2023年1月8日日曜日

ハイエクの貨幣論集について

 

ハイエクの貨幣論集について

 

ハイエクの「貨幣論集」を読んでいろいろひらめいたのでメモしておく。

世の中には実物資産と金融資産という二つの資産がある。二つの資産の決定的違いとは実物資産は車だったら20年したらスクラップになるし建物だって100年したらボロボロになるが、金融資産、例えば100万円のお金なら20年後だろうが100年後だろうが100万円であるということである。(もし銀行預金しておけば利子までついてくることになる。)要するに基本的に実物資産は長期間ため込めないが、金融資産は基本的に永遠にため込み続ける、貯蓄し続けることができるということが決定的にちがう。

このことから基本的に世界はいつか金融資産が実物資産に対して供給過剰になりすぎハイパーインフレになり、金融資産は紙屑になることが必然であることが分かる。それゆえハイパーインフレになるのをなるべく先延ばしにするためにマイルドにインフレさせ貨幣価値を減価させようとすることは(インフレ主義)基本的に正しい。(だが、国家の創成期の7・80年までに実需に対する供給能力が整い、企業間で価格競争が激化し始めるデフレになると貨幣供給を増やしてもインフレが起きない期間が続き、4・50年(この期間の長さは金融緩和をどれだけしなかったかによって変わる)が続き、その後ある時急激にインフレが激化し始め、それに対して金融引き締めをすることにより国家は衰退していくことになる。)

実際の日本の歴史でも中国の歴史でも250年ごとに戦乱を経て権力が移動していくことがこの経済原則を証明している。歴史は創造、維持、破壊を繰り返して進んでいくと言われているし、この250年ごとの戦乱による破壊があるからこそ社会の腐敗が浄化され、まともな道徳観を持った人間が生き残ってきたともいえるので、今始まっている世界大恐慌という破壊も人類社会にとってはどうしても必要な浄化なので避けようとしてはいけないものだということが分かる。

 

ここで第二次世界大戦後から現在と少し先の未来までの世界をマネタリズム的に説明しようと思う。

まず戦後の焼け野原から経済復興が始まった。戦後から20年くらいは実物商品が需要過剰供給不足のころだった。そのころ、マネーは金本位制だったが実体は金本位制とは名ばかりのものだった。なぜならアメリカは東西冷戦を戦うためという大義のもと軍拡を続けるため初めから金融緩和していたからである。ただインフレは1970年くらいまではマイルドに推移していた。だがそれも1971年のニクソンショックにより名実ともに不換紙幣の時代となった。

不換紙幣経済の本質は何かというと、不換紙幣は実物資産に対していつも供給過剰なのでマネーの不足ということは起こりえないということにある。(なぜなら不換紙幣は印刷すればいくらでも供給できるから)

1816年のイギリスの行った金本位制ではマネーの不足ということは起こるし、事実植民地インドではマネーの不足が起こった。この植民地でマネーの不足をわざと起こすことこそイギリスの植民経営、インド人を搾取するエッセンスなのである。どうして19世紀の金本位制下では植民地でマネーの不足が起こったかというと、まず金本位制下でマネーが潤沢にある国とはゴールドをたくさん所有している国である。つまり18世紀までにインドにあった膨大なゴールドを奪ってイギリスに輸送していたからイギリスには潤沢にマネーがあり余っていて、インドはすでにほとんどすべてのゴールドをイギリスに奪われてから金本位制になったからマネー不足だったのである。

マネーの不足ということが何を意味するかというとインドで人為的にデフレを起こさせることができるということである。デフレが起こるとどうなるかというとインドでつぶしあいの競争が起こり、綿花の低価格競争、低利益率競争が起こる。またそのことによりインドの労働者の賃金の切り下げ競争が起こる。デフレはイギリスがインドにおけるマネーの量をコントロールしていることに原因があるから、実物商品の供給過剰によって起こるデフレと違い談合と切磋琢磨によって自力でこの貨幣の供給過少デフレを解決することはできない。

またここが一番重要なのだがマネーが不足しているインドでは基本的にマネーの貯蓄ができなくなり(なぜなら生活水準を落とし続けながら日々の生活を送るのが精いっぱいのマネーしか与えられていないから)、借金をするとしてもデフレだから高金利になる。(日本がデフレの時低金利だったのは世界的に金融緩和して貨幣がじゃぶじゃぶに余っていたから低金利だったのであり、普通はデフレ状態の時は貨幣が供給不足により希少価値を持つから高金利になる。ちなみに日本でデフレ状態でもどうにかこうにか製造業が残ったのは世界が金融緩和していて低金利だったからである。)

貯蓄がない、マネーがないから高額な工作機械を買って工場を自分で作って服を生産することができない。(高金利で借金して工場を作ってもイギリスが借金しないで作った工場や低金利で作った工場には対抗できない。)つまりその日暮らしをしながら、長い償却期間を要する大規模な設備投資の必要のない綿花生産を永久に続けることしかできなくなるのである。

マネーの潤沢にあるイギリス本国ではどうなるかというとインドから安値で買いたたいた生産品があるためマネーが過剰であるにもかかわらず極端なインフレが起きない。またマネーが潤沢にあり、借金するとしてもインドよりずっと低金利なため、長期間の償却期間を要する大規模設備投資して国内にインドの綿花生産よりもずっと高利益率な衣服の生産工場を作ることがたやすくできる。イギリス国内では切磋琢磨という競争が起こり商品の高品質化の競争が起こり、労働者の賃金が上がる。労働者の賃金が上がるから需要という国内のパイが拡大してより供給強化が起こり、経済成長していく。

以上のようなことが起こることにより、金本位制によって先進国が後進国を永遠に搾取することができるのである。

つまり不換紙幣通貨国家主義経済とはマネー不足を起こさせないから(紙幣が足りないなら造幣局ですればいいだけだから)金融資産をほとんど持たない貧乏人有利、労働者有利、発展途上国有利の経済であり、金本位制国際通貨性とは植民地や発展途上国にマネーの不足を引き起こさせることにより金持ち有利、投資家資本家有利、先進国有利の経済システムであると基本的には言える。

