2022年4月20日水曜日

幸福論 4

 

また幸福論的に加害者意識と被害者意識をこう説明することもできる。

人はだれしも子供のころ、自分を弱いと感じる。そこでその自分の弱さについて劣等感を抱いたり、世界に対して被害者意識を持ったりする。

劣等感を抱いてそれを自分に甘く、安易に解消しようとする人は優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとする。優越感、自己肯定感を持つために多くの人は受験勉強して同世代の人とのつぶしあいの競争に勝っていい大学に入り、いい会社に入ろうとする。他人を出し抜いて競争に勝ったら、確かに優越感、自己肯定感を手に入れることができる。だが同時に優越感の土台となる傲慢、横柄、という感情で心が満たされてしまいどうしても自分より学歴の低い他人を見下し、馬鹿にしてしまう。またそういう自分の傲慢さ、そして学歴社会、つぶしあいの競争を自己正当化のために肯定する。そのような人が上に行くと、どうしても主観的利己的にしか社会を見れず、目先の損得勘定、自己愛から全体の利に反して学歴社会やその他つぶしあいを奨励する制度をより強固にしようとする。その結果社会は当然弱肉強食、つぶしあいの競争の論理が支配し、誰もがお互いの足を引っ張りあい、お互いを疑いあい、監視しあい、足元を見あう失敗回避欲求に満たされて、他人の失敗は徹底的にその自己責任を追及するような冷たく暗い誰にとっても不幸で消極的な社会が出来上がる。またそういう人の持つ中核信念は至恐怖というものになる。至恐怖とはどういうものかというと自分は恐怖心に絶対服従して生きるし、他人も恐怖によって支配しようとすること、恐怖こそこの世を支配する絶対的な力だと思うことである。

一方自分の弱さに対してより真摯に向き合い、自分に厳しく自分の弱さを中和しようとする人は自分が今被害者意識に凝り固まっていると思い、加害者意識、罪悪感という陰の感情を持つことによりその被害者意識を中和しようとする。自分を客観的に見て、(とりあえず自己愛(生への執着)をわきに置き、)自分が不幸になることを恐れず加害者意識に向き合おうとする。誰もが無意識に被害者意識に凝り固まり、なんとかして他人をつぶそうとする世の中で加害者意識をもって生きようとするとよほどの幸運がない限りまず人並みの幸せをつかむことはできない。だがそれでも加害者意識を持ち、人生を苦諦、修業期間だと思い、自分の良心、美意識から思いやりを捨てずに真面目に陰徳を積んで生きると前述している通り加害者意識の裏側の真の自尊心という確固たる感情を持つことができるようになる。また陰徳を積むと自然に心から邪心、私心、つまり小我の心が減少する。そしてそういう人が年老いて自分の弱さを自然に受け入れられるようになると柔弱という心の持ち方をできるようになり、死に対する恐怖、生への執着(自己愛)からの解放感とそこから生じる成熟した大人の安らぎといったような真の幸せを手に入れることができる。そしてそのような大人たちが中庸経済システムを作ればその社会はお互いを信頼しあい、譲り合い、助け合う、誰もが成功達成欲求に従って積極的に働き、お互いの失敗にドンマイと言い合えるような明るく温かい社会になる。このような人の中核信念は至誠となる。至誠とはどういうものかというと端的に言うと大局観を備えた美徳である。人は自己愛、生に執着しているうちはどうしても大局観を持てないが、加害者意識をきちんと持って長年苦悩しながらも陰徳を積むことにより、私心、自己愛をなくして大局観を持つことができるようになる。そして大局観を伴う美徳を持つと初めて自らの美徳が世のため、そして自分自身のために実際の生活でも有用に使えるようになる。つまり他人のためと思ってやったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになる、そういう道を見出せるようになる。そういう道を見出せる目を持つことを至誠というのである。

結局自分に甘く安易に劣等感を解消しようと優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとした人や社会、生きることに苦悩せず、安易に自己正当化して生き、自分を守ることをともかく最優先しようとする人や社会は冷たく暗く不幸になり、自分に厳しく、きちんと加害者意識という陰の感情を持ち、苦悩して生きることを厭わず、自分を人間的に成長させることを最優先する人や社会は明るく温かい幸せになるというのがこの世の摂理なのである。聖書の「狭き門よりは入れ」という言葉はやはり正しかったのである。

