2024年10月19日土曜日

「私の具体的政治主張について」の一部撤回

 

「私の具体的政治主張について」の一部撤回

 今年の春にブログにアップした「私の具体的政治主張について」の中で私が掲げた在日朝鮮人を強制送還または永久国外追放すること、及びエタ(朝鮮系日本人)を一人っ子政策により絶滅させるという政治主張を全面的に撤回します。

 イスラエルにおけるガザ虐殺を見て、これは絶対ユダヤ人がパレスチナ人を虐殺しているのではなく、ユダヤ人が名乗る悪党がパレスチナ人を虐殺しているのは当初から分かっていたのですが、日本において在日朝鮮人や朝鮮系日本人を名乗る悪党たちが日本人に対して暴虐のかぎりをつくしていて在日朝鮮人と朝鮮系日本人は背乗りされた被害者だとは昨夜まで気が付きませんでした。在日朝鮮人や朝鮮系日本人の方々にはものすごく不愉快な思いをさせてしまい誠に申し訳ございません。

    

20241020日  橘謙信

 

 


合理性と兼愛交利

 

合理性と兼愛交利

副題 神一厘の仕組み

 現代人の愛する悪徳に合理性というものがある。合理性を愛する人は合理的な社会を望む。合理的な社会とは便利な社会、無駄のない社会(つまりゆとりのない社会)である。

 合理的な社会とはつまり金持ちが自分の持っているマネーを最大限有効活用できる社会といってもいいかもしれない。

合理的な社会は99%の大して金持ちでない人々にとってはゆとりのない不幸な社会だが、被害者意識に凝り固まった多くの大衆、つまり被害者意識と表裏一体の他人への敵意を強く持つ多くの大衆にとって便利だし、隣人に最低限の報酬しか与えないという損をさせるので(合理的社会は人件費を抑制させるから)納得感のある社会である。

合理的な社会、無駄のない社会とはみんなが基本的に自分さえよければ他人はどうなったっていいと思っている社会だから、基本的に他人への敵意という感情の上に立つ暗く冷たい社会である。またみんなが被害者意識に凝り固まった選民意識をもって自分は特別扱いされて当然だという傲慢な社会だともいえる。ちなみにみんなが加害者意識を凝り固まった選民意識をもつとみんながこの弱肉強食の世界を見て、自分の中の生きんとする意志と大慈悲という二つの本源感情の間で苦悩する社会となる。

合理的な社会を愛する人は必ず公正さというものを愛する人だから、公正社会仮説(みんなが損得勘定で生きていけば神の見えざる手が働いてすべてまるく治まるという仮説)を信じているので、他人の不幸はあくまで見て見ぬふりをしながらこの地獄のような現代社会を肯定している。

公正さを愛する人は効率的、合理的な実力主義社会を肯定し、弱者が不幸になるのは当然だとし、勝者が利益を総どりする格差の大きな社会を作ろうとする。公正で思いやりがある人というものはいないのである。

また合理的な社会は勝者が利益を総取りして庶民の取り分、共同体の取り分が少ない社会だから、ほとんどの人が一歩も譲れなくなって、基本的に自分のためと思ってやったことが他人のためになり、他人のためと思ってやったことが自分のためになるようなウィンウィンの解決策を見つけ出せない社会であり、基本的に全体の利への配慮のない社会となる。

合理的な社会の反対の中庸な社会、共同体感覚に基づく社会は庶民と共同体の取り分がそれなりにあり、みんなが一歩ずつ譲り合って、全体の利を最大化させてみんなでウィンウィンの社会を作ろうとする社会であり、格差の小さい社会を目指す。

このように合理性というものは基本的に悪徳といえる。だが、ゲーム理論ではこの合理的思考を駆使してもお互いに相手の善意を信じあうと条件が満たせれば、合理的思考は悪なのにもかかわらず両者にとって最良の結果を得られることが理論的に証明されている。

ゲーム理論の論理をビジネスの場に持ち込むと、お互いに長期間にわたって何回も取引をするという前提があれば相手の善意を信じなくても、共同体感覚に基づく兼愛交利の取引と同様にお互いにウィンウィンの取引ができる。なぜならどちらかが一回でも裏切ってしまうともう取引がそこで終了してしまい、長い目で見れば損になることはお互いに理性的合理的に考えて明らかであるからである。

