2025年9月19日金曜日

年金制度の廃止についての詳細説明

 

年金制度の廃止についての詳細説明

 私の具体的政治主張という章でも述べたが、私の政治主張には年金制度の廃止をして、その浮いた金で生活保護費を大体今の10倍くらいの規模に増やすというもの(今の年金の総支給額は56兆円で生活保護費は4兆円だが、それを年金は0円にして、生活保護費を40兆円程度にするというもの。)がある。それについての詳細説明をしておこうと思う。

 基本的に第三次世界大戦の勝者であるBRICSが敗戦国である日本に対して年金制度の廃止と生活保護制度の拡充を命じるわけだから、敗戦国民である日本人にそれに逆らう権利はないと思う。また日本国民であっても氷河期世代以降の世代にとってはどうせいつかは年金制度が破綻することは分かっていたのだから、それが多少早まって傷口が浅くなることは感謝することはあっても、誰も反対する人はいないであろう。

 この年金制度廃止ということについて強い拒否反応を示す人がいるとすれば、バブル世代以上の厚生年金受給資格者、つまり第三次世界大戦の敗北が決まるまで発展途上国や日本の氷河期世代以下の非正規社員たちを冷笑し、搾取していた人々である。基本的に彼らは日本の支配層であるエタ侍の子孫や在日朝鮮人と共謀して第三次世界大戦において先進国の持てる者、搾取する側の代表として戦い、負けたわけであるからその敗戦責任として支配者層とちがい全財産没収にならず年金受給権だけを奪われることだけで済んで本来ならば感謝すべきところなのであるが、基本的に若いことから甘やかされて育ったゆえに、とことん自己中心的で、かつ自分の立場という者をわきまえられない人々だからこのままいけばやはり99%以上の確率で恥も外聞もなく被害者意識に凝り固まり、泣きわめき、不平不満をわめきちらし、日本の国際的評判を地に落とすことが予想される。順境において他人に対して厳しく自己責任を追及して冷酷であった人ほど逆境において自分に対してとことん甘く他責的になるのは世の常だからである。

 彼らにそのような行動、言動を取らせず、黙って彼らの厚生年金受給権の消滅を受け入れさせるためにも今ここでもう一度彼らが厚生年金受給権を剥奪されても当然の理由というものを列挙しておきたいと思う。

 まず第一に上述しているとおり彼らは第三次世界大戦の敗者であるという理由がある。また超限戦である第三次世界大戦に負けたわけだからもうこれ以上発展途上国や先進国の非正規労働者を搾取することはできなくなるので、搾取の果実である年金制度が維持できず廃止されるのは当然なのであるという理由でもある。

 第二にそもそも論として失われた30年という長期不況が日本で始まる1990年代に、彼らは氷河期世代に対してワークシェアリングを断固拒否した時に理由は、子育てには金がかかるので将来の世代を育てるためにもワークシェアリングを導入することはできない。氷河期世代以降の人々に対しては人材派遣制度を導入して徹底的にリストラ、人件費削減を行いその金でとりあえず今の自分たちの世代が行っている子育て費用を維持するしかないという主張であった。30年経った今の極端な世代間格差、世代間分断の結果を見ると彼らの主張が間違っていて、あそこでワークシェアリングをしてみんなでデフレ不況の痛みを分かちあうべきだったのは明白である。そうしておけばここまで日本社会は荒廃しなかったのだから、政治的決断は結果責任を問われるという原則により、バブル世代以上の人々が厚生年金受給権を剥奪されることはそういう意味でも当然なのである。

 また100歩譲って彼らが自分たちの子育て費用を十分に確保するためにワークシェアリングを拒否したことが本当に将来の世代のためを思っての行動だったかという動機について検証してみる。きれい事しか言わない相手とは話し合うよりも、距離をあけて相手の行動から判断するとその人物がどういう人間かがよりよくわかるという西洋の格言があるが、その面から言っても彼らの動機が自らの私利私欲ではなく利他的なものであったとは到底思えない。なぜならこの30年間、彼らの行動は終始一貫して、発展途上国の人々や氷河期世代以降の派遣社員などの非正規社員を冷笑していたのは絶対覆られない事実だからである。その点から言っても彼らが将来世代のことを考えて泣く泣くワークシェアリングを拒否したなどと言うのはへそで茶を沸かすような言い分で、嘘をつくにしてももう少しまともな嘘をつけという気持ちが氷河期世代の大部分の人の感想であろう。だいたいもしその言い分が本当にそうだとするならもう子育ては終了したのだから、今までのつけを厚生年金受給権の消滅という形で払うことは何の異議もないはずである。

