また幸福論的に加害者意識と被害者意識をこう説明することもできる。
人はだれしも子供のころ、自分を弱いと感じる。そこでその自分の弱さについて劣等感を抱いたり、世界に対して被害者意識を持ったりする。
劣等感を抱いてそれを自分に甘く、安易に解消しようとする人は優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとする。優越感、自己肯定感を持つために多くの人は受験勉強して同世代の人とのつぶしあいの競争に勝っていい大学に入り、いい会社に入ろうとする。他人を出し抜いて競争に勝ったら、確かに優越感、自己肯定感を手に入れることができる。だが同時に優越感の土台となる傲慢、横柄、という感情で心が満たされてしまいどうしても自分より学歴の低い他人を見下し、馬鹿にしてしまう。またそういう自分の傲慢さ、そして学歴社会、つぶしあいの競争を自己正当化のために肯定する。そのような人が上に行くと、どうしても主観的利己的にしか社会を見れず、目先の損得勘定、自己愛から全体の利に反して学歴社会やその他つぶしあいを奨励する制度をより強固にしようとする。その結果社会は当然弱肉強食、つぶしあいの競争の論理が支配し、誰もがお互いの足を引っ張りあい、お互いを疑いあい、監視しあい、足元を見あう失敗回避欲求に満たされて、他人の失敗は徹底的にその自己責任を追及するような冷たく暗い誰にとっても不幸で消極的な社会が出来上がる。またそういう人の持つ中核信念は至恐怖というものになる。至恐怖とはどういうものかというと自分は恐怖心に絶対服従して生きるし、他人も恐怖によって支配しようとすること、恐怖こそこの世を支配する絶対的な力だと思うことである。
一方自分の弱さに対してより真摯に向き合い、自分に厳しく自分の弱さを中和しようとする人は自分が今被害者意識に凝り固まっていると思い、加害者意識、罪悪感という陰の感情を持つことによりその被害者意識を中和しようとする。自分を客観的に見て、(とりあえず自己愛(生への執着)をわきに置き、)自分が不幸になることを恐れず加害者意識に向き合おうとする。誰もが無意識に被害者意識に凝り固まり、なんとかして他人をつぶそうとする世の中で加害者意識をもって生きようとするとよほどの幸運がない限りまず人並みの幸せをつかむことはできない。だがそれでも加害者意識を持ち、人生を苦諦、修業期間だと思い、自分の良心、美意識から思いやりを捨てずに真面目に陰徳を積んで生きると前述している通り加害者意識の裏側の真の自尊心という確固たる感情を持つことができるようになる。また陰徳を積むと自然に心から邪心、私心、つまり小我の心が減少する。そしてそういう人が年老いて自分の弱さを自然に受け入れられるようになると柔弱という心の持ち方をできるようになり、死に対する恐怖、生への執着(自己愛)からの解放感とそこから生じる成熟した大人の安らぎといったような真の幸せを手に入れることができる。そしてそのような大人たちが中庸経済システムを作ればその社会はお互いを信頼しあい、譲り合い、助け合う、誰もが成功達成欲求に従って積極的に働き、お互いの失敗にドンマイと言い合えるような明るく温かい社会になる。このような人の中核信念は至誠となる。至誠とはどういうものかというと端的に言うと大局観を備えた美徳である。人は自己愛、生に執着しているうちはどうしても大局観を持てないが、加害者意識をきちんと持って長年苦悩しながらも陰徳を積むことにより、私心、自己愛をなくして大局観を持つことができるようになる。そして大局観を伴う美徳を持つと初めて自らの美徳が世のため、そして自分自身のために実際の生活でも有用に使えるようになる。つまり他人のためと思ってやったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになる、そういう道を見出せるようになる。そういう道を見出せる目を持つことを至誠というのである。
結局自分に甘く安易に劣等感を解消しようと優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとした人や社会、生きることに苦悩せず、安易に自己正当化して生き、自分を守ることをともかく最優先しようとする人や社会は冷たく暗く不幸になり、自分に厳しく、きちんと加害者意識という陰の感情を持ち、苦悩して生きることを厭わず、自分を人間的に成長させることを最優先する人や社会は明るく温かい幸せになるというのがこの世の摂理なのである。聖書の「狭き門よりは入れ」という言葉はやはり正しかったのである。
ただここで一つだけそれでもまだ優越感を持って生きていきたいという人たち、つぶしあいの競争、学歴社会を至高と考える人たちの考えの大局的誤謬について指摘しておきたい。これらの人たちの考えでは人は自然に集団化して、どんなにエリートが傲慢、残虐でも共同体は壊れない、つまり共同体を維持するためには公正という美徳に沿って学歴によって階級化していれば、その階級格差がどれくらいむごくても共同体は維持できると考えているようだが、確かに共同体は公正さも必要だが、基本的にはそもそも人は隣人愛から集団化して共同体を作ったのであり、かつ共同体感覚(隣人愛)なしでは共同体は維持できないという歴史的事実を忘れていることが学歴社会を至高とする人たちのまちがっているところなのである。
つまり被害者意識に凝り固まり、絶対自分の加害者性には目を向けないといった態度の人がエリートとなり共同体を永続的に統治することは不可能だという真理は傲慢横柄な学歴主義者にも絶対理解しておいてほしい。そのうえであくまで一小市民として社会の片隅で優越感を持ち、傲慢、横柄に、(客観的に見れば卑賤に)生きていきたいというのであれば、それについては私としてはもうこれ以上何も言うことはない。
最後に幸福論的に具体的に総体としてどのように人生を生きることが美しいかと私が思っているかということについて述べてこの章を終わりにしたい。若い頃は生きているという罪悪感に暗く苦悩しながら世間に対して悪戦苦闘して生き、壮年以上になったらあの世があるかどうかは分からないがとりあえずこの人生は魂を向上させるための修業期間と思い、大局観のある美徳、至誠を以て世のため人のためにエネルギッシュに明るく働いて生き、死に際においては自分の魂を向上させてくれた世界に対して感謝の気持ちを持って穏やかに死んでいく、そんな風に人間は生きるべきなのであると私は思っている。
完