そして取引を両者が何回も続けてお互いに得することのより、両者の心の中にお互いを信じる心を生じさせ、両者の合理性への愛という悪の心を共同体感覚、兼愛交利という善の心に変えることが自然にできる。そしてこのお互いにビジネスの利を分かち合う喜びは私が81日にアップした加害者意識哲学で述べた純粋善、与える喜びとほとんど同じものなのである。これが日月神示のいう神一厘の仕組みというものなのである。

自らの合理性への愛という悪の心を共同体感覚、お互いに分かち合う喜びという善の心に変えつづけ生きるということが、インド哲学的に言ってこの世という修業の場で在家の人が魂を向上させる具体的方法であるとも言えるし、この世をみんなが共同体感覚を持ち、おたがいに助け合い、尊敬しあい、愛しあう天国のような世界に変えようと志すことが中国哲学的に言ってこの世に人間として生まれてきた意味なのだともいえる。

 

そういうわけなので今、世界ではDS(大金持ちの権力者)と99%の庶民との間で第三次世界大戦が勃発しそうになって人類滅亡の瀬戸際に立たされているが、もしDSが改心して上記のようなゲーム理論に基づくビジネスをして、自らの悪の心を善の心に変えて、真人間になるつもりがあるならば、第三次世界大戦を起こさないという条件で私の意見としてはDSの財産没収はしなくてもいいと思っている。

           

20241019日 橘謙信

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月23日月曜日

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

 

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

統合失調症を発症してしまうと、自尊心がどうしてもいったんボロボロになる。自尊心がボロボロになるということは、被害者意識に凝り固まりセルフネグレクトを肯定するような不幸で卑賤な、他人への思いやりのない小悪党に自分がなってしまうということである。その人生最大の逆境時において、どうすればよいかというと落ち着いて真面目に考えて自らの美意識による判断に従ってもう一度加害者意識をあらためて持ち直すことである。加害者意識を持てれば、魂の高貴さを取り戻せ、人生を修業の場だと思えるようになる。人生を修業の場と思えれば、心のゆとりが持て、セルフネグレクトをやめ再びに人間として向上しよう思えるようになる。向上心を持てるようになるから自分自身を尊敬できるようになり、自尊心を徐々に回復させることができるようになる。

 つまり加害者意識をきちんと持てれば逆境であればあるほど必ず人生を修業の場と思え、向上心を持てることにより自尊心を回復させることができるということである。

 逆を言えば、統合失調症初期の回復期(統合失調症発症から3年以内)において、一番やってはいけないことは自分を許すということである。自分を許すということは、今のセルフネグレクトしている自分を自己正当化して、自分を無力な存在だと認め、他人の不幸を見て見ぬふりをしながら被害者意識に凝り固まっている自分をあわれだとしみじみと思うことである。

 統合失調症回復期後期において、自分の弱さを認め、その自分の弱さを他人へのやさしさに変えること、柔弱になることが認知機能障害を克服するポイントだと以前書いたことがあるが、自分の心身の弱さを認めることと自分を許すということは似て非なることだということは覚えておきたいポイントである。


 統合失調症マニュアル2で書くはずだった、サビの部分を一応書いたのでアップしておきます。

2024年9月23日 橘謙信

 

 

2024年9月19日木曜日

ポストモダニズムについて

 

ポストモダニズムについて

 正義というものにあまり価値を置かない人のよくある意見として、自分が絶対に正しいと思っている人は独善的で他人に自分の正義を押し付けようとし、それにより社会を息苦しくさせるので、少なくとも自分を絶対に正しいと思ったり、自分が悪だと思う人や団体を憎んだり、罰しようとすべきではないという意見がある。つまりこの世には普遍的正義などなく、各々が持つ正義はあくまで相対的なもので人の数だけ正義というものはあるものだから、基本的に対社会的行動はあくまで保身と損得勘定を行動規範とすべきだという意見である。