 

1980年ごろから実物需要が落ち着いて世界は実物商品の供給過剰となった。そのため実物商品を作って生計を立てている国では激烈なつぶしあい競争が生まれ、派遣社員に代表されるように弱者に屈辱的生活を押し付け、使い捨てにするような気風が世界的に広まった。

マネーはそのころから一段と金融緩和が進み始めたが、世界の金利、インフレはまだマイルドだった。

ただ永遠に続くと思われた世界的低インフレ時代もコロナショックとともに終わりをつげ、まだ株価の大暴落はしていないが、一足先に2022年ごろからインフレが激化し始めた。

 

ではアメリカは不換紙幣に変わったからニクソンショック以降一貫して発展途上国の味方だったのかというともちろんそうではない。不換紙幣経済は基本的には確かに発展途上国有利の経済システムなのだが、ただし先進国で金融緩和していて、かつ先進国でインフレが始まらない間は先進国有利のシステムなのである。

だが、金本位制は理論的に先進国が半永久的に後進国を搾取できるシステムだが、不換紙幣による金融緩和は永久には後進国を搾取できないシステムなのである。どういうことかというと世界中の人々がいつか自分たちの持っている実物資産に対して金融資産があまりにも大きくなっていることに気づく。そして自分たちの紙幣や株式がもしかしたら明日紙くずになってしまうのではないかと思う。だからそうなっても自分の財産を減らさないため自分の持っている金融資産を不動産などの実物資産に変えようと誰もが思う。その時長年の金融緩和で膨れに膨れ上がったバブルがパチンとはじけてしまう。

バブルがはじけると先進国に企業の過半数は債務超過になり倒産となる。大量の失業者が出て、先進国は不況になる。バブルがはじけた後も持っている金融資産を実物資産に変えようとする動きは世界的に続くので実物資産の相対的価値が上がり続け、世界は実物商品が供給過剰であるにもかかわらず、それにも増してマネーが供給過剰なので先進国ではスタグフレーションとなり、発展途上国ではインフレとなる。

なぜなら今現在の実物資産の代表である工場などは発展途上国にあるので、基本的にマネーは先進国から発展途上国に流れ続けることになるからである。つまりそういうわけで先進国ではスタグフレーションがおそらく4・50年間続くことになる。また発展途上国では先進国からマネーが流れ込み続けることにより、新たな需要が生まれ続け4・50年間おそらくは許容できる範囲のインフレ下で好景気高度成長が続くことになる。

先進国で起きるスタグフレーションとはどういうものか詳細について説明すると、まずスタグフレーションとは実物の供給過剰とマネーの供給過剰が表面化することを言う。つまり実物の供給過剰によるつぶしあい競争の一環として先進国内で企業の低利益率競争が起き、労働者間では低賃金競争が起きる。またマネーの供給過剰により、高インフレが起き、それを抑え込もうとするため金融引き締めが起こることによって大量の失業者が出、かつ借金をすると高金利になる。つまり現在は不換紙幣経済であるにもかかわらず、19世紀の金本位制でのインドで起きたデフレと同じことが先進国で起きる。このことをスタグフレーションというのである。(1929年の世界大恐慌ではアメリカは不換紙幣制度に変え、金融緩和して国内を低金利にするという逃げ道があったが、今回の世界大恐慌ではその逃げ道はないということでもある。)

これを発展途上国による先進国への搾取ととるか今まで虐げられてきた発展途上国がただ単に解放されただけととるかは評価者が先進国に住んでいるか、発展途上国に住んでいるかという立場と評価者自身の性格によるところが大きくなるだろう。

そして最終的にどうなるかというと発展途上国と先進国の格差はおそらくはほとんどなくなることになり、そこまで行くと先進国のスタグフレーションも止まる。

この先進国が今まで4・50年間金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを、先進国自身が今後4・50年のスタグフレーション耐えることによって間接的に支払うことをベイルインという。(2022年3月10日の5chに書いた私のレスは忘れてくれ。あの時はまだマネタリズムについて私自身あまり良く理解していなかった。笑)

ベイルインは民主主義的に見て納得のいく解決策といえるが(世界人口の60億人以上は発展途上国に住んでいる人だから)、このベイルインが実行されるには今後も世界経済が不換紙幣経済であることが必須条件である。

先進国が金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを発展途上国が延々と支払うことをベイルアウトという。どういう風にするとベイルアウトできるのかというと上述した金本位制経済に世界をもう一度戻すことによってそれは可能になる。なぜなら今でもゴールドの大部分は先進国、特にアメリカが保有しているからである。

どういう手順でベイルアウトするかというととりあえず金融引き締めをあまりせずに世界的インフレを放置する。そのことによって世界的にインフレをなんとかしてくれという世論が起こり、いったん今の不換紙幣の価値を全部なくし、そのことにより今のマネーの供給過剰状態を解消して、新たに金本位制に基づく通貨に切り替えようとマスコミを使い世論を誘導する。(このリセットの事をグレートリセットとダボス会議では言っているらしい。この今現在じゃぶじゃぶに余っている不換紙幣の価値を全部なくし、新たに金本位制の世の中にすること自体が、先進国が金融緩和して贅沢して暮らしてきたつけを発展途上国が一気に支払うということを間接的に意味することになる)。それから先はまた19世紀イギリスとインドと同じような関係に世界はなり、先進国はゴールドを保有しているので大規模設備投資が続けられるようになり、発展途上国ではゴールドがあまりなく、いつもマネーが不足しているので設備投資のいらないような仕事しかできないので、先進国は半永久的の発展途上国を搾取できるような世の中になる。

一見するとこれは先進国にあまりに都合がよすぎて不可能そうに見える。ハイエクも「人々が欲することなく世界が公式に金本位制に戻ると試みれば、おそらくはこうした状態では新たな崩壊につながるだけである」と貨幣論集p217でも言っているし、現実問題として歴史的に19世紀イギリスがなぜ金本位制を導入できたかというとイギリスの軍事力がインドに対して圧倒的に勝っていたことに原因がある。