ただここで一つだけそれでもまだ優越感を持って生きていきたいという人たち、つぶしあいの競争、学歴社会を至高と考える人たちの考えの大局的誤謬について指摘しておきたい。これらの人たちの考えでは人は自然に集団化して、どんなにエリートが傲慢、残虐でも共同体は壊れない、つまり共同体を維持するためには公正という美徳に沿って学歴によって階級化していれば、その階級格差がどれくらいむごくても共同体は維持できると考えているようだが、確かに共同体は公正さも必要だが、基本的にはそもそも人は隣人愛から集団化して共同体を作ったのであり、かつ共同体感覚(隣人愛)なしでは共同体は維持できないという歴史的事実を忘れていることが学歴社会を至高とする人たちのまちがっているところなのである。

つまり被害者意識に凝り固まり、絶対自分の加害者性には目を向けないといった態度の人がエリートとなり共同体を永続的に統治することは不可能だという真理は傲慢横柄な学歴主義者にも絶対理解しておいてほしい。そのうえであくまで一小市民として社会の片隅で優越感を持ち、傲慢、横柄に、(客観的に見れば卑賤に)生きていきたいというのであれば、それについては私としてはもうこれ以上何も言うことはない。

最後に幸福論的に具体的に総体としてどのように人生を生きることが美しいかと私が思っているかということについて述べてこの章を終わりにしたい。若い頃は生きているという罪悪感に暗く苦悩しながら世間に対して悪戦苦闘して生き、壮年以上になったらあの世があるかどうかは分からないがとりあえずこの人生は魂を向上させるための修業期間と思い、大局観のある美徳、至誠を以て世のため人のためにエネルギッシュに明るく働いて生き、死に際においては自分の魂を向上させてくれた世界に対して感謝の気持ちを持って穏やかに死んでいく、そんな風に人間は生きるべきなのであると私は思っている。

 

 

 完

幸福論 3

 

話をもとに戻して加害者意識と被害者意識について語ろう。

人間には緊張を司る交感神経とリラックスを司る副交感神経がある。図を見ても分かる通り、我々は安らぎや解放感といった副交感神経的幸福(大我の幸福)も欲しければ、充実感や勝利感といった生きる喜び、交感神経的幸福(小我の幸福)もまた欲しい。つまり我々が幸福になるには自分の中の加害者意識と被害者意識をバランスよく両方持つことが必要不可欠なのである。どうすれば自分の心の中に加害者意識と被害者意識をバランスよく持てるのかというと結論から言えば、死を重んずれば双方をバランスよく持てる。

「死を重んずる」「生を重んじる」とは双方老子の中に出てくる言葉なのであるが、「死を重んじる」という言葉がどういう意味かと説明する前にまずその反対語である「生を重んずる」という言葉の意味することを説明する。

生を重んずるとはいつか必ず人間は死ぬし自分もいつか死ぬ、という真理に目をつぶり、ともかく今の自分の命を執着して、この世の今現在の自分(小我)を大事にして生きるということである。生を重んじる人は表面ではきれいごとを言うかもしれないが、行動からその人を観察すればなんでもかんでも損得勘定でだけ考え、ともかく目先の生存競争に熱中して、どんなに自分の魂を汚すことになろうが、自分の愛する妻子や友人を傷つけることになろうが、自分の利を最大化しようとする卑賤な利己主義者であるということが分かる。どうしてそうなるかというと生を重んじる人は死に対する圧倒的恐怖心から死んだらすべて終わり、完全に無になると何の根拠もないが強く確信しているからである。つまり生を重んじる人は恐怖に自分の心を支配されているから他人を思いやる心の余裕が持てないのである。この世を主観内世界、つまりニヒリスティックに言えばこの世界を一種の仮想現実か何かだと思っているから我欲に凝り固まり自分以外の他人の死や不幸に全く同情しないのである。

これに対して死を重んずる人は、どうせいつか必ず死んでしまうのだから今現在の自分よりも生まれてから死ぬまでの総体としての自分(大我)、総体としての人生を大切にする人である。総体としての人生を大切にしようとする人は自分にとって自分の人生を価値あるものにしようと思う。なぜなら自分の人生に価値があると思わなければ自分の人生を貴重に思い、大切にしようとは思えないからである。そして自分の人生を価値あるものにしようと思うと必ず人は美しく生きよう、人間的に成長させて、できればこの人生を、また自分自身を完成させようと思う。また死を重んじる人は大局観のもたらす心の余裕を持っているからこの世界を美しいと感じるし、この世界への愛を持っている。そのためこの美しい世界にふさわしい人間でありたいと思う。そういう面からも死を重んじる人は美しく生きたいと思うし、自分を成長させたいと思うのである。

つまり死を重んじる人はどうせいつか必ず死んでしまうのだから自分の中にある死に対する恐怖心を意識的に軽視して目先の生存競争(先進国では快楽と幸福の獲得競争)、自分の利を最大化しようとして生きることはほどほどにして、時には自分に利に反してでも、自分の人間的成長を最大化しようと生きる人である。