 このような意見が近代において先進国において多数派を占めることにより、上級国民が調子づき自己正当化に自己正当化を重ね、明らかに長期的に見れば人体に有害なコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などを無知な患者に投与して多くの死傷者を出しながら金儲けすることを正当化してきた。また大きく見れば先進国が発展途上国を搾取することを先進国社会は正当化してきた。

 さて、本当に正義というものは相対的なものであり、立場により無数に存在するというポストモダニズム的意見が正しいのかというと、古今東西の聖者、賢者と同じく私は否という。

簡単に言うとポストモダニズムが想定している正義とは、各自の小我が自らを正当化するためのただの屁理屈にすぎないもので、本当の正義とは各自の大我が正しいと思った概念であり、この各自の大我が正しいと思った概念、正義は普遍的、人類共通なものであると私は思っている。

小我が自らを正当化するために作った偽の正義と大我が正しいと思って作った本物の正義との違いは小我が自らを正当化するために作った正義は、基本的に自らが得をするために作った正義だから、その正義のためにそれを主張する人は損することはできないのに対して、大我が正しいと思った正義のためには、それを主張する人は損すること、時にはそのために命をかけることを躊躇しないということで見分けることができる。

おそらくコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などで多数の死傷者を出しながら金儲けしてきた医者や製薬会社などのDSの直接の関係者は今後第三次世界大戦に勝った反DS勢力により全財産没収されることになると思われるが、ここで思想的に今までDSを支えてきたポストモダニストの主要な宗教家、哲学者や思想家、作家たちの動向が注目される。

私自身は上記で述べた通り、ポストモダニズム(敵を愛せ! 悪人を許せ! 悪人を憎むな! 善悪を基準にして行動するな! 損得勘定だけで動け!)などという思想(つまり発展途上国の罪のない子供たちの不幸は見て見ぬふりをして、先進国の悪党、寄生虫にはもっともっと同情し、寛大に接するべきであるという思想)はただの偽善思想、偽善哲学だと確信しているが、もし私の意見が間違っていてポストモダニズムが大我によって作られた正真正銘の正義だとしたら、ポストモダニストの宗教家や哲学者や思想家、作家などは自らの保身や損得勘定を全く顧みず、たとえ自分が全財産没収されようとも、たとえ反DS勢力の逆鱗にふれ、自分が断頭台の露に消えることになろうとも徹底的に自らの正当性を主張し続けることが予想されるからである。

私自身はもうすぐ死ぬので、ポストモダニストたちの反論の詳細を聞くことはできないが、もし多くのポストモダニストたちが自らの財産、命を顧みないで自らの正当性を主張するようなことがあったとしたならば、とりあえずそのポストモダニストたちは全員殺処分したのち、後世の人はもう一度ポストモダニストたちがどんな感情に基づいて、敵を愛せ、悪人を許せ、悪人を憎むな、無抵抗主義に徹せよ、と主張しながらギロチンの露と消えていったかを慮り、ポストモダニズム(キリスト教的価値観の最終形態)について本当にただの小悪党の考えた自己正当化、ただの自己愛及び自己愛を拡大した醜い差別愛だけに基づいた思想であったのか、もしくは現代の東洋人の私たちがまだ知らない感情に基づいた本物の正義だったのかを再考すべきだとは思っている。

 

2024年9月10日火曜日

心を青くするということについて

 

心を青くするということについて

 「自然治癒力について」で心を青くすれば自然治癒力は高まると書いたが、最後に心を青くするとはどういうことかということについて詳細を述べようと思う。

 統合失調症の急性期には誰もが心を恐怖感に支配されるし、陰性症状においては心が真っ黒な絶望感でいっぱいになる。またそのような恐怖感や絶望感に支配されている時は心に極度の緊張感が張りつめている。

 そういう時は他人に人間的好意など抱ける余裕などなく、疑心暗鬼になり他人の好意を拒絶してしまうので自分の性格が悪くなったように感じてしまうものである。もう自分の心の中の大慈悲(無差別愛)の炎は恐怖感や絶望感により吹き消されてしまったように感じられ、それがより自分を心細い寒々とした気持ちにさせ、そのことによってより恐怖感や絶望感を強く感じてしまうようになる。