だが、世界は現在きな臭くなってきて、本当に第三次世界大戦が起きても不思議ではない雰囲気が漂ってきた。マスコミは専制国家群と民主主義国家群(つまり実質はベイルイン派とベイルアウト派、発展途上国群対先進国群と言ってもいいかもしれない)との対立の激化はやむを得ないし、第三次世界大戦が専制国家群と民主主義国家群との間で行われてもおかしくないとの意見をあおり始めた。

おそらく私の予想では第三次世界大戦になる直前で発展途上国側の大国の一つが自らが半永久的に中間搾取国家になることを条件に先進国側に寝返り、第三次世界大戦自体は起きないが、世界がベイルアウトを選択して、金本位制に戻る確率が50%くらいはあると思っている。

そうならないためにもより多くの人がハイエクの「貨幣論集」を読んで邪悪で薄汚い先進国側の経済理論をよく理解し、反論や対抗策を練っておくことが急がれる。(ハイエクの「貨幣発行自由化論」には貨幣論集の約3分の2が入っているが、もっとも重要な論文「通貨国家主義と国際安定性」という論文が入っていないのでどうしても「貨幣論集」を手に入れる必要がある。)

ハイエクの基本的な間違いはどこにあるのかというと私見によれば、競争にはつぶしあいと切磋琢磨という二種類の競争があることを知らなかったことと豊かな国のインフレなき安定的な通貨とは他国や他地域に対する構造的搾取なくしては存在しないことを認めなかったことである。つまりハイエクは自分たちが富んでいるのはマックスヴェーバーのいうようにプロテスタンティズムの倫理によるものであって、植民地からの搾取によるものとは絶対認めなかったことがハイエクの間違いだったのである。


                完

2022年4月20日水曜日

幸福論 4

 

また幸福論的に加害者意識と被害者意識をこう説明することもできる。

人はだれしも子供のころ、自分を弱いと感じる。そこでその自分の弱さについて劣等感を抱いたり、世界に対して被害者意識を持ったりする。

劣等感を抱いてそれを自分に甘く、安易に解消しようとする人は優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとする。優越感、自己肯定感を持つために多くの人は受験勉強して同世代の人とのつぶしあいの競争に勝っていい大学に入り、いい会社に入ろうとする。他人を出し抜いて競争に勝ったら、確かに優越感、自己肯定感を手に入れることができる。だが同時に優越感の土台となる傲慢、横柄、という感情で心が満たされてしまいどうしても自分より学歴の低い他人を見下し、馬鹿にしてしまう。またそういう自分の傲慢さ、そして学歴社会、つぶしあいの競争を自己正当化のために肯定する。そのような人が上に行くと、どうしても主観的利己的にしか社会を見れず、目先の損得勘定、自己愛から全体の利に反して学歴社会やその他つぶしあいを奨励する制度をより強固にしようとする。その結果社会は当然弱肉強食、つぶしあいの競争の論理が支配し、誰もがお互いの足を引っ張りあい、お互いを疑いあい、監視しあい、足元を見あう失敗回避欲求に満たされて、他人の失敗は徹底的にその自己責任を追及するような冷たく暗い誰にとっても不幸で消極的な社会が出来上がる。またそういう人の持つ中核信念は至恐怖というものになる。至恐怖とはどういうものかというと自分は恐怖心に絶対服従して生きるし、他人も恐怖によって支配しようとすること、恐怖こそこの世を支配する絶対的な力だと思うことである。

一方自分の弱さに対してより真摯に向き合い、自分に厳しく自分の弱さを中和しようとする人は自分が今被害者意識に凝り固まっていると思い、加害者意識、罪悪感という陰の感情を持つことによりその被害者意識を中和しようとする。自分を客観的に見て、(とりあえず自己愛(生への執着)をわきに置き、)自分が不幸になることを恐れず加害者意識に向き合おうとする。誰もが無意識に被害者意識に凝り固まり、なんとかして他人をつぶそうとする世の中で加害者意識をもって生きようとするとよほどの幸運がない限りまず人並みの幸せをつかむことはできない。だがそれでも加害者意識を持ち、人生を苦諦、修業期間だと思い、自分の良心、美意識から思いやりを捨てずに真面目に陰徳を積んで生きると前述している通り加害者意識の裏側の真の自尊心という確固たる感情を持つことができるようになる。また陰徳を積むと自然に心から邪心、私心、つまり小我の心が減少する。そしてそういう人が年老いて自分の弱さを自然に受け入れられるようになると柔弱という心の持ち方をできるようになり、死に対する恐怖、生への執着(自己愛)からの解放感とそこから生じる成熟した大人の安らぎといったような真の幸せを手に入れることができる。そしてそのような大人たちが中庸経済システムを作ればその社会はお互いを信頼しあい、譲り合い、助け合う、誰もが成功達成欲求に従って積極的に働き、お互いの失敗にドンマイと言い合えるような明るく温かい社会になる。このような人の中核信念は至誠となる。至誠とはどういうものかというと端的に言うと大局観を備えた美徳である。人は自己愛、生に執着しているうちはどうしても大局観を持てないが、加害者意識をきちんと持って長年苦悩しながらも陰徳を積むことにより、私心、自己愛をなくして大局観を持つことができるようになる。そして大局観を伴う美徳を持つと初めて自らの美徳が世のため、そして自分自身のために実際の生活でも有用に使えるようになる。つまり他人のためと思ってやったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになる、そういう道を見出せるようになる。そういう道を見出せる目を持つことを至誠というのである。