第三にバブル世代以上の厚生年金受給者は支配層のエタや在日朝鮮人と結託して、氷河期世代以下の人々を正社員と非正規社員間、ホワイトカラーとブルーカラー間に意識的に分断統治し、同世代間で憎しみ合わせるように仕向けたという罪がある。その結果日本社会は地獄のような弱肉強食社会になっているのだが、その罪を償うためにも厚生年金受給権を剥奪されることは当然なのである。

第四に失われた30年の間、彼らは東南アジアや南アジアから技能実習生という形で日本国内に外国人労働者を流入させ、極めて低賃金の奴隷労働に従事させてもいた。そのためその外国人労働者たちが帰国した後、極めて強い反日感情を東南アジア諸国や南アジア諸国に広めたため日本はアジアの中でかなり嫌われている立場に立っている。つまり日本の安全保障をかなり傷つけたという面から考えても、その懲罰として彼らの厚生年金受給権が剥奪されるのは当然なのである。

 またBRICS側の都合を考えても、第三次世界大戦の準戦勝者である日本の搾取されてきた階級、氷河期世代の都合から考えても今後年金制度を廃止して、支給される生活保護の受給優先権は第一順位が70歳以上で60歳時から5年以上ブルーカラー労働をしていた人になり、第二順位が障害者、シングルマザー、シングルファーザー、ホームレス、70歳以上の厚生年金受給者以外の者となり、第三順位が氷河期世代の生活に困窮した人々となり、第四順位が65歳以上のその他の老人になるものと予想される。なぜならそうすれば、65歳以上の厚生年金受給者の人々が自分の将来に不安を感じることにより、反中世論を煽ったり、防衛費増額、生活保護費の総額の削減を叫ぶことが彼らにとって自傷行為になるため、ブリックス側にとっても都合がよいからである。(そうすることのよって反中世論が沈静化し、かつ日本が積極的に軍縮をするようになるということ。)また日本国内事情から考えてみても生活保護の受給優先権の第一順位を70歳以上で60歳時から5年以上ブルーカラー労働をしていた人にすることは人手不足の解消に役立つから日本国民全体から反対意見は出にくくなる。また氷河期世代の困窮した人々をバブル世代以上の老人よりも生活保護受給権において優遇することは、汗水たらして真面目に働いてきたものが最終的には要領よく、楽して生きて弱者を冷笑してきた人よりも優遇するということであり、国内的に見ても日本のぼろぼろになっている風紀を正すために効果的だと思われ、かつブリックス側から見ても二度と先進国のホワイトカラー層に世界大戦を起こそうという気持ちを起こさせないために、また今回の戦争に対する先進国のホワイトカラー層への懲罰として最適なものであると思われる。またそうすることのよって生活保護費の総額を少しでも多くし、バブル世代以上の生活に困窮した少しでも多くの厚生年金受給権者が生活保護を貰えるようにするためにバブル世代以上の厚生年金受給者が積極的に自らの共犯者であった日本の支配層であるエタや在日朝鮮人、コロナワクチンを打たせて多数の死者や一生残る障害を国民に負わせた医者や厚生省の役人、マスコミ関係者や抗がん剤や向精神薬、集団ストーカー等で多数の人たちを殺してきた医者や厚生省の役人、警察官の全財産没収を率先して求めることにより、エタや在日朝鮮人勢力等の日本の支配者層の駆除、無力化を図れることになるのでブルックス側から見ても好都合となる。

 最後にこの文章を読んでこれはヘイトスピーチであり、ポリティカルコレクトに反するという批判を繰り広げようとするエタや在日朝鮮人に餌付けされた言論人たちに対してあらかじめ反論をシュミレーションしておきたいと思う。

 彼らはいつものポストモダン的正義論を持ち出しながら、正義によって人を裁いてはいけない。罪を憎んで人を憎まずというのがヒューマニズムというものなのであると私を批判するであろう。それに対して私がバブル世代以上の厚生年金受給権を消滅させないと確実に氷河期世代の多くの人々は野垂れ死にすることになる。つまりバブル世代以上のホワイトカラーを憎み罰するということと氷河期世代の下層階級を救うと言うことは表裏一体であるのでこの憎悪は正しく、やむを得ないものなのだと反論する。それに対しての彼らの反論はきれい事しか言わない言論人たちはなかなかいわないであろうが、どうにかこうにか追い詰めて言わせるとこうなると思われる。「氷河期世代が野垂れ死ぬのは自由競争に負けたため、自然の摂理としてしょうがないことなのである。それを避けるために我らのバブル世代以上の日本の支配者層に刃向かおうなどと思うことは弱肉強食という自然の摂理に反するから決してあってはならないことなのである」と。それに対する私の反論はもちろん、それならばBRICSに第三次世界大戦で負けたエタや在日朝鮮人、バブル世代以上の厚生年金受給権者こそ自然の摂理として野垂れ死ぬのは致し方ないことではないでしょうか、ということになる。そうするとその言論人たちは今までの穏やかなインテリ的な物腰をかなぐり捨てて叫ぶだろう。「うるせー。エタ様やチョン様に逆らおうっていうのか! エタ様やチョン様は怖―ぞー! 大体エタ様やチョン様のバックには在日米軍がいるのだ。アングロサクソン様はもっと怖―ぞー!」