 そういう時どうすればいいかというと心を青くすればいいのである。極度の恐怖感や絶望感を感じている時、無意識下の大慈悲(無差別愛)という温かい陽の感情は陰に転じて大智という静清な知性に変わってるので、そういう時はともかく自分の中に感情的温かみを求めるのではなく、ともかく自分の生き地獄的な今の状況からの脱出方法を冷静に真面目に考えて考えて考え続ければ、無意識下の大智が青く輝き始め、心が青くなる。つまり心を青くするとは絶体絶命のピンチや絶望的状況において取り乱さず、真面目に冷静にその状況下において脱出口を考えることをいう。絶体絶命のピンチや絶望的状況において人は自暴自棄になったり、錯乱したりしたくなるものだがそういう醜い感情をあくまで知性で押さえつけて、冷静になるということでもある。

 心が青くなれば心の中に張りつめていた極度の緊張がゆるみ、心の中の恐怖感や絶望感を客観視できるようになる。心の中の恐怖感や絶望感を客観視できさえすれば、想像力によって強化された恐怖心や絶望感は一気に相対化され縮小されるので、恐怖感や絶望感をほとんど克服でき、より正気に戻りより真面目に冷静に考えられるようになるという好循環に入る。

 

 大智とはどういうものかと、もう少し詳しく知りたい方もいると思うのでちょっと説明しておく。大智とは仏教では大慈悲を知性化したものだと言われている。私自身は圧倒的恐怖感や絶望感の中で真面目に冷静に自分の身の回りの状況と自分自身の状況を考えること自体を大智だと基本的に考えている。(ちなみに圧倒的恐怖感や絶望感の中で大慈悲を意志化したものが捨て身の心、捨て身の覚悟というものであると私は思っている。)

また大智はあくまで知性であり大慈や大悲とちがい感情ではないので大智を意識上に浮かび上がらせることによってなんらかの悟り体験というものを得られるものではないと私は思っている。少なくとも私は大智を神秘体験を伴う悟りとして得たという告白のある書物を読んだことはない。)無意識下の大慈悲という感情が意識上に共同体感覚や他人への友愛の心を作るように、無意識下の大智という知性は意識上に美意識というものを作る。そして美意識と捨て身の心が逆境下においても人に美しく生きようとさせ、または美しく死のうとさせる気力を生み出す。

全く脱出口のない所に追いつめられたような逆境下において心を青くして真面目に冷静に考えると一般的にどういう解決策を見つけ出すかというと、統合失調についていえばもう統合失調症という障害を持った自分にとっては美しく生きるために、または美しく死ぬために害にしかならない小我の欲望やつまらない執着、虚栄心などをできるかぎり意識的にとりあえず当面の間刈り込んで身軽になろうという解決策に行きつくはずである。そして実際自分にとってどうしても大切な中核部分以外の自分を刈り込むことにより自分自身が人間として素朴になり、そのことにより自分をセルフコントロールしやすくなり、再び心に余裕が持てるようになる。そうすると周囲の人間の自分への対応が変わり、世界の局面が変わる。世界の局面が変わると生き地獄からの脱出口が見つかり、生き地獄から脱出できるようになるというのが一般的解決策といえる。

確かに上記の通りすればすべての統合失調症患者にとって必ず100%周囲の人々や周囲の状況がいい方向に変わり、すべての統合失調症患者が生き地獄から脱出できるようになるとは私自身も断言はできないが、基本的に心を青くすれば、人間として素朴になり、人生をまたセルフコントロールできるようになるので、そのことによりある程度逆境下においても心に余裕が持てエレガントに生きられるようになるということは100%確実に言えると私は考えている。

結局統合失調症患者にとってエレガントに生き、エレガントに死ぬこと自体がゴールなのであり、エレガントに生きるということは統合失調症を発症してしまったという自分の不幸を美しく思える心を持てるかどうかなのである。つまり圧倒的恐怖感や絶望感の中でも大智を輝かし真面目に冷静に考えると、必ず自分の不幸な人生を美しく思えるくらいの心の余裕を持てるようになれ、エレガントに生き、またはエレガントに死ねるので統合失調症患者にとっては心を青くしようと思うことはやはり最重要なことなのである。