結局自分に甘く安易に劣等感を解消しようと優越感、自己肯定感といった陽の感情を持とうとした人や社会、生きることに苦悩せず、安易に自己正当化して生き、自分を守ることをともかく最優先しようとする人や社会は冷たく暗く不幸になり、自分に厳しく、きちんと加害者意識という陰の感情を持ち、苦悩して生きることを厭わず、自分を人間的に成長させることを最優先する人や社会は明るく温かい幸せになるというのがこの世の摂理なのである。聖書の「狭き門よりは入れ」という言葉はやはり正しかったのである。

ただここで一つだけそれでもまだ優越感を持って生きていきたいという人たち、つぶしあいの競争、学歴社会を至高と考える人たちの考えの大局的誤謬について指摘しておきたい。これらの人たちの考えでは人は自然に集団化して、どんなにエリートが傲慢、残虐でも共同体は壊れない、つまり共同体を維持するためには公正という美徳に沿って学歴によって階級化していれば、その階級格差がどれくらいむごくても共同体は維持できると考えているようだが、確かに共同体は公正さも必要だが、基本的にはそもそも人は隣人愛から集団化して共同体を作ったのであり、かつ共同体感覚(隣人愛)なしでは共同体は維持できないという歴史的事実を忘れていることが学歴社会を至高とする人たちのまちがっているところなのである。

つまり被害者意識に凝り固まり、絶対自分の加害者性には目を向けないといった態度の人がエリートとなり共同体を永続的に統治することは不可能だという真理は傲慢横柄な学歴主義者にも絶対理解しておいてほしい。そのうえであくまで一小市民として社会の片隅で優越感を持ち、傲慢、横柄に、(客観的に見れば卑賤に)生きていきたいというのであれば、それについては私としてはもうこれ以上何も言うことはない。

最後に幸福論的に具体的に総体としてどのように人生を生きることが美しいかと私が思っているかということについて述べてこの章を終わりにしたい。若い頃は生きているという罪悪感に暗く苦悩しながら世間に対して悪戦苦闘して生き、壮年以上になったらあの世があるかどうかは分からないがとりあえずこの人生は魂を向上させるための修業期間と思い、大局観のある美徳、至誠を以て世のため人のためにエネルギッシュに明るく働いて生き、死に際においては自分の魂を向上させてくれた世界に対して感謝の気持ちを持って穏やかに死んでいく、そんな風に人間は生きるべきなのであると私は思っている。

 

 

 完

幸福論 3

 

話をもとに戻して加害者意識と被害者意識について語ろう。

人間には緊張を司る交感神経とリラックスを司る副交感神経がある。図を見ても分かる通り、我々は安らぎや解放感といった副交感神経的幸福(大我の幸福)も欲しければ、充実感や勝利感といった生きる喜び、交感神経的幸福(小我の幸福)もまた欲しい。つまり我々が幸福になるには自分の中の加害者意識と被害者意識をバランスよく両方持つことが必要不可欠なのである。どうすれば自分の心の中に加害者意識と被害者意識をバランスよく持てるのかというと結論から言えば、死を重んずれば双方をバランスよく持てる。

「死を重んずる」「生を重んじる」とは双方老子の中に出てくる言葉なのであるが、「死を重んじる」という言葉がどういう意味かと説明する前にまずその反対語である「生を重んずる」という言葉の意味することを説明する。

生を重んずるとはいつか必ず人間は死ぬし自分もいつか死ぬ、という真理に目をつぶり、ともかく今の自分の命を執着して、この世の今現在の自分(小我)を大事にして生きるということである。生を重んじる人は表面ではきれいごとを言うかもしれないが、行動からその人を観察すればなんでもかんでも損得勘定でだけ考え、ともかく目先の生存競争に熱中して、どんなに自分の魂を汚すことになろうが、自分の愛する妻子や友人を傷つけることになろうが、自分の利を最大化しようとする卑賤な利己主義者であるということが分かる。どうしてそうなるかというと生を重んじる人は死に対する圧倒的恐怖心から死んだらすべて終わり、完全に無になると何の根拠もないが強く確信しているからである。つまり生を重んじる人は恐怖に自分の心を支配されているから他人を思いやる心の余裕が持てないのである。この世を主観内世界、つまりニヒリスティックに言えばこの世界を一種の仮想現実か何かだと思っているから我欲に凝り固まり自分以外の他人の死や不幸に全く同情しないのである。

これに対して死を重んずる人は、どうせいつか必ず死んでしまうのだから今現在の自分よりも生まれてから死ぬまでの総体としての自分(大我)、総体としての人生を大切にする人である。総体としての人生を大切にしようとする人は自分にとって自分の人生を価値あるものにしようと思う。なぜなら自分の人生に価値があると思わなければ自分の人生を貴重に思い、大切にしようとは思えないからである。そして自分の人生を価値あるものにしようと思うと必ず人は美しく生きよう、人間的に成長させて、できればこの人生を、また自分自身を完成させようと思う。また死を重んじる人は大局観のもたらす心の余裕を持っているからこの世界を美しいと感じるし、この世界への愛を持っている。そのためこの美しい世界にふさわしい人間でありたいと思う。そういう面からも死を重んじる人は美しく生きたいと思うし、自分を成長させたいと思うのである。

つまり死を重んじる人はどうせいつか必ず死んでしまうのだから自分の中にある死に対する恐怖心を意識的に軽視して目先の生存競争(先進国では快楽と幸福の獲得競争)、自分の利を最大化しようとして生きることはほどほどにして、時には自分に利に反してでも、自分の人間的成長を最大化しようと生きる人である。

そういうわけで人は死を重んじた上で(総体としての人生を大切にした上で)、表面的生活の上では生を重んじて生きると、きちんとした加害者意識を根底に持ちながらそのうえでいまを大事にするという被害者意識の昇華した状態をバランスよく持てるのである。

 

明日に続く

 

幸福論 2

 

ここですこし話はそれるが自由について語っておこう。

自由には無抑制に行動するという偽の自由と道徳的に行動するという真の自由と二種類ある。若いころは放縦であること、無抑制に振舞うことが真の任意性、真の自由意志であると思ってしまうものだが、上記に述べたように意のままに振舞うこと、生への盲目的意志を無制限に表現することは結局無意識下にある死に対する恐怖心から強制させられている行動に過ぎない。真の任意性、真の自由意志とは心の中に無意識下の恐怖心から損得勘定で動きたいという強制力があるにもかかわらず、それでも勇気をもって他人の幸せのため、志のために良心的行動を任意的、自主的に選択することなのである。

