2024年8月1日木曜日

被害者意識哲学と加害者意識哲学

 

被害者意識哲学と加害者意識哲学

2024年、7月の現時点においてブリックスの西側先進国に対する勝利はもはや確定しているように思える。そのため今後世界がスタグフレーションに突入するのは確実な情勢となってきた。

デフレ克服法でも述べている通り、スタグフレーションにおける実物経済の供給過剰問題を解決するためには今ある公正政治経済システムの上に新たに中庸政治経済システムを築く必要がどうしてもある。そのため、よりよい中庸政治経済システムを確実に作るためにも中庸政治経済システムの中核となる体系哲学を明確にしておく必要が出てきたのでここで述べておきたいと思う。

中庸政治経済システムの中核となる加害者意識に基づく体系個人及び社会哲学(以下加害者意識哲学)について語る前に、今現在ある公正政治経済システムの中核である被害者意識に基づく体系個人及び社会哲学(以下被害者意識哲学)について先に説明しておくと加害者意識哲学がより分かりやすくなると思うのでまず被害者意識哲学について語る。

被害者意識哲学は基本的にキリスト教哲学なのだが、現代の極悪非道な資本主義経済の根底になる被害者意識哲学の根本的誤謬はどこにあるのかというと原罪(人は無数の生命の犠牲の上にしか存在できない罪深い存在であるということ)から目を背け続けることである。原罪から目を背けることは、自分がイノセントな存在であると思うことと同義である。

 

(図1を見る)

 

そして原罪から目を背け、自分のことをイノセントだと思うと必ず被害者意識に凝り固まる。被害者意識に凝り固まるということは自己愛(小我)に凝り固まるということと同義である。そして被害者意識に凝り固まる自分、自己愛に凝り固まる自分を肯定すると必ず人は幸せになるために生きているのだという人生観を持つようになる。人は幸せになるために生きているのだという人生観を持つと、幸せになるために何事も損得勘定で考えるようになり、また弱者の不幸は見て見ぬふりをする差別愛主義者になる。また利にさとい人になるということはケチになるということと同義であり、他人に対して不寛容になるということと同義である。このように何事も損得勘定で考え、他人に不寛容になると他人を粗末に扱うようになり、心がすさむ。またそのような人は無抑制としての自由を愛するようになる。つまり義理や人情などと言った面倒臭いことを考えず、できるだけ楽に生きたいと思うようになる。

上記のような気持でビジネスをする人はかならず自分さえよければ他人はどうなったっていいと思いながら金儲けをしようとするし、ともかく勝ちたい、儲けたいと思う(勝利主義)。また上記のような人は他人を信用できないので、必ず自由競争によって自分の短期的利を最大化することが正しいビジネス態度だと思うようになる。

また上記のような人が政治参加すると、必ずともかく自分が楽に生きられるような国家システムを作りたいと思う。つまり弱者から恒久的に搾取するシステムを作ろうとする。そして自分が上流階級になる階級社会や自分が牧場主になる人間牧場を作ることをためらわないような恥知らずとなる。

上記のような人は必ずゼロサムゲーム感覚を意識上に持つようになる。ゼロサムゲーム感覚とはどのようなものかというと、他人の損は必ず自分の得になり、他人の得は必ず自分の損となるという確信のことである。