 偽善者の醜く、卑賤な本性を丸出しにした言動はおそらく上記のシュミレーション以上に聴くに堪えないものになりそうだが、とりあえず彼らに気の済むまで罵詈雑言を吐かせてやった後の私としての最後の台詞はこうなるだろう。

「残念ながらあなたたちのご主人様、在日米軍はもうすぐ撤退するそうですよ。エタもチョンもアングロサクソンも第三次世界大戦に負けてもう虫の息だそうです。

 あなたたちは上級国民であるエタや在日朝鮮人に戦わずして負けを認めたとき、身の程をわきまえて、社会の片隅で奴隷らしく卑屈に縮こまって生きていくべきだったんですよ。奴隷の分際で一人前の人間である氷河期世代に、社会的身分や年齢差を利用して戦いを挑んだのがあなたたちの人生における最悪の選択でしたね。戦わずして負けた奴隷の人生なんて客観的価値はないのでどうか今まで通り何も考えず流れに身を任せて野垂れ死んでください。楽して生きるために己のプライドを捨てエタやチョンに媚びを売って生きてきた人生なんて、客観的に見てあまりにも惨めすぎるので、一刻も早くあなたたちを地獄にたたき送ってあげるのが、同じ日本人としての氷河期世代からの最後の思いやりです。我らの美しい憎悪をどうぞお受け取りください。」

 まぁ、こうシュミレーション通りに行くかどうかは分からないが、しょせん戦わずしてエタや在日朝鮮人に屈した奴隷ごときを叩き潰すのに戦術は事前に考えておく必要も大してないと思うのでここら辺でとりあえず私は筆を置こうと思う。

 

 

 

 


2025年7月31日木曜日

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて  

 

いじめに対する正当なる理由のある怨恨殺人、正義感から来た殺人は無罪であるべきであるということについて

 

「被害者意識哲学と加害者意識哲学」という章において、中庸経済システムに属する人においては、中庸と同等に無差別社会正義というものを大切にしなければならないと説いた。具体的にはいじめに対する正当な理由による怨恨殺人やいじめに対する正義感から来た第三者による報復殺人は無罪であるべきであると説いたが、それについての因果律からみた説明をここで少ししておきたいと思う。

 中観を悟ると、つまり般若心経的悟り、色即是空、空即是色という悟りを悟ると悪人の来世というものが見えるようになる。(中観という悟りがどういうものかについての詳細はいつか暇なときに述べる。)例えば今世で善良な弱者が苦しむのを冷笑していた学歴エリートが来世で境界知能に生まれ、みんなから使えないなー、と言われながら一生を送ったりするのが見えるようになると因果律(良いことをすれば良いことが起こり、悪いことをすれば悪いことが起こるという法則)というものは確かに存在するものだということを理解できるようになり、かつ悪人は地獄で何百年責め苦を負っても決してあの世では改心したり、人間的成長はできないので、悪人が救われるにはどうしてももう一度この世に生まれてきて、この世で改心し、この世で人間的成長をして良き魂にならなければならないということも分かる。

この宇宙の法則、因果律の最大の問題点とは、中観という悟りを悟っていないこの世に生きている99%の人たちには因果律というものが本当に存在するとはどうしても信じ切れないので、なかなか改心しにくいことにある。なぜなら来世の自分は今世の自分の犯した罪を記憶していないからである。

そのため1%の中観の悟りを得た人は、一人でも多くの悪人を改心させ、救うためにも悪因悪果の法則をなるべくこの世界内で完結して見えるような社会を作るように努めることが求められる。そのためにセクハラやパワハラなどのいじめに対するような正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律を制定すべきであると主張すべきなのである。なぜ正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることが悪因悪果といういう因果律を見える化させるかというと、そうすることによって小悪党どもが部下に対してパワハラやセクハラをしたり、集団で特定の個人をいじめたときに、今よりもずっと高い確率で反撃される可能性が高くなるからである。つまり本来ならば死後にしか見えなかった因果律をこの世で生きているうちに凡人でもある程度はみえるようにさせるわけである。