ちなみに処世術的なことになるが、もし自分の心の中の大慈悲と死に対する恐怖の割合が6対4だとするなら、人生においていつでもどの選択肢にも大慈悲の意見を聞くのではなく、10回中4回は小我の意見、損得勘定で考えた意見を採用することが通俗的な意味での幸せを得る要諦である。

上記の事から結局、真の自由とそれがもたらす解放感や安らぎといった幸せは本質的に勇敢である者以外獲得できないものであって、決して政治的に万人に与えられることができるような性質の富ではないということが分かるだろう。

人生において勇気は目の前に立ちふさがる障害を打ち砕く矛に例えられるのに対して、自尊心は外界からの攻撃から魂を守る盾に例えることができるが、ここで自由について簡単に述べた手前、自尊心についても少し簡単に述べておこうと思う。

自尊心には人並みに働き、人並みに幸せなとき及び自分を一人前の人間と確信できているときに感じられる心のゆとり、いわゆる自己肯定感とも言われる自尊心と良心的行動を積み重ねることによって得られる心のゆとり、いわゆる真のプライドとも言われる自尊心の二種類がある。

自己肯定感は図にも書いている通り被害者意識をその裏側に持つものであるから、自己肯定感の強い人は必ず他人一般に強い敵意を抱いている。そのため自己肯定感の強い人は必ず自分以下の弱者を見下すし、彼らに対して横柄な態度をとる。また自分自身が事故や病気などで障碍者になったりして人並みに働けなくなり、かつ自分と同じような自己肯定感の強い人たちに見下されるような弱者になると簡単にその自尊心が完膚なきまでに崩れ去り絶望して、二度と精神的に回復できなくなる。

一方、良心に基づいて行動する真のプライド、真の自尊心を持つ人たちは人生の途上で不運により挫折した時に何度でも立ち上がるレジリエンス(精神的回復力)を持っている。なぜなら不運により挫折しても自らの自尊心の土台である過去に自分がした善行の積み重ねの記憶は全く傷つかないからである。

また真の自尊心は勇気をもって良心的行動をすれば必ず得られることから、真の自尊心を持つ者は必ず自力本願になるし、自分で自分の人生を支配できている自己効力感が真の自尊心を持つ者に、無気力で他力本願な被害者意識に凝り固まった人々よりもストレスの少ない朗らかな人生を与えてくれる。また大病を患って奇跡的に回復した人なら分かると思うが、良心的行動の原動力となる加害者意識、強い良心の呵責(大病により被害者意識に凝り固まり、自分を過剰にかわいそうだと思う感情の否定)、美意識は病を患って生命力(生きんとする意志から生じる精力)が微弱になった時、第二エンジンとして動き始め奇跡的に身体精神を回復させる自然治癒力ともなるのである。

人並みな幸せを感じるときに得られる自己肯定感は、その本質を不幸という名の恐怖から逃れているという感覚にことに置くから自己肯定感の裏側には無意識下の恐怖心がぴったりと張り付いていることが分かる。一方、良心を大事にする真の自尊心は当然良心の呵責、加害者意識と表裏一体のものであることから真の自尊心の裏側には大慈悲がぴったりと張り付いていることが分かる。

以上のようなことから、健康な人はもちろん両方の自尊心を持つことが望ましいが、どちらかといえばより強固な真の自尊心を持つことにより精力を傾けるべきとは言えるだろう。そして良心を大事にする真の自尊心を得るためには繰り返しになるが勇気が必要不可欠となる。つまり結局真の自尊心も勇気から作られているというになる。そういうわけで幸福論的に人生において一番必要なものは勇気であるということはどうしても否定できない事実なのである。

 

明日に続く

 

幸福論 1

 

加害者意識と被害者意識について

または幸福論

 

パスカルの言葉にこんな言葉がある。「人間は2種類に分けられる。自分を罪人と思っている義人か、自分を義人と思っている罪人である。」この言葉が本当に真実であるかどうかはともかくとして、とりあえず人間には加害者意識を強く持っている人と被害者意識を強く持っている人がいるという事実は読者も認めることであろう。

加害者意識とは自分の存在が多くの動植物の犠牲の上にあるという事実、発展途上国の人々からの搾取により自分が豊かに暮らせているという事実、そして発展途上国の何の罪もない子供たちが餓死していくのを横目で見ながら自分が生きているという事実に対して良心の呵責を強く感じることによって本来意識上にかすかにあった良心の呵責の声、罪悪感を強化、知性化した時にできるものである。

被害者意識とはこの世界では弱肉強食の生存競争の論理が支配していると判断し、そのことに心の底から恐怖し、そして本来意識上にぼんやりとあったなんとしてでも生き残ろうという意志(生への盲目的意志)が強化、知性化した時にできるものである。

大体6人中5人の質の悪い粘土で作られた人間は被害者意識に凝り固まる。なぜなら彼らにはわざわざ加害者意識を持って何の得にもならないことに苦悩することが馬鹿らしく思えるし、また被害者意識に凝り固まった方が自分の悪事、不道徳さを正当化できるので短絡的に都合がよいと思ってしまうからである。さてここでその考え方が本当に正しいかどうかについてよく検討してみよう。

そもそも幸福には二種類ある。解放感や安らぎを感じている時のおだやかな幸福と自分の持てる能力を全開にして運命と格闘しているときに感じる充実感や敵を倒した時に感じる勝利感、障害を乗り越えたときに感じる満足感のようなエネルギッシュな幸福である。解放感や安らぎを感じているときの穏やかな幸せも充実感、勝利感、満足感を感じているときのエネルギッシュな幸せもどちらも陰陽でいったら陽の気の明るい感情である。