上記のような人々によって構成された社会を支配する徳は公正さ(差別社会正義)と偽善である。

公正さとはどういう徳かというと、差別愛に基づく社会正義である。赤の他人に対する一般的敵意と傲慢さに基づく社会正義であると言っていいかもしれない。

具体的いうと公正さは対等なもの同士(つまり攻撃すると反撃してきそうな人間同士)ではお互いに対する敵意に基づく相互不干渉、相互尊重を大切にし、反撃する能力のない弱者はいじめられて、虐待、虐殺されることを肯定する徳であるともいえる。(つまり公正さは弱者が不幸になるのは致し方ない、もっと言えば弱者はいつどこで虐め殺されても当然だという徳であるということである。)現代の公正政治経済システム内では学校でいじめっ子がいじめられっ子を自殺に追い込んでも全く罪に問わないし、職場でパワハラやセクハラで上司が部下を精神障碍者にさせたり、自殺に追い込んでも全く罪に問わない。また精神病院で精神科医が精神病患者を虐待、虐殺しても罪に問わないし、情弱ながん患者に対して医者が効きもしない抗がん剤を打つことによってがん患者から金を巻き上げることも罪には問わない(罪には問わないとは警察も検察もこれらの事件には介入しないということである。)ということがそのことを証明している。

また公正な人は面倒な人間関係を嫌い(人間関係とは基本的に面倒なものだが、笑)、他人に迷惑をかけるな! という言葉を他人に投げかけ他人を委縮させ、社会を息苦しいものにする。また公正な人のモットーは他人の不幸は見て見ぬふり、というものである。

また公正さは社会の構成員全員が利己主義者で自由競争を肯定していることを前提としていて、勝った者が正しいとする価値観である。逆を言えば敗者は間違っているので正しい勝者に従順であるべきだということを強制する徳であるともいえる。

また公正な社会はどういう社会かというと勝者である上級国民や金持ちから見て都合の良い、合理的で無駄のない格差の大きい社会である。つまり敗者側から見ると下層階級からの搾取を肯定する全くゆとりのない奴隷制的社会となる。また公正な社会は個人主義の尊重と称して個々人の利己主義を肯定するから、公正な社会は客観的に見れば99%の人を不幸にする社会だが、被害者意識に凝り固まった人から見れば納得感のある社会である。

 

偽善とは現代においてどういう徳かというと、第一に生きていることに対して感謝することが大切であるとする徳である。日々の生活に感謝して生きるということは、できるだけ波風の立たない平和な人生を望み、そのような生活を手に入れたらそれを大切に思えということである。(つまり偽善という徳は天津罪を犯せという徳である。)

できるだけ波風の立たない平和な生活を大切にしろということは、自分より不幸な人々に共感したり、思いやりを持ったりしないで自分のことだけ考えて生きろということであり、正義感を持ってみんなで連帯して社会を改善しようと思ったり、悪を倒そうなどと思うなということである。(つまり偽善は暴力革命に反対し、弱者は基本的に無抵抗主義者であれ、と暗に言っている。)

つまり全体としてみれば冷たく暗いこの社会に対してマクロ的に考えず、政治的不満を持たずに、被害者意識、差別愛に凝り固まり、あくまでミクロ的考え、自分の身の回りだけ幸せにすることに集中しろというのが偽善の本質だと言える。

また第二に偽善は人を裁くな! 悪を許せ!と説く。

人を裁くな、悪を許せとはどういうことかというと悪党を暴力を使って倒そうとするなということである。つまり人を裁くなということは、危ないことをせず波風の立たない平和な人生を愛し、悪を許せということと同義であり、悪を許すということは弱い善人を助けるな、弱い善人を見殺しにしろということと同義なのである。

つまり人を裁くなとは行為によって人を裁こうとするな、ということである。行為によらない裁き、不作為による裁き、例えば自由競争で勝った悪党が弱者を冷笑することを偽善は許すし、集団で罵声を絶えず浴びせて、個人を自殺に追い込む集団ストーカー犯罪のようなことを偽善は罪に問わないということでもある。つまり偽善は憎悪、怒りを爆発させて弱者が強者に反抗し、強者を倒すことを否定し、敵意を持って強者が冗談半分でにやにや笑いながら弱者を虐め殺すことは肯定するということである。

以上が基本的に現代的偽善のすべてである。欧米などで見られる救世軍などの金持ちの寄付からなる無償の奉仕活動については基本的に現代的だとは思えないのでここでは上げないことにする。どういうことかというと、無償の奉仕活動とは人口が安定している世界でしか光り輝かない偽善だからである。