そういうわけで人は死を重んじた上で(総体としての人生を大切にした上で)、表面的生活の上では生を重んじて生きると、きちんとした加害者意識を根底に持ちながらそのうえでいまを大事にするという被害者意識の昇華した状態をバランスよく持てるのである。

 

明日に続く

 

幸福論 2

 

ここですこし話はそれるが自由について語っておこう。

自由には無抑制に行動するという偽の自由と道徳的に行動するという真の自由と二種類ある。若いころは放縦であること、無抑制に振舞うことが真の任意性、真の自由意志であると思ってしまうものだが、上記に述べたように意のままに振舞うこと、生への盲目的意志を無制限に表現することは結局無意識下にある死に対する恐怖心から強制させられている行動に過ぎない。真の任意性、真の自由意志とは心の中に無意識下の恐怖心から損得勘定で動きたいという強制力があるにもかかわらず、それでも勇気をもって他人の幸せのため、志のために良心的行動を任意的、自主的に選択することなのである。

ちなみに処世術的なことになるが、もし自分の心の中の大慈悲と死に対する恐怖の割合が64だとするなら、人生においていつでもどの選択肢にも大慈悲の意見を聞くのではなく、10回中4回は小我の意見、損得勘定で考えた意見を採用することが通俗的な意味での幸せを得る要諦である。

上記の事から結局、真の自由とそれがもたらす解放感や安らぎといった幸せは本質的に勇敢である者以外獲得できないものであって、決して政治的に万人に与えられることができるような性質の富ではないということが分かるだろう。

人生において勇気は目の前に立ちふさがる障害を打ち砕く矛に例えられるのに対して、自尊心は外界からの攻撃から魂を守る盾に例えることができるが、ここで自由について簡単に述べた手前、自尊心についても少し簡単に述べておこうと思う。

自尊心には人並みに働き、人並みに幸せなとき及び自分を一人前の人間と確信できているときに感じられる心のゆとり、いわゆる自己肯定感とも言われる自尊心と良心的行動を積み重ねることによって得られる心のゆとり、いわゆる真のプライドとも言われる自尊心の二種類がある。

自己肯定感は図にも書いている通り被害者意識をその裏側に持つものであるから、自己肯定感の強い人は必ず他人一般に強い敵意を抱いている。そのため自己肯定感の強い人は必ず自分以下の弱者を見下すし、彼らに対して横柄な態度をとる。また自分自身が事故や病気などで障碍者になったりして人並みに働けなくなり、かつ自分と同じような自己肯定感の強い人たちに見下されるような弱者になると簡単にその自尊心が完膚なきまでに崩れ去り絶望して、二度と精神的に回復できなくなる。

一方、良心に基づいて行動する真のプライド、真の自尊心を持つ人たちは人生の途上で不運により挫折した時に何度でも立ち上がるレジリエンス(精神的回復力)を持っている。なぜなら不運により挫折しても自らの自尊心の土台である過去に自分がした善行の積み重ねの記憶は全く傷つかないからである。

また真の自尊心は勇気をもって良心的行動をすれば必ず得られることから、真の自尊心を持つ者は必ず自力本願になるし、自分で自分の人生を支配できている自己効力感が真の自尊心を持つ者に、無気力で他力本願な被害者意識に凝り固まった人々よりもストレスの少ない朗らかな人生を与えてくれる。また大病を患って奇跡的に回復した人なら分かると思うが、良心的行動の原動力となる加害者意識、強い良心の呵責(大病により被害者意識に凝り固まり、自分を過剰にかわいそうだと思う感情の否定)、美意識は病を患って生命力(生きんとする意志から生じる精力)が微弱になった時、第二エンジンとして動き始め奇跡的に身体精神を回復させる自然治癒力ともなるのである。

人並みな幸せを感じるときに得られる自己肯定感は、その本質を不幸という名の恐怖から逃れているという感覚にことに置くから自己肯定感の裏側には無意識下の恐怖心がぴったりと張り付いていることが分かる。一方、良心を大事にする真の自尊心は当然良心の呵責、加害者意識と表裏一体のものであることから真の自尊心の裏側には大慈悲がぴったりと張り付いていることが分かる。

以上のようなことから、健康な人はもちろん両方の自尊心を持つことが望ましいが、どちらかといえばより強固な真の自尊心を持つことにより精力を傾けるべきとは言えるだろう。そして良心を大事にする真の自尊心を得るためには繰り返しになるが勇気が必要不可欠となる。つまり結局真の自尊心も勇気から作られているというになる。そういうわけで幸福論的に人生において一番必要なものは勇気であるということはどうしても否定できない事実なのである。