人はみな陰の気を嫌い、なるべく陽気に生きたいと願うが、当たり前の事ではあるが陰陽は一体のもので決して分離させることはできない。

解放感、安らぎといった幸福の裏側、根っこには加害者意識という世界への陰気な態度、心があり、充実感、勝利感、満足感といった幸福の裏側には被害者意識という世界への陰気な態度、心がある。

図にするとこうなる。

図1



 

 

図の説明を少しすると、加害者意識や良心の呵責といった陰の感情を否定して心の中から排除してしまったら、解放感や安らぎといった幸せの基盤にある隣人愛、無差別愛を否定してしまうことになってしまい、(自分自身の心の中にある恐怖からの)解放感や(自分自身の心に中にある大慈悲の発する光としての)安らぎといった幸せも絶対に味わえなくなるということであり、自分の心の中に被害者意識、恐怖感があるからこそ被害者意識が自己正当化して自分の目の前に立ちふさがる敵を悪いものだと確信し、その敵と戦う充実感、その敵を打ち倒す勝利感に幸せを感じるのである。(敵が善人で、自分が悪党だと思っているならたとえ敵を打倒し、勝利してもそのことに人は喜びを感じない)

そういうことから短絡的に被害者意識に凝り固まろうとするのは間違っていて、どちらかというと自分の心の中で加害者意識7、被害者意識3くらいの割合で持ちながら生きていくのが正しいということがわかるであろう。

また確固とした解放感や安らぎを築きたいと思ったら、解放感や安らぎの土台となる加害者意識をきちんと持つようにしてすべきだし、劣等感や無力感、絶望感に満たされたくなければ被害者意識に凝り固まりこの世の勝利に強くこだわったり、ともかく快楽を貪ろうとしたり、一時的に社会的地位が上がっても人に対して傲慢に振舞ったりしてはいけないことが分かる。

だが基本的に被害者意識というものは自分の無意識下にある死に対する恐怖から強制的に作られる意識であり、誰でも多かれ少なかれ自然に持っている人生に対する態度であるのに対して、加害者意識というものは確かに自分の無意識下にある大慈悲、無差別愛から作られたものであるが、自分が任意的、自律的に良心の呵責という心の声に耳を澄まして、生きていることについて苦悩することによって作られる意識であり、人生に対する態度である。つまりきちんとした加害者意識を持つか否かはひとえに自分の自主的、任意的選択にかかっているのである。

 

            明日に続く

 

2021年3月7日日曜日

統合失調症完全克服マニュアル 総論 改訂版

 

統合失調症完全克服マニュアル

総論

 

統合失調症について語ろうと思う。なぜ私が統合失調症についてかくも詳しいのか? などという野暮な詮索はしないでくれたまえ。まぁ、ともかく統合失調症について語る。

現在の医学的常識に反するが統合失調症は脳の疾患ではなく基本的に心理学的病であると私は主張する。基本的に外的ストレスが患者を被害者意識に凝り固まらせてしまい、その強い被害者意識が患者の心身を常時緊張させることから、統合失調症は発症すると私は思っている。

統合失調症は現代病といわれているが、なぜ現代が統合失調症を発症させやすいかというと、私見によれば現代の若者は19世紀以前に比べて自分の将来を予見しやくなったということが逆に彼らを不断の緊張状態に置くためだと考えられる。

19世紀以前の若者は1年先の将来というものを予想して行動しようと思わなかった。なぜ予想して行動しようと思わなかったかというと、一年先の世界では疫病が流行って自分が死んでしまうかもしれないし、干ばつや洪水で収入が途絶えてしまうかもしれないし、火事で全財産をうしなってしまうかもしれないからである。もちろん幸運にも今と同じように暮らしているかもしれない。何が言いたいかというと現代と比べて19世紀以前は将来を予想できにくかったし、たとえ予想しても疫病や干ばつ、洪水などに対して十分に有効な予防策や備えをしておくことは不可能であったということである。その結果一昔前までの人々は、将来はなるようにしかならないということを現代人よりも深く洞察することによって、近視眼的に被害者意識に凝り固まらずに、とりあえず目の前の仕事をリラックスしてマイペースに丁寧にこなしていたのである。

それに比べて現代は基本的に学歴社会で天災などの外的な危険は先進国の都会ではほとんど無視できるようになった。つまり大学入試時の点数でその後の将来がある程度見えたような気になりやすい。このことが逆に過剰な競争社会を作り若者を近視眼的に被害者意識に凝り固まらせて常時緊張させ統合失調症を発症させやすくしているというのが私の見解である。

統合失調症の中核症状を妄想型、破瓜型、緊張型統合失調症に共通する陰性症状とすることは異論のないことだと思うが、統合失調症の陰性症状とはどのような状態かというと、心身が常時緊張して、かつ心身が常時緊張しているから心身を休めること、回復させることができずに疲労困憊になっている状態が長期間続くことである。こう書くと健康な人でもそのような状態はありそうなように思う人がいるかもしれないが健常者は夜睡眠中はリラックスしていて、かつ睡眠中は心身の疲れを取り、新たな活力を作る自然治癒力が働いているが統合失調症の陰性症状の人は睡眠時もリラックスせず、かつ朝起きたときも全く心身が全然回復していないことが決定的にちがうのである。

心理学的にもう少し詳しく陰性症状の状態を説明すると、まず心身が何らかの外的ストレスに対して不屈の意志を持って忍耐しすぎて常時緊張してしまい、かつ疲労困憊の状況に統合失調症患者はある。なぜ心身が常時緊張しているかと言えば無意識下で常に外の世界に対する恐怖感、不安感を強く感じているからである。そして無意識下で強く恐怖感、不安感を感じていると逆に意志の面では強く生きることに執着してしまい、意識上では過剰に自己愛を抱き、自分の人生を過剰に重要視しすぎてしまう。つまり被害者意識に凝り固まらせてしまう。それによってより無意識下で力んでしまい、心身がより緊張してしまう。つまり陰性症状とはこういう悪循環にはまっている状態である。