またこの法律を作ることにより小悪党どもが損得勘定的判断力からもパワハラやセクハラ等の弱い者いじめを躊躇するようになり、間接的に今よりもお互いを尊重し合えるような社会を作りやすくする。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とするという法律を作ることはこの社会を弱肉強食の暗く冷たい原始林のような社会から誰もが共存共栄しやすい明るく温かい里山のような社会に作り替える作用もあるのである。

要するに悪党へのミクロの(個人的)不寛容が合成の誤謬によりマクロ的に見て(社会的には)みんなが尊重しあえるような寛容な社会を作るというわけである。(今まで人を直接的に殺すことは悪であるが、パワハラやセクハラなどにより間接的に相手を自殺に追い込むことは罪に問わないという罪を憎んで人を憎まずというようなキリスト教徒的ミクロの偽善的寛容さが合成の誤謬により、マクロの暗く冷たい敵意に満ちた社会を作ってきたという認識を持つということでもある。)

またパワハラやセクハラやいじめを周囲で見ていた第三者たちにも、その弱い者いじめをしていた人を殺す権利を与えることにより、今よりも友情や男気を大切にする社会を作ることになるし、友情や男気を正義に昇華させやすい社会を作ることもできるという副次効果も生む。

つまり正当な理由のある怨恨殺人を無罪とするということは、善人が誰しも持つ悪への憎悪という感情を肯定し、悪人が誰しも持つ他人への敵意という卑賤な感情を打倒することを肯定する社会を作るということなのである。そのことによって悪しき魂を持って生まれた人も、他人に対する恐怖心から、自らの自己愛を根源とする他人への敵意という感情を抑制しやすくなり、この世で改心しやすくなるというわけである。

良いことをしたら良いことが起こるという因果律を見える化させたのが兼愛交利、winwinという経済学的論理であるならば、悪いことをしたら悪いことが起きるという因果律を見える化させるのがこの正当な理由による怨恨殺人は無罪とするという法律なのである。

また結局のあらゆる法律が存在するそもそもの意義とは因果律を可視化させ、人々に納得感を持って生きてもらうことによって社会秩序を整えるためであることから言っても正当な理由のある怨恨殺人は無罪にするという法律を制定することは望ましいだけでなく原理的に正しくもあるのである。

また真の社会的(マクロな)自由を愛する人ならば、必ずこの法律が制定されることに賛成してくれることを私は確信している。なぜならば言論の自由や信教の自由などはお互いに尊重し合う社会になればなるほど、より保障されるからである。つまり正当な理由による怨恨殺人を無罪とする法律を作ることにより、悪人が相手から反撃されることを恐れてパワハラやセクハラを思いとどまり、消極的不作為によって相手を尊重するようになれば、言論の自由や信教の自由などの精神的自由は今よりずっとより保障されるからである。

 

2024年10月19日土曜日

合理性と兼愛交利

 

合理性と兼愛交利

副題 神一厘の仕組み

 現代人の愛する悪徳に合理性というものがある。合理性を愛する人は合理的な社会を望む。合理的な社会とは便利な社会、無駄のない社会(つまりゆとりのない社会)である。

 合理的な社会とはつまり金持ちが自分の持っているマネーを最大限有効活用できる社会といってもいいかもしれない。

合理的な社会は99%の大して金持ちでない人々にとってはゆとりのない不幸な社会だが、被害者意識に凝り固まった多くの大衆、つまり被害者意識と表裏一体の他人への敵意を強く持つ多くの大衆にとって便利だし、隣人に最低限の報酬しか与えないという損をさせるので(合理的社会は人件費を抑制させるから)納得感のある社会である。

合理的な社会、無駄のない社会とはみんなが基本的に自分さえよければ他人はどうなったっていいと思っている社会だから、基本的に他人への敵意という感情の上に立つ暗く冷たい社会である。またみんなが被害者意識に凝り固まった選民意識をもって自分は特別扱いされて当然だという傲慢な社会だともいえる。ちなみにみんなが加害者意識を凝り固まった選民意識をもつとみんながこの弱肉強食の世界を見て、自分の中の生きんとする意志と大慈悲という二つの本源感情の間で苦悩する社会となる。

合理的な社会を愛する人は必ず公正さというものを愛する人だから、公正社会仮説(みんなが損得勘定で生きていけば神の見えざる手が働いてすべてまるく治まるという仮説)を信じているので、他人の不幸はあくまで見て見ぬふりをしながらこの地獄のような現代社会を肯定している。

