分の弱さを認め、その自分の弱さを他人へのやさしさに変えること、柔弱になることが認知機能障害を克服するポイントだと以前書いたことがあるが、自分の心身の弱さを認めることと自分を許すということは似て非なることだということは覚えておきたいポイントである。


 統合失調症マニュアル2で書くはずだった、サビの部分を一応書いたのでアップしておきます。

2024年9月23日 橘謙信

 

 

2024年9月19日木曜日

ポストモダニズムについて

 

ポストモダニズムについて

 正義というものにあまり価値を置かない人のよくある意見として、自分が絶対に正しいと思っている人は独善的で他人に自分の正義を押し付けようとし、それにより社会を息苦しくさせるので、少なくとも自分を絶対に正しいと思ったり、自分が悪だと思う人や団体を憎んだり、罰しようとすべきではないという意見がある。つまりこの世には普遍的正義などなく、各々が持つ正義はあくまで相対的なもので人の数だけ正義というものはあるものだから、基本的に対社会的行動はあくまで保身と損得勘定を行動規範とすべきだという意見である。

 このような意見が近代において先進国において多数派を占めることにより、上級国民が調子づき自己正当化に自己正当化を重ね、明らかに長期的に見れば人体に有害なコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などを無知な患者に投与して多くの死傷者を出しながら金儲けすることを正当化してきた。また大きく見れば先進国が発展途上国を搾取することを先進国社会は正当化してきた。

 さて、本当に正義というものは相対的なものであり、立場により無数に存在するというポストモダニズム的意見が正しいのかというと、古今東西の聖者、賢者と同じく私は否という。

簡単に言うとポストモダニズムが想定している正義とは、各自の小我が自らを正当化するためのただの屁理屈にすぎないもので、本当の正義とは各自の大我が正しいと思った概念であり、この各自の大我が正しいと思った概念、正義は普遍的、人類共通なものであると私は思っている。

小我が自らを正当化するために作った偽の正義と大我が正しいと思って作った本物の正義との違いは小我が自らを正当化するために作った正義は、基本的に自らが得をするために作った正義だから、その正義のためにそれを主張する人は損することはできないのに対して、大我が正しいと思った正義のためには、それを主張する人は損すること、時にはそのために命をかけることを躊躇しないということで見分けることができる。

おそらくコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などで多数の死傷者を出しながら金儲けしてきた医者や製薬会社などのDSの直接の関係者は今後第三次世界大戦に勝った反DS勢力により全財産没収されることになると思われるが、ここで思想的に今までDSを支えてきたポストモダニストの主要な宗教家、哲学者や思想家、作家たちの動向が注目される。

私自身は上記で述べた通り、ポストモダニズム(敵を愛せ! 悪人を許せ! 悪人を憎むな! 善悪を基準にして行動するな! 損得勘定だけで動け!)などという思想(つまり発展途上国の罪のない子供たちの不幸は見て見ぬふりをして、先進国の悪党、寄生虫にはもっともっと同情し、寛大に接するべきであるという思想)はただの偽善思想、偽善哲学だと確信しているが、もし私の意見が間違っていてポストモダニズムが大我によって作られた正真正銘の正義だとしたら、ポストモダニストの宗教家や哲学者や思想家、作家などは自らの保身や損得勘定を全く顧みず、たとえ自分が全財産没収されようとも、たとえ反DS勢力の逆鱗にふれ、自分が断頭台の露に消えることになろうとも徹底的に自らの正当性を主張し続けることが予想されるからである。

私自身はもうすぐ死ぬので、ポストモダニストたちの反論の詳細を聞くことはできないが、もし多くのポストモダニストたちが自らの財産、命を顧みないで自らの正当性を主張するようなことがあったとしたならば、とりあえずそのポストモダニストたちは全員殺処分したのち、後世の人はもう一度ポストモダニストたちがどんな感情に基づいて、敵を愛せ、悪人を許せ、悪人を憎むな、無抵抗主義に徹せよ、と主張しながらギロチンの露と消えていったかを慮り、ポストモダニズム(キリスト教的価値観の最終形態)について本当にただの小悪党の考えた自己正当化、ただの自己愛及び自己愛を拡大した醜い差別愛だけに基づいた思想であったのか、もしくは現代の東洋人の私たちがまだ知らない感情に基づいた本物の正義だったのかを再考すべきだとは思っている。

 

2024年9月10日火曜日

心を青くするということについて

 

心を青くするということについて

 「自然治癒力について」で心を青くすれば自然治癒力は高まると書いたが、最後に心を青くするとはどういうことかということについて詳細を述べようと思う。

 統合失調症の急性期には誰もが心を恐怖感に支配されるし、陰性症状においては心が真っ黒な絶望感でいっぱいになる。またそのような恐怖感や絶望感に支配されている時は心に極度の緊張感が張りつめている。