 

明日に続く

 

幸福論 1

 

加害者意識と被害者意識について

または幸福論

 

パスカルの言葉にこんな言葉がある。「人間は2種類に分けられる。自分を罪人と思っている義人か、自分を義人と思っている罪人である。」この言葉が本当に真実であるかどうかはともかくとして、とりあえず人間には加害者意識を強く持っている人と被害者意識を強く持っている人がいるという事実は読者も認めることであろう。

加害者意識とは自分の存在が多くの動植物の犠牲の上にあるという事実、発展途上国の人々からの搾取により自分が豊かに暮らせているという事実、そして発展途上国の何の罪もない子供たちが餓死していくのを横目で見ながら自分が生きているという事実に対して良心の呵責を強く感じることによって本来意識上にかすかにあった良心の呵責の声、罪悪感を強化、知性化した時にできるものである。

被害者意識とはこの世界では弱肉強食の生存競争の論理が支配していると判断し、そのことに心の底から恐怖し、そして本来意識上にぼんやりとあったなんとしてでも生き残ろうという意志(生への盲目的意志)が強化、知性化した時にできるものである。

大体6人中5人の質の悪い粘土で作られた人間は被害者意識に凝り固まる。なぜなら彼らにはわざわざ加害者意識を持って何の得にもならないことに苦悩することが馬鹿らしく思えるし、また被害者意識に凝り固まった方が自分の悪事、不道徳さを正当化できるので短絡的に都合がよいと思ってしまうからである。さてここでその考え方が本当に正しいかどうかについてよく検討してみよう。

そもそも幸福には二種類ある。解放感や安らぎを感じている時のおだやかな幸福と自分の持てる能力を全開にして運命と格闘しているときに感じる充実感や敵を倒した時に感じる勝利感、障害を乗り越えたときに感じる満足感のようなエネルギッシュな幸福である。解放感や安らぎを感じているときの穏やかな幸せも充実感、勝利感、満足感を感じているときのエネルギッシュな幸せもどちらも陰陽でいったら陽の気の明るい感情である。

人はみな陰の気を嫌い、なるべく陽気に生きたいと願うが、当たり前の事ではあるが陰陽は一体のもので決して分離させることはできない。

解放感、安らぎといった幸福の裏側、根っこには加害者意識という世界への陰気な態度、心があり、充実感、勝利感、満足感といった幸福の裏側には被害者意識という世界への陰気な態度、心がある。

図にするとこうなる。

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図の説明を少しすると、加害者意識や良心の呵責といった陰の感情を否定して心の中から排除してしまったら、解放感や安らぎといった幸せの基盤にある隣人愛、無差別愛を否定してしまうことになってしまい、(自分自身の心の中にある恐怖からの)解放感や(自分自身の心に中にある大慈悲の発する光としての)安らぎといった幸せも絶対に味わえなくなるということであり、自分の心の中に被害者意識、恐怖感があるからこそ被害者意識が自己正当化して自分の目の前に立ちふさがる敵を悪いものだと確信し、その敵と戦う充実感、その敵を打ち倒す勝利感に幸せを感じるのである。(敵が善人で、自分が悪党だと思っているならたとえ敵を打倒し、勝利してもそのことに人は喜びを感じない)

そういうことから短絡的に被害者意識に凝り固まろうとするのは間違っていて、どちらかというと自分の心の中で加害者意識7、被害者意識3くらいの割合で持ちながら生きていくのが正しいということがわかるであろう。

また確固とした解放感や安らぎを築きたいと思ったら、解放感や安らぎの土台となる加害者意識をきちんと持つようにしてすべきだし、劣等感や無力感、絶望感に満たされたくなければ被害者意識に凝り固まりこの世の勝利に強くこだわったり、ともかく快楽を貪ろうとしたり、一時的に社会的地位が上がっても人に対して傲慢に振舞ったりしてはいけないことが分かる。

だが基本的に被害者意識というものは自分の無意識下にある死に対する恐怖から強制的に作られる意識であり、誰でも多かれ少なかれ自然に持っている人生に対する態度であるのに対して、加害者意識というものは確かに自分の無意識下にある大慈悲、無差別愛から作られたものであるが、自分が任意的、自律的に良心の呵責という心の声に耳を澄まして、生きていることについて苦悩することによって作られる意識であり、人生に対する態度である。つまりきちんとした加害者意識を持つか否かはひとえに自分の自主的、任意的選択にかかっているのである。

 

            明日に続く