公正さを愛する人は効率的、合理的な実力主義社会を肯定し、弱者が不幸になるのは当然だとし、勝者が利益を総どりする格差の大きな社会を作ろうとする。公正で思いやりがある人というものはいないのである。

また合理的な社会は勝者が利益を総取りして庶民の取り分、共同体の取り分が少ない社会だから、ほとんどの人が一歩も譲れなくなって、基本的に自分のためと思ってやったことが他人のためになり、他人のためと思ってやったことが自分のためになるようなウィンウィンの解決策を見つけ出せない社会であり、基本的に全体の利への配慮のない社会となる。

合理的な社会の反対の中庸な社会、共同体感覚に基づく社会は庶民と共同体の取り分がそれなりにあり、みんなが一歩ずつ譲り合って、全体の利を最大化させてみんなでウィンウィンの社会を作ろうとする社会であり、格差の小さい社会を目指す。

このように合理性というものは基本的に悪徳といえる。だが、ゲーム理論ではこの合理的思考を駆使してもお互いに相手の善意を信じあうと条件が満たせれば、合理的思考は悪なのにもかかわらず両者にとって最良の結果を得られることが理論的に証明されている。

ゲーム理論の論理をビジネスの場に持ち込むと、お互いに長期間にわたって何回も取引をするという前提があれば相手の善意を信じなくても、共同体感覚に基づく兼愛交利の取引と同様にお互いにウィンウィンの取引ができる。なぜならどちらかが一回でも裏切ってしまうともう取引がそこで終了してしまい、長い目で見れば損になることはお互いに理性的合理的に考えて明らかであるからである。

そして取引を両者が何回も続けてお互いに得することのより、両者の心の中にお互いを信じる心を生じさせ、両者の合理性への愛という悪の心を共同体感覚、兼愛交利という善の心に変えることが自然にできる。そしてこのお互いにビジネスの利を分かち合う喜びは私が81日にアップした加害者意識哲学で述べた純粋善、与える喜びとほとんど同じものなのである。これが日月神示のいう神一厘の仕組みというものなのである。

自らの合理性への愛という悪の心を共同体感覚、お互いに分かち合う喜びという善の心に変えつづけ生きるということが、インド哲学的に言ってこの世という修業の場で在家の人が魂を向上させる具体的方法であるとも言えるし、この世をみんなが共同体感覚を持ち、おたがいに助け合い、尊敬しあい、愛しあう天国のような世界に変えようと志すことが中国哲学的に言ってこの世に人間として生まれてきた意味なのだともいえる。

 

そういうわけなので今、世界ではDS(大金持ちの権力者)と99%の庶民との間で第三次世界大戦が勃発しそうになって人類滅亡の瀬戸際に立たされているが、もしDSが改心して上記のようなゲーム理論に基づくビジネスをして、自らの悪の心を善の心に変えて、真人間になるつもりがあるならば、第三次世界大戦を起こさないという条件で私の意見としてはDSの財産没収はしなくてもいいと思っている。

           

20241019日 橘謙信

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月23日月曜日

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

 

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

統合失調症を発症してしまうと、自尊心がどうしてもいったんボロボロになる。自尊心がボロボロになるということは、被害者意識に凝り固まりセルフネグレクトを肯定するような不幸で卑賤な、他人への思いやりのない小悪党に自分がなってしまうということである。その人生最大の逆境時において、どうすればよいかというと落ち着いて真面目に考えて自らの美意識による判断に従ってもう一度加害者意識をあらためて持ち直すことである。加害者意識を持てれば、魂の高貴さを取り戻せ、人生を修業の場だと思えるようになる。人生を修業の場と思えれば、心のゆとりが持て、セルフネグレクトをやめ再びに人間として向上しよう思えるようになる。向上心を持てるようになるから自分自身を尊敬できるようになり、自尊心を徐々に回復させることができるようになる。

 つまり加害者意識をきちんと持てれば逆境であればあるほど必ず人生を修業の場と思え、向上心を持てることにより自尊心を回復させることができるということである。

 逆を言えば、統合失調症初期の回復期(統合失調症発症から3年以内)において、一番やってはいけないことは自分を許すということである。自分を許すということは、今のセルフネグレクトしている自分を自己正当化して、自分を無力な存在だと認め、他人の不幸を見て見ぬふりをしながら被害者意識に凝り固まっている自分をあわれだとしみじみと思うことである。

 統合失調症回復期後期において、自分の弱さを認め、その自分の弱さを他人へのやさしさに変えること、柔弱になることが認知機能障害を克服するポイントだと以前書いたことがあるが、自分の心身の弱さを認めることと自分を許すということは似て非なることだということは覚えておきたいポイントである。