 そういう時は他人に人間的好意など抱ける余裕などなく、疑心暗鬼になり他人の好意を拒絶してしまうので自分の性格が悪くなったように感じてしまうものである。もう自分の心の中の大慈悲(無差別愛)の炎は恐怖感や絶望感により吹き消されてしまったように感じられ、それがより自分を心細い寒々とした気持ちにさせ、そのことによってより恐怖感や絶望感を強く感じてしまうようになる。

 そういう時どうすればいいかというと心を青くすればいいのである。極度の恐怖感や絶望感を感じている時、無意識下の大慈悲(無差別愛)という温かい陽の感情は陰に転じて大智という静清な知性に変わってるので、そういう時はともかく自分の中に感情的温かみを求めるのではなく、ともかく自分の生き地獄的な今の状況からの脱出方法を冷静に真面目に考えて考えて考え続ければ、無意識下の大智が青く輝き始め、心が青くなる。つまり心を青くするとは絶体絶命のピンチや絶望的状況において取り乱さず、真面目に冷静にその状況下において脱出口を考えることをいう。絶体絶命のピンチや絶望的状況において人は自暴自棄になったり、錯乱したりしたくなるものだがそういう醜い感情をあくまで知性で押さえつけて、冷静になるということでもある。

 心が青くなれば心の中に張りつめていた極度の緊張がゆるみ、心の中の恐怖感や絶望感を客観視できるようになる。心の中の恐怖感や絶望感を客観視できさえすれば、想像力によって強化された恐怖心や絶望感は一気に相対化され縮小されるので、恐怖感や絶望感をほとんど克服でき、より正気に戻りより真面目に冷静に考えられるようになるという好循環に入る。

 

 大智とはどういうものかと、もう少し詳しく知りたい方もいると思うのでちょっと説明しておく。大智とは仏教では大慈悲を知性化したものだと言われている。私自身は圧倒的恐怖感や絶望感の中で真面目に冷静に自分の身の回りの状況と自分自身の状況を考えること自体を大智だと基本的に考えている。(ちなみに圧倒的恐怖感や絶望感の中で大慈悲を意志化したものが捨て身の心、捨て身の覚悟というものであると私は思っている。)

また大智はあくまで知性であり大慈や大悲とちがい感情ではないので大智を意識上に浮かび上がらせることによってなんらかの悟り体験というものを得られるものではないと私は思っている。少なくとも私は大智を神秘体験を伴う悟りとして得たという告白のある書物を読んだことはない。)無意識下の大慈悲という感情が意識上に共同体感覚や他人への友愛の心を作るように、無意識下の大智という知性は意識上に美意識というものを作る。そして美意識と捨て身の心が逆境下においても人に美しく生きようとさせ、または美しく死のうとさせる気力を生み出す。

全く脱出口のない所に追いつめられたような逆境下において心を青くして真面目に冷静に考えると一般的にどういう解決策を見つけ出すかというと、統合失調についていえばもう統合失調症という障害を持った自分にとっては美しく生きるために、または美しく死ぬために害にしかならない小我の欲望やつまらない執着、虚栄心などをできるかぎり意識的にとりあえず当面の間刈り込んで身軽になろうという解決策に行きつくはずである。そして実際自分にとってどうしても大切な中核部分以外の自分を刈り込むことにより自分自身が人間として素朴になり、そのことにより自分をセルフコントロールしやすくなり、再び心に余裕が持てるようになる。そうすると周囲の人間の自分への対応が変わり、世界の局面が変わる。世界の局面が変わると生き地獄からの脱出口が見つかり、生き地獄から脱出できるようになるというのが一般的解決策といえる。

確かに上記の通りすればすべての統合失調症患者にとって必ず100%周囲の人々や周囲の状況がいい方向に変わり、すべての統合失調症患者が生き地獄から脱出できるようになるとは私自身も断言はできないが、基本的に心を青くすれば、人間として素朴になり、人生をまたセルフコントロールできるようになるので、そのことによりある程度逆境下においても心に余裕が持てエレガントに生きられるようになるということは100%確実に言えると私は考えている。

結局統合失調症患者にとってエレガントに生き、エレガントに死ぬこと自体がゴールなのであり、エレガントに生きるということは統合失調症を発症してしまったという自分の不幸を美しく思える心を持てるかどうかなのである。つまり圧倒的恐怖感や絶望感の中でも大智を輝かし真面目に冷静に考えると、必ず自分の不幸な人生を美しく思えるくらいの心の余裕を持てるようになれ、エレガントに生き、またはエレガントに死ねるので統合失調症患者にとっては心を青くしようと思うことはやはり最重要なことなのである。

 

 

 補足

しかし統合失調症の回復期前期において一度完全に絶望することは、私は非常にいいことだと思っている。一度完全に絶望しなければ、どうしても人並みに幸せになりたいという執着を捨てられず、心を青くすること、諦念を持つことはできないからである。