 

 

 補足

しかし統合失調症の回復期前期において一度完全に絶望することは、私は非常にいいことだと思っている。一度完全に絶望しなければ、どうしても人並みに幸せになりたいという執着を捨てられず、心を青くすること、諦念を持つことはできないからである。

2024年8月25日日曜日

質問、受け付けます。

  いよいよ心臓が弱ってきて、もう死ぬのは間近だと思うので、もし質問がある人がいたら多分答えます。あんまり質問数が多くなってきたら答えられなくなるかもしれないけど基本的にはまともな質問には(私を馬鹿にするような質問以外)答えようと思っています。

 質問はコメント欄に書いてください。

    2024年8月25日    橘謙信


  誰も質問しないので、自分で典型的な質問に答えておきたいと思います。


 Q  コロナワクチンを打たせて多数の死者や一生残る障害を負わせた医者や厚生省の役人、マスコミ関係者はどう処分されるべきだと思いますか?

 A 私自身としては日本のトップの指示を出した人たち(2・30人)は全財産没収及び死刑なのは仕方ないと思いますが、基本的にそれ以外の人たちは全財産没収だけでいいと思っています。

 Q  この際抗がん剤や向精神薬、集団ストーカー等で多数の人たちを殺してきた医者や厚生省の役人、警察官も罪に問われるべきだと思いますか?

 A  もちろん全財産没収すべきだと思いますが、基本的に欧米で有罪と判定され、それなりの処分にならなければ日本でも罪には問えないと思います。ただ欧米で基本的にテロリストとして射殺及び全財産没収とすることが決まっても、日本では全財産没収だけでいいと私は思っています。

 コロナワクチン、抗がん剤、向精神薬および集団ストーカー関係者で全財産没収になる人たちは日本国内で100万人くらいいると私は想定しています。基本的に100万人を収容できる刑務所は存在しないし、作ったとしても金がかかりすぎます。また100万人テロリストとして殺すのは面倒くさいし、かつ実際殺したり、刑務所に入れてしまったら日本社会が回らなくなるということが全財産没収だけで済ます私としての最大の理由です。

  Q なるべく多くの人がコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬や集団ストーカーにより日本国民を虐待、虐殺してきた日本DSがどう罪に問われるべきかということについてSNSなどで意見を表明することはいいことだと思いますか?

 A  それはとてもいいことだと思います。実際彼らをどう処罰されるべきかは民衆が決めるのがもちろん一番いいと思っています。

 Q 日本DSのトップであるといわれる明仁上皇まで罪に問われるべきだと思いますか?

 A   もちろん、そう思います。が、最終的にはそれは民衆が決める問題だと思います。

 Q もしネットで言われている通り、コロナワクチン以外のワクチンの大量摂取が自閉症や発達障害を引き起こしていたことが立証されたときは、小児科医も全財産没収すべきだと思いますか?

 A  うーん、微妙な問題ですが、私としては全財産の半分を没収くらいでいいと思っています。(小児科医が故意に子供たちを傷つけていたとは私は思っていないということです。逆を言えばコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬は医者は100%有害性を分かっていながら投与していたと私は確信しているということです。)基本的にはこの問題については民衆が医者をどう処罰すればいいか決めるべきだと思っています。

        2024年10月10日 橘謙信




2024年8月19日月曜日

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

私の加害者意識哲学は個人哲学的側面もあり、社会哲学的側面もある。加害者意識哲学の個人哲学的側面は基本的インド哲学に準拠していて、加害者意識哲学の社会哲学的側面は基本的中国哲学に準拠している。

この章ではインド哲学とその問題点、中国哲学とその問題点についての私見を述べてから、インド哲学と中国哲学の合体として側面から見た加害者意識哲学について今一度説明しようと思う。

 