このような緊張の悪循環から抜け出せれば統合失調症は5割がた克服できるわけであるが、どのようにすればこの悪循環から抜け出せるかというと自分の人生を意識的に軽視すればいいのである。人並みに幸せになりたいという欲望、自分の人生を重視しすぎる心を意識上軽視する、つまり自分の小我を軽視できれば自分を美しいと思える。自分を好きになれる。利他的になれる。ゆえに心に余裕が生まれリラックスする。そうすると無意識下の恐怖心、不安感、被害者意識が少し和らぐ。無意識下の恐怖心、不安感、被害者意識が軽減すれば無意識下にある生きんとする意志、生きたい、幸せになりたいという執着がすこしだけ薄らぐ、そうすると意識上でより自分の人生を軽視できるようになる。以下略。とまぁこういう好循環に入ると統合失調症から次第に回復していくのである。

このようにして統合失調症のもたらす緊張状態を解いていくことによって統合失調症から回復することは可能なわけだが、上記のように心に余裕を持つことにより統合失調症の残りの5割を回復させるもう一つの作用である自然治癒力が同時に働き始めることもここで強調しておきたい。

身体病の場合、基本的に放っておいても勝手に自然治癒力は働くが、精神病の場合放っておいても心身の緊張状態がなかなか解かれないため自然治癒力も働きにくくなってしまっているのが精神病が治りにくいゆえんでもある。(自然治癒力は心身が緊張し、リラックスしていない状態だとほとんど働かない)

あらゆる薬、手術は自然治癒力を補助、補完するものにすぎないものであるということは医学的常識であるが、ほとんどの精神病のように基本的に現代医学ではまだ全く効果のある薬やリハビリが確立されていない場合には自然治癒力をいかに高めるかということが最重要となってくる。

つまりまとめると自分の人生を軽視すればそれだけで精神病は良くなると言える。(どのうようにどの程度自分の人生を軽視すればよいかは各論に譲る。)

総論を終える前に最後に抗精神病薬についてのエビデンスとそれについての私の見解について述べる。

 

1961年、カリフォルニア州精神保健局は、18ヶ月以内の退院率について、非投薬群(88%)、投薬群(74%)と報告している[128]。

1977年、アメリカ国立精神衛生研究所(英語版)(NIMH)の臨床研究施設における研究報告は、退院時期について、非投薬群は投薬群より早いと報告している[129]。また、退院一年後の再発率について、非投薬群(35%)、投薬群(45%)と報告している[129]。

1978年、モーリス・ラパポートの研究[注 15]は、退院3年後の転帰について、非投薬群は投薬群より良好で再入院率も低いと報告している[130]。

1992年、世界保健機関(WHO)の10ヵ国を対象とする研究報告は、2年後の転帰について、貧困国(3分の2近くが良好な転帰、3分の1強が慢性化)、富裕国(37%が良好な転帰、59%が慢性化)と報告している[131]。抗精神病薬の使用率は、貧困国(16%)、富裕国(61%)であった[131]。3%のインドのアグラが最も良好、使用率が最も高いモスクワが最も悪かった[131]。

2007年、マーティン・ハロウの研究[注 16]は、15年後の転帰について、抗精神病薬なし(40%が回復、44%が良好な転帰、16%が一様に不良)、抗精神病薬あり(5%が回復、46%が良好な転帰、49%が一様に不良)と報告している[132]。

 

上記のエビデンスはネットの統合失調症のWikipediaに記載してあったものである。また同様の調査報告はネットのいたるところにあるが、日本の医学生や精神科医が読む本には反対に統合失調症を治すには抗精神病薬をもって治療しなくてはならない、と書いてある。ただしこちらの見解には少なくともネット上には何のエビデンスもない。またネットでは現在のところ統合失調症には治療法はなくただ自然治癒力でのみ治る場合があると書いてあるが、上記のように日本の医学書では抗精神病薬を飲めば統合失調症は治ると書いてある。(治療とは病気を治すという意味しかない。笑)

また日本の精神医学では統合失調症は早期受診すると予後良好になるというもっともらしいエビデンスがあるが、発病後すぐ興奮状態で入院せざるを得ない妄想型統合失調症が予後良好なだけで、どう考えても予後不良になりやすい破瓜型や緊張型の統合失調症患者が初期にはたいした症状がないので受診しないのをいいことに自己正当化しているだけであろうこととは容易に推測される。

日本の医学書、ネット上のエビデンス双方を読んだ私の見解としては抗精神病薬は陽性症状、つまり妄想や幻聴や幻覚を消す対処療法としては確かに少しは効果がある(私見では急性期の患者の抱いている恐怖感を、強い身体的だるさ(精神的には恐怖感不安感のない絶望感)に変えることが抗精神病薬の主な効能だと思っている。)が、総体としてはメリットよりもデメリット(副作用や薬害から起こる二次疾患)の方がはるかに大きいものであるから基本的に飲むべきものではないと思っている。ちなみに抗精神病薬を飲む最大のデメリットといえばたとえ完全寛解したとしても抗精神病薬を飲んでいる限り、体が疲れやすくフルタイムで10年、20年と長期間働くことは不可能に近いということである。

ただそうはいってもこの文章を読むほとんどの読者は私と同様に抗精神病薬を強制的に飲まされてからすでにずいぶん経っていて手遅れになっていることだろう。(抗精神病薬を断薬したらかなり高い確率で再発するというエビデンスだけは正しいものであると私も信じている。また日本の精神科医の良心とも言われている中井久夫の「抗精神病薬を飲んで一度天然の統合失調症から薬物性の統合失調症に変わった者は完全寛解した後も抗精神病薬は極少量常時服薬して一生を送った人の方がエレガンスを保つことが多い」という意見も捨てがたい。

ゆえに私は抗精神病薬の有効性を認めない立場ではあるが各論では発症からどれくらいの時間を経過して、精神状態が安定していたらどのような薬を減薬、断薬していけばいいのかということについても記載しておくことにする。

