2024年8月19日月曜日

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

私の加害者意識哲学は個人哲学的側面もあり、社会哲学的側面もある。加害者意識哲学の個人哲学的側面は基本的インド哲学に準拠していて、加害者意識哲学の社会哲学的側面は基本的中国哲学に準拠している。

この章ではインド哲学とその問題点、中国哲学とその問題点についての私見を述べてから、インド哲学と中国哲学の合体として側面から見た加害者意識哲学について今一度説明しようと思う。

 

インド哲学は私見では生きることについて苦悩する人たちが考えた個人哲学である。具体的に言えば他人や他の生命の犠牲の上に生きている自分をどうしても許せないという思いから生まれた哲学である。つまり強すぎる正義への愛に基づく哲学、または加害者意識に凝り固まりすぎた哲学とも言える。インド哲学の目指すところは生の克服(解脱)である。(つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が自分の内面に向かい人間としての完成を目指そうとする哲学ともいえる。)

つまりインド哲学は生を克服することによって自らの苦悩を個人的に滅却しようとする哲学ということである。

具体的にどのようにして生を克服して自らの苦悩、原罪を滅却するのかというと、ヴェーダでは瞑想等の修業により自らの無意識下にある大慈(無差別愛)を意識上に浮上させ、この世界の本質である世界感情と一体化させる。無意識下の大慈が意識上に浮上している時間は生涯に一回、12分のことでしかないがその状態をヴェーダの悟り(アートマンとブラフマンの一体化)という。ヴェーダの悟りとはどういう内容化というと自分自身の本質もこの宇宙の本質も同じが大慈(無差別愛)だと悟る、知ることである。(悟りとは体験智であって、基本的に私がこういう風に言語化して伝えても読者は実際に読者自身が悟らなければ少しもヴェーダの悟りを知ることにはならないのであるが、まぁ言葉にするとこういうことになる。)そしてその悟りを得ると自らの苦悩、生きていることに対する罪悪感も滅却されることになる。なぜなら苦悩している自分も自分のために犠牲になっている他者も本質的に同一の大慈だということを悟ったからである。

ヴェーダの悟りの問題点は、この世界にうようよしている卑劣な小悪党どもとも自分が一体であるということ、その小悪党たちの持つ下劣な愛にも価値があると認めなければならないことなのであるが、その問題の克服として仏陀が現れ、仏教の悟り、大悲(ニルヴァーナ)を新たに発見した。大悲とはどういう悟りかというと大慈という悟りを得た後、とりあえずまた人は世界と分離して正気に戻るわけであるが、正気に戻った後も修業を続け(世の中で美しく正しく生きようと苦労を続け)、自分自身の魂を世界感情より高貴にすることによって、ほとんどすべての人が被害者意識に凝り固まり、お互いに対立しあっている世界を客観的に認識し、この世界に対して心から悲しみの感情を持つことである。つまり悟った後無意識下にまた沈んでいた大慈という感情を大悲という感情に昇華、浄化させて意識上に再浮上させることが仏教の悟りと言える。(ちなみに大悲という悟りの喜びは大慈の悟りと違い12時間くらい続く。私は夜7時ごろに悟り、その夜11時ごろ寝て朝7時ごろ起きたときもまだかすかに大悲の喜びが体の中に残っていた。)

ヴェーダの悟りも仏教の悟りも共通して言えることは、どちらも自分自身をよりよくすることによりあくまで自力本願で自分の中の苦悩を個人的に解決しようとすることにある。つまりインド哲学の最大の問題点は個人主義的でありすぎて、人間という生き物の社会的生物という側面を無視していることである。そのことにより、大慈や大悲を悟ったインドの聖者はみな正しく生きることそして禁欲的生活を民衆に強く勧めた。民衆は到底そんな禁欲的生活はできないから、自らをダメな奴だと思い、意気消沈して無力感を感じながら生きることをよしとするようになりカースト制度(要するにいい生まれの人はいい人だから幸せになるべきであり、卑賤な生まれの人は卑劣だから不幸であるべきであるという優生思想)に反抗する気力を持てなかった。

つまり正義を愛するインドの聖者は禁欲主義を薦めたが、インドの民衆は無抵抗主義という禁欲主義という正義、大慈の結晶とは似て非なる偽善を愛するようになったということである。(禁欲主義は自らの小我の抑制だが、無抵抗主義は本質的に自らの大我の抑制、大慈の意識上の感情の一種である悪への憎悪の抑制だから無抵抗主義は禁欲主義とは反対のものなのである。)