インド哲学は私見では生きることについて苦悩する人たちが考えた個人哲学である。具体的に言えば他人や他の生命の犠牲の上に生きている自分をどうしても許せないという思いから生まれた哲学である。つまり強すぎる正義への愛に基づく哲学、または加害者意識に凝り固まりすぎた哲学とも言える。インド哲学の目指すところは生の克服(解脱)である。(つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が自分の内面に向かい人間としての完成を目指そうとする哲学ともいえる。)

つまりインド哲学は生を克服することによって自らの苦悩を個人的に滅却しようとする哲学ということである。

具体的にどのようにして生を克服して自らの苦悩、原罪を滅却するのかというと、ヴェーダでは瞑想等の修業により自らの無意識下にある大慈(無差別愛)を意識上に浮上させ、この世界の本質である世界感情と一体化させる。無意識下の大慈が意識上に浮上している時間は生涯に一回、12分のことでしかないがその状態をヴェーダの悟り(アートマンとブラフマンの一体化)という。ヴェーダの悟りとはどういう内容化というと自分自身の本質もこの宇宙の本質も同じが大慈(無差別愛)だと悟る、知ることである。(悟りとは体験智であって、基本的に私がこういう風に言語化して伝えても読者は実際に読者自身が悟らなければ少しもヴェーダの悟りを知ることにはならないのであるが、まぁ言葉にするとこういうことになる。)そしてその悟りを得ると自らの苦悩、生きていることに対する罪悪感も滅却されることになる。なぜなら苦悩している自分も自分のために犠牲になっている他者も本質的に同一の大慈だということを悟ったからである。

ヴェーダの悟りの問題点は、この世界にうようよしている卑劣な小悪党どもとも自分が一体であるということ、その小悪党たちの持つ下劣な愛にも価値があると認めなければならないことなのであるが、その問題の克服として仏陀が現れ、仏教の悟り、大悲(ニルヴァーナ)を新たに発見した。大悲とはどういう悟りかというと大慈という悟りを得た後、とりあえずまた人は世界と分離して正気に戻るわけであるが、正気に戻った後も修業を続け(世の中で美しく正しく生きようと苦労を続け)、自分自身の魂を世界感情より高貴にすることによって、ほとんどすべての人が被害者意識に凝り固まり、お互いに対立しあっている世界を客観的に認識し、この世界に対して心から悲しみの感情を持つことである。つまり悟った後無意識下にまた沈んでいた大慈という感情を大悲という感情に昇華、浄化させて意識上に再浮上させることが仏教の悟りと言える。(ちなみに大悲という悟りの喜びは大慈の悟りと違い12時間くらい続く。私は夜7時ごろに悟り、その夜11時ごろ寝て朝7時ごろ起きたときもまだかすかに大悲の喜びが体の中に残っていた。)

ヴェーダの悟りも仏教の悟りも共通して言えることは、どちらも自分自身をよりよくすることによりあくまで自力本願で自分の中の苦悩を個人的に解決しようとすることにある。つまりインド哲学の最大の問題点は個人主義的でありすぎて、人間という生き物の社会的生物という側面を無視していることである。そのことにより、大慈や大悲を悟ったインドの聖者はみな正しく生きることそして禁欲的生活を民衆に強く勧めた。民衆は到底そんな禁欲的生活はできないから、自らをダメな奴だと思い、意気消沈して無力感を感じながら生きることをよしとするようになりカースト制度(要するにいい生まれの人はいい人だから幸せになるべきであり、卑賤な生まれの人は卑劣だから不幸であるべきであるという優生思想)に反抗する気力を持てなかった。

つまり正義を愛するインドの聖者は禁欲主義を薦めたが、インドの民衆は無抵抗主義という禁欲主義という正義、大慈の結晶とは似て非なる偽善を愛するようになったということである。(禁欲主義は自らの小我の抑制だが、無抵抗主義は本質的に自らの大我の抑制、大慈の意識上の感情の一種である悪への憎悪の抑制だから無抵抗主義は禁欲主義とは反対のものなのである。)

要するにインド哲学は確かに美しいが、インド社会をより良くするためにはまったく役に立たなかったということである。またインド哲学は上述している通り強い正義への愛に基づく哲学であり、確かにインドの禁欲主義はインドの聖者たちの正義への愛の結晶と言えるかもしれないが、結果それは庶民に無力感を抱かせ、カースト制度という悪を憎む気力を失わせたのは皮肉と言えるだろう。