人口が安定している世界において、公正さが支配することによって格差の大きすぎる社会になった場合にそれを放置しておくと、下層階級の人々は貧困にあえいで、餓死して死んでいったり、暴力革命を起こそうとする。そうなると支配階級としても貴重な労働力が減少するし、暴力革命によって自らの命が危うくなったりして色々と都合が悪くなる。それを防いで、下層階級の人々を生かさず殺さずの状態に置くために救世軍などの無償の奉仕活動という偽善が存在するということである。つまり現代世界は人口爆発によって労働力はあり余っているので、支配階級としては下層階級は労働力として使いつぶした後、野垂れ死にさせるのが基本政策であり、かつ暴力革命を起こそうとする下層階級をテロリストとして射殺することは先進国では上級国民だけでなく中産階級も同意しているので、今でも救世軍などの無償の奉仕活動は一応あるが、その存在意義はただのガス抜きと反体制派のあぶり出しに使われているだけで社会的にあまり大きな意味をなさないからここでは無償の奉仕活動を主要な偽善としては取り上げないということである。

 

上記のように公正さと偽善が公正政治経済システム支配しているのだが、その上には普段は隠れていてあまり見れないが純粋悪というものが君臨している。純粋悪とはどういうものかというと弱者を虐待、虐殺する喜びそのものと言っていいかもしれない。具体例としてはエプスタイン島における小児性愛や学校で強者が集団になって弱者を虐め殺したり、職場でパワハラやセクハラによって部下を自殺に追い込んだりする時に感じる傲慢な喜びのことを純粋悪と言っていいだろう。

総じていうと、被害者意識哲学は原罪をきちんと見つめないで、被害者意識に凝り固まる自分を自己正当化に自己正当化を重ねることによって作られる。最終的に被害者意識哲学を本質とする社会では公正さという徳が被害者意識に凝り固まった人々に納得感がを与えるが人々から心のゆとり、心の余裕を奪い、偽善という徳が人々に無力感を植え付け、純粋悪が君臨することによって人々は恐怖に支配されることとなる。被害者意識哲学はどう見ても悪しきものにしか思えないが、ただ被害者意識哲学、キリスト教哲学は金本位制などのゼロサムゲーム経済、金融緩和時の不換紙幣経済によく適応した哲学と言えるかもしれない。

 

それに対して加害者意識哲学はどのようなものかというと、加害者意識哲学は被害者意識哲学とはすべて真逆となる。まず加害者意識哲学は原罪(食物連鎖)から目を背けない。

 

(図2を見る)



原罪から目を背けないで生きると、きちんと加害者意識を持って生きることになる。きちんと加害者意識を持って生きることは人を真面目にさせる。またきちんと加害者意識を持って生きれば、できれば原罪を償いたいという気持ちにさせる。その原罪を償いたいという気持ちが生きんとする意志と融合し昇華して美しく生きたいという気持ちを生じさせる。そして美しく生きたいという気持ちは他人を幸せにするために生きたいとか自分の人格をもっと成長、成熟、完成させたいと思う気持ちになる。つまり美しく生きたいという気持ちは自分の心の中の志、向上心(自分の大我)を尊重するということと同義なのである。(被害者意識に凝り固まった人はどうしても自分の中の美しく生きたいという気持ち(大我)を馬鹿にしてしまう)。自分の中の美しく生きたいという気持ち、自らの大我(無差別愛)を尊重できるから、他人を尊重でき、他人に思いやりを持てる。また向上心を持てるから克己心という意志を持てる。他人を尊重できるから、他人を大切にでき、克己心を持つから自らを律することを愛することができるようになり、心が健全になる(自らの小我を自由意思によって律するという自由を愛せるということ)。

上記のような気持でビジネスをする人は相手(ビジネスパートナー)を信頼して自分の長期的利を最大化しようと思うし、全体の利を最大化して相手とウィンウィンの関係(共存共栄の関係)を築けるという健全な期待を持つ。