 統合失調症マニュアル2で書くはずだった、サビの部分を一応書いたのでアップしておきます。

2024年9月23日 橘謙信

 

 

2024年9月19日木曜日

ポストモダニズムについて

 

ポストモダニズムについて

 正義というものにあまり価値を置かない人のよくある意見として、自分が絶対に正しいと思っている人は独善的で他人に自分の正義を押し付けようとし、それにより社会を息苦しくさせるので、少なくとも自分を絶対に正しいと思ったり、自分が悪だと思う人や団体を憎んだり、罰しようとすべきではないという意見がある。つまりこの世には普遍的正義などなく、各々が持つ正義はあくまで相対的なもので人の数だけ正義というものはあるものだから、基本的に対社会的行動はあくまで保身と損得勘定を行動規範とすべきだという意見である。

 このような意見が近代において先進国において多数派を占めることにより、上級国民が調子づき自己正当化に自己正当化を重ね、明らかに長期的に見れば人体に有害なコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などを無知な患者に投与して多くの死傷者を出しながら金儲けすることを正当化してきた。また大きく見れば先進国が発展途上国を搾取することを先進国社会は正当化してきた。

 さて、本当に正義というものは相対的なものであり、立場により無数に存在するというポストモダニズム的意見が正しいのかというと、古今東西の聖者、賢者と同じく私は否という。

簡単に言うとポストモダニズムが想定している正義とは、各自の小我が自らを正当化するためのただの屁理屈にすぎないもので、本当の正義とは各自の大我が正しいと思った概念であり、この各自の大我が正しいと思った概念、正義は普遍的、人類共通なものであると私は思っている。

小我が自らを正当化するために作った偽の正義と大我が正しいと思って作った本物の正義との違いは小我が自らを正当化するために作った正義は、基本的に自らが得をするために作った正義だから、その正義のためにそれを主張する人は損することはできないのに対して、大我が正しいと思った正義のためには、それを主張する人は損すること、時にはそのために命をかけることを躊躇しないということで見分けることができる。

おそらくコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などで多数の死傷者を出しながら金儲けしてきた医者や製薬会社などのDSの直接の関係者は今後第三次世界大戦に勝った反DS勢力により全財産没収されることになると思われるが、ここで思想的に今までDSを支えてきたポストモダニストの主要な宗教家、哲学者や思想家、作家たちの動向が注目される。

私自身は上記で述べた通り、ポストモダニズム(敵を愛せ! 悪人を許せ! 悪人を憎むな! 善悪を基準にして行動するな! 損得勘定だけで動け!)などという思想(つまり発展途上国の罪のない子供たちの不幸は見て見ぬふりをして、先進国の悪党、寄生虫にはもっともっと同情し、寛大に接するべきであるという思想)はただの偽善思想、偽善哲学だと確信しているが、もし私の意見が間違っていてポストモダニズムが大我によって作られた正真正銘の正義だとしたら、ポストモダニストの宗教家や哲学者や思想家、作家などは自らの保身や損得勘定を全く顧みず、たとえ自分が全財産没収されようとも、たとえ反DS勢力の逆鱗にふれ、自分が断頭台の露に消えることになろうとも徹底的に自らの正当性を主張し続けることが予想されるからである。

私自身はもうすぐ死ぬので、ポストモダニストたちの反論の詳細を聞くことはできないが、もし多くのポストモダニストたちが自らの財産、命を顧みないで自らの正当性を主張するようなことがあったとしたならば、とりあえずそのポストモダニストたちは全員殺処分したのち、後世の人はもう一度ポストモダニストたちがどんな感情に基づいて、敵を愛せ、悪人を許せ、悪人を憎むな、無抵抗主義に徹せよ、と主張しながらギロチンの露と消えていったかを慮り、ポストモダニズム(キリスト教的価値観の最終形態)について本当にただの小悪党の考えた自己正当化、ただの自己愛及び自己愛を拡大した醜い差別愛だけに基づいた思想であったのか、もしくは現代の東洋人の私たちがまだ知らない感情に基づいた本物の正義だったのかを再考すべきだとは思っている。

 

2024年9月10日火曜日

心を青くするということについて

 

心を青くするということについて

 「自然治癒力について」で心を青くすれば自然治癒力は高まると書いたが、最後に心を青くするとはどういうことかということについて詳細を述べようと思う。

 統合失調症の急性期には誰もが心を恐怖感に支配されるし、陰性症状においては心が真っ黒な絶望感でいっぱいになる。またそのような恐怖感や絶望感に支配されている時は心に極度の緊張感が張りつめている。