 

対して中国哲学はどうかというと、中国哲学は弱者への同情心からなんとかしてみんなを幸せにしたい、世の中をよくしたいという人たちが考えた哲学である。つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が外の世界に向かい志にというものを大切にする哲学と言える。みんなが幸せに暮らすにはどうすればいいかというと、中国哲学ではみんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重できるような社会を作ればよいとする。みんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重すれば社会は自ずから明るく温かく和やかになるし、そうした社会ではみんなが自分の利の最大化を追求せず、お互いに一歩譲って、他人のためと思ったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになるような大局観のある道を見出せるというわけである。

具体的にどのようにすればみんなが心のゆとり、心の余裕を持てるかというと老子は、みんなが中庸を愛して生きればいいとする。中庸とはどのようなものかと言うとわが主著「共同生活」で書かれている通り、正義と自己愛の中間にある徳である。つまりインド哲学のように自己否定につながるほど厳しく正義を愛さないで、それなりに自分の小我、自分の生活を愛してほどほどに生きるのがよいと中国哲学は基本的に主張している。

インド哲学が禁欲を愛するなら、中国哲学は知足を愛するということである。

老子の哲学のどこが最大の問題かというと、中庸はあくまで自由意志を基盤にしてできているということである。どういうことかというと禁欲主義を庶民に強制しようとすることは可能だが、たとえどんな権力者であろうとも足るを知る心を庶民に強制することはできないということである。つまりあらゆる中庸の徳はあくまで庶民が自発的、任意的に愛するようにならなければ中庸の徳ではないのであり、心のゆとり心の余裕を持つことはできないのであることが老子の哲学の社会哲学としての最大の問題だと言える。

このため結局、老子の哲学は悪党やくずどもが知足をわきまえず、自分の利を最大化して生きようとすることを止めることができなかった。つまり中庸は自己愛をそれなりに肯定しているため、どうしても人生を不真面目に生きること、小悪党として生きること、損得勘定だけ考えて生きることを否定できなかったということである。

その問題を解決するために儒教が現れた。儒教とはどういう思想かというとみんなが礼節を守って他人に接すれば社会は和やかになるという思想である。確かに礼節を守って人に接しよ! ということは強制できる。だがしかし、儒教は礼節さえ守れば自分の利の最大化を追求してもいいとする思想でもある。

儒教により中国社会は中庸から公正さを愛するようになり、最終的に科挙などにより超学歴社会、能力主義社会、努力至上主義社会を作り、人々の心から他人を尊重できるような心のゆとり、心の余裕は消え去ってしまった。

 

つまりインド人はあくまで正義だけを愛し、中国人は中庸だけを愛したため、インド社会には偽善が横行し、中国社会は公正さに支配されるようになったというわけである。

このインド哲学、中国哲学双方の欠点を解決するのが私の加害者意識哲学である。民衆がきちんと加害者意識を持って生きることにより、正義(悪を憎む心)と中庸の両方の徳を民衆が愛せるようにして、その二つの徳によって社会を統治しようというのが私の加害者意識哲学のエッセンスである。また加害者意識哲学は人を人格的に完成はさせないが、人間として成熟させる。

加害者意識哲学の理想とする社会は、善良な弱者は不幸になる必要がないといい、人間の屑みたいな奴は不幸になれ! という社会である。つまり99%の人が他者を尊重できる心のゆとりと心の余裕を持て、かつ正義を愛する心(大慈の一種である悪を憎む心)も持てる社会である。

確かに私の加害者意識哲学はインド哲学ほど苦悩を感じさせないし、インド哲学ほど高貴ではないが、修業もせず在家のまま、「きちんと加害者意識をもって真面目に生きる(かつ加害者意識に凝り固まりすぎないで)」という誰にでも分かる簡単な人生に対する態度だけで99%の人が今よりもずっとまともでそれなりに幸せに暮らせる社会を作れるのだから、加害者意識哲学にインド哲学のような天上の匂いがしないことについては目を瞑ってほしいと切に願うところである。