また上記のような人が政治参加すると、必ずみんなで切磋琢磨しあってよりよい国を作りたいと思う。つまり格差が小さく、活気があってかつ息苦しくない心のゆとりを持てる社会を作りたいと思う。

上記のような人は必ず共同体感覚を意識化できる。つまりお互い様とかおかげ様とかを自然に身に付け、態度と行動で示せるということである。

上記のような人々によって構成された社会を支配する徳は正義(無差別社会正義)と中庸である。

正義とはどういう徳かというと、無差別愛に基づく社会正義である。(悪への、許せないものへの)憎悪と正義感に基づく社会正義であると言ってもいいかもしれない。

具体的に言うと新しくできる中庸政治経済システム内においてはいじめられっ子や障碍者に対するいじめや自殺に追い込む行為を犯罪として処罰することはもちろん、いじめられっ子や障碍者、パワハラにあった若者やそれを目撃していた第三者は基本的に返り討ちにして相手をナイフで刺し殺したとしても罪を問わない、もっと言えばそれを正しい行為とされるということである。

公正さが弱者が不幸になるのは致し方ない、もっといえば弱者はいつどこで虐め殺されても当然だとするなら、正義は弱者は不幸になる必要はない。クズは不幸になれ! と言い、他人から死ぬほど恨まれているようなやつはいつどこで殺されても当然だとするということである。弱者に同情する心と弱者をいじめる悪党を憎む心は表裏一体なのである。

公正政治経済システムにおいては、偽善が人を裁くな、つまり直接的、作為によって人を裁くことを禁じ、人をいじめて自殺に追い込むような間接的、不作為による殺人は肯定していたが、中庸政治経済システムにおいては、相手が殺したいほどのクズなら基本的に作為による行動によって直接的に殺すことを肯定するというわけである。(ただ相手を殺した後、警察が来た時に相手が殺されて当然な悪党であったという証明、もしくは周囲の人の証言はある程度必要になる。けれどもいじめられっ子がいじめっ子にナイフで襲い掛かった時、いじめっ子がさらに返り討ちにした場合は普通に正当防衛としてそのいじめっこは無罪になるのは致し方ないとは私も思っている。)

公正政治経済システムは無抵抗主義を推奨したが、中庸政治経済システムは暴力で物事を解決することをある程度是認するということである。暴力とは非階級的な力であり、暴力革命の恐怖は社会内の格差を小さくさせるし、正当な理由による怨恨殺人、正義感による殺人を合法化するという恐怖は社会を浄化させるという認識を持つということである。

つまり公正さは公正政治経済システムを常に腐敗させるのに対して、正義は中庸政治経済システムを常に浄化させる。

 

中庸とはどういう徳かというと、相互扶助と兼愛交利と談合(話し合い)と切磋琢磨を大切にする徳である。中庸は相互扶助を愛しているからクズやフリーライダーを積極的に憎み排除する。その手段として切磋琢磨というお互いを向上しあうような競争をビジネスにおいてし、クズやフリーライダーが居場所のない社会を作るということを中庸は推奨するということである。またクズやフリーライダーを排除する時に波風は必ず立つので、人生において波風がそれなりに立つことを恐れない人(天津罪を犯さない人)しか中庸政治経済システムに入れないということでもある。また公正政治経済システムにおいては自由競争(つぶしあい)に勝った人が正しいとされたが、中庸政治経済システムにおいては切磋琢磨に勝った人が正しいとする。ただ談合(話し合い)の結果も切磋琢磨で勝った人の意見と同じくらい中庸政治経済システムは大切にする。また公正政治経済システムは基本的に神の見えざる手を信じて誰も責任を取らない社会だが、中庸政治経済システムは誰もが社会に対して責任を取ることを恐れない社会である。

 

正義が無差別愛に基づく社会正義なら、正義を愛する政府が国民に対して財源のことなど気にしないで無責任に自らの善意を表現すべきではないのかと思う読者も多いことだと思うのでここでそれについて詳細説明をしておきたいと思う。