 そういう時は他人に人間的好意など抱ける余裕などなく、疑心暗鬼になり他人の好意を拒絶してしまうので自分の性格が悪くなったように感じてしまうものである。もう自分の心の中の大慈悲(無差別愛)の炎は恐怖感や絶望感により吹き消されてしまったように感じられ、それがより自分を心細い寒々とした気持ちにさせ、そのことによってより恐怖感や絶望感を強く感じてしまうようになる。

 そういう時どうすればいいかというと心を青くすればいいのである。極度の恐怖感や絶望感を感じている時、無意識下の大慈悲(無差別愛)という温かい陽の感情は陰に転じて大智という静清な知性に変わってるので、そういう時はともかく自分の中に感情的温かみを求めるのではなく、ともかく自分の生き地獄的な今の状況からの脱出方法を冷静に真面目に考えて考えて考え続ければ、無意識下の大智が青く輝き始め、心が青くなる。つまり心を青くするとは絶体絶命のピンチや絶望的状況において取り乱さず、真面目に冷静にその状況下において脱出口を考えることをいう。絶体絶命のピンチや絶望的状況において人は自暴自棄になったり、錯乱したりしたくなるものだがそういう醜い感情をあくまで知性で押さえつけて、冷静になるということでもある。

 心が青くなれば心の中に張りつめていた極度の緊張がゆるみ、心の中の恐怖感や絶望感を客観視できるようになる。心の中の恐怖感や絶望感を客観視できさえすれば、想像力によって強化された恐怖心や絶望感は一気に相対化され縮小されるので、恐怖感や絶望感をほとんど克服でき、より正気に戻りより真面目に冷静に考えられるようになるという好循環に入る。

 

 大智とはどういうものかと、もう少し詳しく知りたい方もいると思うのでちょっと説明しておく。大智とは仏教では大慈悲を知性化したものだと言われている。私自身は圧倒的恐怖感や絶望感の中で真面目に冷静に自分の身の回りの状況と自分自身の状況を考えること自体を大智だと基本的に考えている。(ちなみに圧倒的恐怖感や絶望感の中で大慈悲を意志化したものが捨て身の心、捨て身の覚悟というものであると私は思っている。)

また大智はあくまで知性であり大慈や大悲とちがい感情ではないので大智を意識上に浮かび上がらせることによってなんらかの悟り体験というものを得られるものではないと私は思っている。少なくとも私は大智を神秘体験を伴う悟りとして得たという告白のある書物を読んだことはない。)無意識下の大慈悲という感情が意識上に共同体感覚や他人への友愛の心を作るように、無意識下の大智という知性は意識上に美意識というものを作る。そして美意識と捨て身の心が逆境下においても人に美しく生きようとさせ、または美しく死のうとさせる気力を生み出す。

全く脱出口のない所に追いつめられたような逆境下において心を青くして真面目に冷静に考えると一般的にどういう解決策を見つけ出すかというと、統合失調についていえばもう統合失調症という障害を持った自分にとっては美しく生きるために、または美しく死ぬために害にしかならない小我の欲望やつまらない執着、虚栄心などをできるかぎり意識的にとりあえず当面の間刈り込んで身軽になろうという解決策に行きつくはずである。そして実際自分にとってどうしても大切な中核部分以外の自分を刈り込むことにより自分自身が人間として素朴になり、そのことにより自分をセルフコントロールしやすくなり、再び心に余裕が持てるようになる。そうすると周囲の人間の自分への対応が変わり、世界の局面が変わる。世界の局面が変わると生き地獄からの脱出口が見つかり、生き地獄から脱出できるようになるというのが一般的解決策といえる。

確かに上記の通りすればすべての統合失調症患者にとって必ず100%周囲の人々や周囲の状況がいい方向に変わり、すべての統合失調症患者が生き地獄から脱出できるようになるとは私自身も断言はできないが、基本的に心を青くすれば、人間として素朴になり、人生をまたセルフコントロールできるようになるので、そのことによりある程度逆境下においても心に余裕が持てエレガントに生きられるようになるということは100%確実に言えると私は考えている。

結局統合失調症患者にとってエレガントに生き、エレガントに死ぬこと自体がゴールなのであり、エレガントに生きるということは統合失調症を発症してしまったという自分の不幸を美しく思える心を持てるかどうかなのである。つまり圧倒的恐怖感や絶望感の中でも大智を輝かし真面目に冷静に考えると、必ず自分の不幸な人生を美しく思えるくらいの心の余裕を持てるようになれ、エレガントに生き、またはエレガントに死ねるので統合失調症患者にとっては心を青くしようと思うことはやはり最重要なことなのである。