要するにインド哲学は確かに美しいが、インド社会をより良くするためにはまったく役に立たなかったということである。またインド哲学は上述している通り強い正義への愛に基づく哲学であり、確かにインドの禁欲主義はインドの聖者たちの正義への愛の結晶と言えるかもしれないが、結果それは庶民に無力感を抱かせ、カースト制度という悪を憎む気力を失わせたのは皮肉と言えるだろう。

 

対して中国哲学はどうかというと、中国哲学は弱者への同情心からなんとかしてみんなを幸せにしたい、世の中をよくしたいという人たちが考えた哲学である。つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が外の世界に向かい志にというものを大切にする哲学と言える。みんなが幸せに暮らすにはどうすればいいかというと、中国哲学ではみんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重できるような社会を作ればよいとする。みんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重すれば社会は自ずから明るく温かく和やかになるし、そうした社会ではみんなが自分の利の最大化を追求せず、お互いに一歩譲って、他人のためと思ったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになるような大局観のある道を見出せるというわけである。

具体的にどのようにすればみんなが心のゆとり、心の余裕を持てるかというと老子は、みんなが中庸を愛して生きればいいとする。中庸とはどのようなものかと言うとわが主著「共同生活」で書かれている通り、正義と自己愛の中間にある徳である。つまりインド哲学のように自己否定につながるほど厳しく正義を愛さないで、それなりに自分の小我、自分の生活を愛してほどほどに生きるのがよいと中国哲学は基本的に主張している。

インド哲学が禁欲を愛するなら、中国哲学は知足を愛するということである。

老子の哲学のどこが最大の問題かというと、中庸はあくまで自由意志を基盤にしてできているということである。どういうことかというと禁欲主義を庶民に強制しようとすることは可能だが、たとえどんな権力者であろうとも足るを知る心を庶民に強制することはできないということである。つまりあらゆる中庸の徳はあくまで庶民が自発的、任意的に愛するようにならなければ中庸の徳ではないのであり、心のゆとり心の余裕を持つことはできないのであることが老子の哲学の社会哲学としての最大の問題だと言える。

このため結局、老子の哲学は悪党やくずどもが知足をわきまえず、自分の利を最大化して生きようとすることを止めることができなかった。つまり中庸は自己愛をそれなりに肯定しているため、どうしても人生を不真面目に生きること、小悪党として生きること、損得勘定だけ考えて生きることを否定できなかったということである。

その問題を解決するために儒教が現れた。儒教とはどういう思想かというとみんなが礼節を守って他人に接すれば社会は和やかになるという思想である。確かに礼節を守って人に接しよ! ということは強制できる。だがしかし、儒教は礼節さえ守れば自分の利の最大化を追求してもいいとする思想でもある。

儒教により中国社会は中庸から公正さを愛するようになり、最終的に科挙などにより超学歴社会、能力主義社会、努力至上主義社会を作り、人々の心から他人を尊重できるような心のゆとり、心の余裕は消え去ってしまった。

 

つまりインド人はあくまで正義だけを愛し、中国人は中庸だけを愛したため、インド社会には偽善が横行し、中国社会は公正さに支配されるようになったというわけである。

このインド哲学、中国哲学双方の欠点を解決するのが私の加害者意識哲学である。民衆がきちんと加害者意識を持って生きることにより、正義(悪を憎む心)と中庸の両方の徳を民衆が愛せるようにして、その二つの徳によって社会を統治しようというのが私の加害者意識哲学のエッセンスである。また加害者意識哲学は人を人格的に完成はさせないが、人間として成熟させる。

加害者意識哲学の理想とする社会は、善良な弱者は不幸になる必要がないといい、人間の屑みたいな奴は不幸になれ! という社会である。つまり99%の人が他者を尊重できる心のゆとりと心の余裕を持て、かつ正義を愛する心(大慈の一種である悪を憎む心)も持てる社会である。

確かに私の加害者意識哲学はインド哲学ほど苦悩を感じさせないし、インド哲学ほど高貴ではないが、修業もせず在家のまま、「きちんと加害者意識をもって真面目に生きる(かつ加害者意識に凝り固まりすぎないで)」という誰にでも分かる簡単な人生に対する態度だけで99%の人が今よりもずっとまともでそれなりに幸せに暮らせる社会を作れるのだから、加害者意識哲学にインド哲学のような天上の匂いがしないことについては目を瞑ってほしいと切に願うところである。

            

 

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