この問題は具体的には善良な弱者である在日朝鮮人やエタ、皇族などが働かずに贅沢して暮らしていくために、財源が尽きるまでもっともっと在日朝鮮人やエタ、皇族にさまざまな特権を与えたり、彼らを行政が優遇すべきではないかという問題である。

(そもそもまず在日朝鮮人やエタ、皇族は決して善良な弱者などではなく閨閥により一体化した日本DS、日本の寄生虫、日本の悪の中核なので、正義は無差別愛と表裏一体の悪への憎悪に基づく社会正義なので日本DSという悪党の集団を優遇したり、彼らに特権を与えたりするのは正義に反するということになる。

また悪党である日本DSのメンバーを更生させるために在日朝鮮人やエタ、皇族を優遇すべきではないかという人道的な意見に対する反論としては、今までの人生を振り返って一度でも悪党が更生したのをみたことがあるのか? という常識的質問だけで十分であろうが、もし仮に悪党を一人更生させるために例えば1000万円かかるとするならば、さっさとその悪党を死刑にするか、永久国外追放するかして、浮いた金で国内のシングルマザーや発展途上国の子供たちなど本当の意味での善良な弱者を一人でも多く助けようとすることが無差別愛に基づく正義なのであるということである。

だがしかし、まだ現時点では在日朝鮮人やエタ、皇族が日本DSであり、日本の悪の中核であることは完全証明されていないので在日朝鮮人やエタ、皇族が本当に善良な弱者の集団だと仮定してとりあえず考えたいと思う。)

政府が国民に対して財源のことなど気にしないで自らの善意を表現すべきではないのかという意見に対しては、そんなことを本当に実行したらすぐ財政破綻して国民全員が塗炭の苦しみを味あわなければならなくなる。確かに我が主著「共同生活」で灰原が主張している通り、私は個人道徳としての正義は無差別愛、他人への思いやりを圧縮して、知性化したものであると私は思っているが、社会道徳の正義は中庸と同じく共同体感覚に基づくものなので、全体の利への配慮のあり、怜悧さのある持続可能な善意でなければならないと思っている(個人道徳と社会道徳の異同については次の章で詳しく語る)。

 

公正さ、偽善と中庸、正義を比較してみると以下の表のようになる。




(2枚目の写真を削除したいけど、できないので削除しないで新しい写真を張ります。
   一行増えただけです。)


 

中庸と正義(無差別社会正義)が中庸政治経済システムを支配しているが、その上には純粋善というものが君臨している。純粋善とはどういうものかというと他者に与える喜びそのものと言っていいかもしれない。具体的に言えば寛厚(全体の利への配慮のある親切)も与える喜びの一種だし、より良い世界を作るため、みんなの幸せのためにコストパフォーマンスを度外視して一生懸命労働することも与える喜びの一種と言える。

総じて言うと、加害者意識哲学は加害者意識から生じる美しく生きたいという気持ちをぐんぐんと成長させることによって作られる。最終的に中庸政治経済システムにおいて中庸(相互扶助、兼愛交利、切磋琢磨、談合)が社会を明るく温かくし、正義(悪への憎悪)が社会を浄化し、かつ社会をいつも若々しく、エネルギィッシュにし、純粋善の与える喜びが君臨することにより社会を開放的な息苦しくないものになる。

加害者意識哲学に基づく中庸政治経済システムはとてつもなく理想的でとても実現できそうにないと思う読者もいるかもしれないが、加害者意識哲学はスタグフレーション時の不換紙幣経済によく適応している経済であるし、また加害者意識哲学はただ人々が原罪から目を背けないで加害者意識をきちんと持てば基本的にはあとは自然に成長していくので中庸政治経済システムはそれほど達成困難な社会ではないと私は確信している。また客観的に見ても、もし中庸政治経済システムを作れなければ人類は早晩史上最大のスタグフレーション世界大恐慌からの世界大戦による滅亡は避けられないので、達成しようと試みるしか他に道はないと思われる。

 

 

 

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