なお上記の意見に反論できるようなエビデンスを提示できるのなら、そのエビデンスをコメント欄に張っていただくと幸いである。

 

 

 

2020年12月8日火曜日

デフレ克服法 9

 

最後にフリーライダーを中庸社会に住まわせるわけにはいけない理由について語る。

公正経済システムの中にフリーライダーがいても公正経済システムは回るが、中庸経済システムの中にフリーライダーがいると中庸経済システムは致命傷を負ってしまうから中庸経済システムを公正経済システムと分けなければいけないという具体的理由もある。

フリーライダーとは具体的にどういう人を指すかというと非正規労働者を差別し侮辱することを生きがいとする正社員とか、部下の手柄を横取りし、自分の失敗を部下に責任を取らせる無能な中間管理職とか、経営陣の犬となりながら働かないで給料を取る労働貴族などである。要するに社会に何の益ももたらさない社会の寄生虫である。

公正経済システムの中ではこのようなフリーライダーも上位1%の公正経済システムの支配層に向けられるべき99%の大衆の憎悪を代わりに受け止めてくれる存在として支配層から肯定的に、もっといえばなくてはならないものと評価されている。なぜなら人類史上最悪の劣等民族アングロサクソンの得意な分断統治が現在の金融資本主義、株主資本主義に最適化しているのを見ても分かる通り、社会をいくつかの階層に分け常に争わせていることは公正経済システムを平和的に維持させるためにはもっとも効果的な手段だからである。

 

中庸経済システム内のフリーライダーとは抽象的にどういう人を指すのかというと、中庸な社会、全体の利を最大化しようとする社会、みんなで幸せになろうとする社会において一人、社会に積極的貢献をしようとせず、いつまでも被害者意識に凝り固まり、被害者意識から自己中心的な思考をすることを正当化し、ずる賢く世間を立ち回ろうとし(つまりできるかぎり自分に与えられた仕事をさぼろうとし、)被害者意識から生じる社会への敵意、社会への復讐心から中庸な社会の要であるみんなの共同体感覚を常に傷つけよう、破壊しようとする人のことである。

なぜ被害者意識に凝り固まる人がフリーライダーになるのか、また被害者意識に凝り固まった人がなぜずる賢く立ち回ろうとするのかそして中庸の徳の天敵となるのかということについてすこし詳しく説明しよう。

被害者意識に凝り固まった人はすでに述べてある通り必ずこの世は自然も人間同士もお互いに殺し合い、奪い合い、騙しあう弱肉強食の恐怖に満ちた世界だと確信しているから、彼はこの世界に心底恐怖し、そして心が恐怖に満たされることにより、何としてでも、どんな手段を使ってでも、この世に一秒でも長く生きようとする盲目的生の意志、執着を逆説的に強く持ってしまう。そしてその生きることに対する意志、執着が彼に良心を捨てさせ、他人への敵意を基盤とする損得勘定と公正さという徳を強く愛させるようにさせる。

損得勘定と公正さを強く愛する彼は、受験勉強を人生最大の試練と考えるようになり、猛烈に勉強する。そして運よく一流大学に入り、そして一流企業に行けたら、二流企業以下の労働者を心底馬鹿にしながらそれなりに裕福で平凡な人生を送る。だが大学受験に失敗して二流企業以下の大学しか行けず、二流企業以下の会社に勤めるようになったら、彼は自らを敗者だと思い、生きていくことになる。

そこで彼が社会の片隅で敗者としてひっそりと生きてくれるならそれでいいのだが、多くの場合そうはいかない。彼は敗北した原因を考える。自分以外の誰も本当の意味では愛さず、自己中心的な損得勘定だけで算盤をはじいて生きてきた、にもかかわらず自分は負けた。つまり自分は人間の屑でしかも低能だと心の奥底では確信しているのだが、それをはっきりと認めたくないため彼は周りの人間は彼よりももっとずるく、利にさとく、他人を敵視していた。つまり彼は相対的に善良すぎるから負けたのだと思うようになる。そして彼は前よりももっと悪質で、他人や社会への復讐心をもっと持ったフリーライダーを目指すようになる。自分より弱いものが身近にいたら必ず虐め殺そうとするようになるし、人を騙して不幸にさせようとも自分が一円でも多く儲かるように行動するようになる。彼は、他人を批評することが、奴隷商人が奴隷を敵意をもって値踏みするように、好きになる。そうなると他人が自分に話しかけてきたとき、相手も敵意をもって自分を値踏みしているのではないかと思ってしまう。そういうことで彼は会社内でも同僚と表面的な情報交換や情報の共有、連帯でさえできなくなる。

 

また被害者意識の強いフリーライダーは自分より立場の強い人には卑屈に接し、自分より立場の弱い人に対しては横柄にふるまい、パワハラを好み相手に屈辱感を与えることによって相手から心の余裕や心のゆとりを奪おうとする人であるともいえる。死に対する恐怖という感情に基づく損得勘定の価値観から考えて自分の利を最大化しようとすると目上に卑屈で、目下に横柄にふるまうことが正しいこと、幸せなことと思えるからである。人と対等に接することができないそのような性格も中庸な社会の共同体感覚をいちじるしく傷つけるといえる。

また中庸な生活はみんなで話し合って任意的積極的努力により、つまり自由意思でボトムアップにつくるものだが、公正な社会は基本的に支配者がトップダウンで強制的命令的に作るものである。そういう面から見ても中庸経済システムの中において恐怖による強制力がなければ働けないフリーライダーが存在する余地はないとも言える。

 

つまり中庸経済システムにおいては公正経済システムとちがい、共同体のメンバーが各自連帯感、共同体感覚を持っていることが中庸経済システムを維持させるための絶対条件だから連帯感、共同体感覚を持っていないばかりか他人の連帯感、共同体感覚を壊そうとするフリーライダーは中庸経済システムの天敵として中庸経済システムから排除しなければならない人となるわけである。

 

            

 

一応終わり