 

 

 補足

しかし統合失調症の回復期前期において一度完全に絶望することは、私は非常にいいことだと思っている。一度完全に絶望しなければ、どうしても人並みに幸せになりたいという執着を捨てられず、心を青くすること、諦念を持つことはできないからである。

2024年8月25日日曜日

質問、受け付けます。

  いよいよ心臓が弱ってきて、もう死ぬのは間近だと思うので、もし質問がある人がいたら多分答えます。あんまり質問数が多くなってきたら答えられなくなるかもしれないけど基本的にはまともな質問には(私を馬鹿にするような質問以外)答えようと思っています。

 質問はコメント欄に書いてください。

    2024年8月25日    橘謙信


  誰も質問しないので、自分で典型的な質問に答えておきたいと思います。


 Q  コロナワクチンを打たせて多数の死者や一生残る障害を負わせた医者や厚生省の役人、マスコミ関係者はどう処分されるべきだと思いますか? またこの際抗がん剤や向精神薬、集団ストーカー等で多数の人たちを殺してきた医者や厚生省の役人、警察官も罪に問われるべきだと思いますか?

 A 私自身としては日本のトップの指示を出した人たち(2・30人)は全財産没収及び死刑なのは仕方ないと思いますが、基本的にそれ以外の人たちは全財産没収だけでいいと思っています。(またトップの方たちの2・30人も6親等内の親族全員が連帯責任として全財産を国に寄付することに同意するなら死刑を免除してもいいと思っています。基本的に支配層の親族は筋金入りの拝金主義者だろうと思われるので、絶対全員が進んで全財産を国に寄付することに同意するとは思いませんが、そういう通達を出すことにより、トップの人たち2・30人を死刑にした後も基本的に支配層の親族たちを担いで新生日本に対して反体制運動をするような人々を事前に排除することにつながると思うからです。そういう通達を出すことによりトップ層の死刑後、内ゲバによりその6親等内の親族は自滅していくと推測するからでもあります。仮に6親等内の親族の全員が全財産を国に寄付するような支配者層の一人がいたとしたら、多分その一族たちは新生日本の最大の障害となるでしょうが、そのときはそのときで腹をくくって正々堂々と戦って叩き潰せばいいと思っています。

 コロナワクチン、抗がん剤、向精神薬および集団ストーカー関係者で全財産没収になる人たちは日本国内で100万人くらいいると私は想定しています。基本的に100万人を収容できる刑務所は存在しないし、作ったとしても金がかかりすぎます。また100万人テロリストとして殺すのは面倒くさいし、かつ実際殺したり、刑務所に入れてしまったら日本社会が回らなくなるということが罪を全財産没収だけで済ます最大の理由です。コロナワクチンで死傷した方々の家族や向精神薬で廃人にされた方やその家族の方々の多くは、医者や厚生省の役人、マスコミ関係者、警察関係者に対して死を持って償え!と強く全員の死刑を求める気持ちを持っている方々も多くいらっしゃるとは思いますが、私は基本的にブッダと同じくこの世の怨みは怨みをもって静まることはない。怨みを捨ててこそ怨みは静まるものと思っています。私のこの解答を非常に偽善的に感じる方々も多々いらっしゃるとは思いますが、基本的に私は彼らの罪は死後地獄で裁いてもらうしかないと思っています。

  Q なるべく多くの人がコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬や集団ストーカーにより日本国民を虐待、虐殺してきた日本DSがどう罪に問われるべきかということについてSNSなどで意見を表明することはいいことだと思いますか?

 A  それはとてもいいことだと思います。実際彼らをどう処罰されるべきかは民衆が決めるのがもちろん一番いいと思っています。

 Q 日本DSのトップであるといわれる明仁上皇まで罪に問われるべきだと思いますか?

 A   もちろん、そう思います。が、最終的にはそれは民衆が決める問題だと思います。

 Q もしネットで言われている通り、コロナワクチン以外のワクチンの大量摂取が自閉症や発達障害を引き起こしていたことが立証されたときは、小児科医も全財産没収すべきだと思いますか?

 A  うーん、微妙な問題ですが、私としては全財産の半分を没収くらいでいいと思っています。(小児科医が故意に子供たちを傷つけていたとは私は思っていないということです。逆を言えばコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬は医者は100%有害性を分かっていながら投与していたと私は確信しているということです。)基本的にはこの問題については民衆が医者をどう処罰すればいいか決めるべきだと思っています。

        2024年10月10日 橘謙信

私的事情によりしばらくの間(多分1、2年くらい)、質問には答えられません。悪しからず。

        2025年4月21日  橘謙信