2024年11月4日月曜日

最期に (最新世界情勢と偽善の克服について)

 

2024827日現在の最新の世界情勢はブリックス正式加盟国は10か国、正式に加盟申請している国がパレスチナも含めて48か国ある。そしてブリックスの決済システムを使う予定の国が159か国あり、かつ人民元の決済がドル決済を超えたことによりブリックス側の脱ドル化が成功している。つまり先進国対発展途上国の超限戦は発展途上国側の勝利がほぼ確定している。

発展途上国側に裏切者がほとんど出なかったのが発展途上国の勝因と言えるだろう。私自身はもっと先進国に寝返る国がでるのではないかと予想していたが、結局アルゼンチンくらいだった。

勝利の祝杯に私は参加できそうにないが、プーチン大統領と習近平国家主席、そしてインドのモディ首相にお礼を言います。あなたたちの英知と勇断のおかげで世界中で虐げられ死んでいく子供たちが近未来半減します。ありがとうございました。

最後になりましたがロシアと中国とインドのさらなる繁栄を陰ながら祈っています。

          2024827日   橘謙信


 表面的にはきれいごとを言いながら、楽して要領よく生きたいということを行動で示して生きようとすること、偽善者として生きようと思う人は必ず周囲の人を味方につけようとする。なぜなら周囲の人が敵だったら、絶対楽して要領よくは生きられないからだ。

 だから偽善者は必ず自らの偽善の正当性を周囲に吹聴し、賛同を求める。また偽善の論理は中庸の論理よりも言論上はよく見えるから、偽善とは民主主義によく適応した悪徳と言える。

 この偽善を世界が根本的に克服するにはみんながきちんと加害者意識を持って生きるしかないが、暫定的に克服するには先進国群に対して発展途上国群が勝てばどうにかなる。よって1012日現在、ブリックスが脱ドル化協定に署名したことにより、XユーザーのMikeCristo8さん: 「BRICS finance ministers gather in Moscow after each minister signs de-dollarization agreements It’s becoming real now https://t.co/f8QwjBXSrx」 / X暫定的には偽善は一応克服された。ただこれは発展途上国側がともかく損したくないという損得勘定に基づいた価値観をベースに戦って勝っただけの結果で、まだ共同体感覚に基づく兼愛交利の論理、中庸の論理が偽善の論理よりも正しいと人類が完全にそう思ったわけではないので発展途上国側が偽善の論理に完全勝利したと思うのは間違いである。

 発展途上国の偽善に対する完全勝利は、どうしてもこの先30年、40年かけてウィンウィンの世界を作るために発展途上国の人々自身が地道に汗水たらして働くことのよって、発展途上国の人々がきちんと加害者意識を持って生きていることを証明しなければ絶対得られないのである。

 幸運を祈る。

            2024年10月13日 橘謙信


2024年10月19日土曜日

「私の具体的政治主張について」の一部撤回

 

「私の具体的政治主張について」の一部撤回

 今年の春にブログにアップした「私の具体的政治主張について」の中で私が掲げた在日朝鮮人を強制送還または永久国外追放すること、及びエタ(朝鮮系日本人)を一人っ子政策により絶滅させるという政治主張を全面的に撤回します。

 イスラエルにおけるガザ虐殺を見て、これは絶対ユダヤ人がパレスチナ人を虐殺しているのではなく、ユダヤ人が名乗る悪党がパレスチナ人を虐殺しているのは当初から分かっていたのですが、日本において在日朝鮮人や朝鮮系日本人を名乗る悪党たちが日本人に対して暴虐のかぎりをつくしていて在日朝鮮人と朝鮮系日本人は背乗りされた被害者だとは昨夜まで気が付きませんでした。在日朝鮮人や朝鮮系日本人の方々にはものすごく不愉快な思いをさせてしまい誠に申し訳ございません。

    

20241020日  橘謙信

 

 


合理性と兼愛交利

 

合理性と兼愛交利

副題 神一厘の仕組み

 現代人の愛する悪徳に合理性というものがある。合理性を愛する人は合理的な社会を望む。合理的な社会とは便利な社会、無駄のない社会(つまりゆとりのない社会)である。

 合理的な社会とはつまり金持ちが自分の持っているマネーを最大限有効活用できる社会といってもいいかもしれない。

合理的な社会は99%の大して金持ちでない人々にとってはゆとりのない不幸な社会だが、被害者意識に凝り固まった多くの大衆、つまり被害者意識と表裏一体の他人への敵意を強く持つ多くの大衆にとって便利だし、隣人に最低限の報酬しか与えないという損をさせるので(合理的社会は人件費を抑制させるから)納得感のある社会である。

合理的な社会、無駄のない社会とはみんなが基本的に自分さえよければ他人はどうなったっていいと思っている社会だから、基本的に他人への敵意という感情の上に立つ暗く冷たい社会である。またみんなが被害者意識に凝り固まった選民意識をもって自分は特別扱いされて当然だという傲慢な社会だともいえる。ちなみにみんなが加害者意識を凝り固まった選民意識をもつとみんながこの弱肉強食の世界を見て、自分の中の生きんとする意志と大慈悲という二つの本源感情の間で苦悩する社会となる。

合理的な社会を愛する人は必ず公正さというものを愛する人だから、公正社会仮説(みんなが損得勘定で生きていけば神の見えざる手が働いてすべてまるく治まるという仮説)を信じているので、他人の不幸はあくまで見て見ぬふりをしながらこの地獄のような現代社会を肯定している。

公正さを愛する人は効率的、合理的な実力主義社会を肯定し、弱者が不幸になるのは当然だとし、勝者が利益を総どりする格差の大きな社会を作ろうとする。公正で思いやりがある人というものはいないのである。

また合理的な社会は勝者が利益を総取りして庶民の取り分、共同体の取り分が少ない社会だから、ほとんどの人が一歩も譲れなくなって、基本的に自分のためと思ってやったことが他人のためになり、他人のためと思ってやったことが自分のためになるようなウィンウィンの解決策を見つけ出せない社会であり、基本的に全体の利への配慮のない社会となる。

合理的な社会の反対の中庸な社会、共同体感覚に基づく社会は庶民と共同体の取り分がそれなりにあり、みんなが一歩ずつ譲り合って、全体の利を最大化させてみんなでウィンウィンの社会を作ろうとする社会であり、格差の小さい社会を目指す。

このように合理性というものは基本的に悪徳といえる。だが、ゲーム理論ではこの合理的思考を駆使してもお互いに相手の善意を信じあうと条件が満たせれば、合理的思考は悪なのにもかかわらず両者にとって最良の結果を得られることが理論的に証明されている。

ゲーム理論の論理をビジネスの場に持ち込むと、お互いに長期間にわたって何回も取引をするという前提があれば相手の善意を信じなくても、共同体感覚に基づく兼愛交利の取引と同様にお互いにウィンウィンの取引ができる。なぜならどちらかが一回でも裏切ってしまうともう取引がそこで終了してしまい、長い目で見れば損になることはお互いに理性的合理的に考えて明らかであるからである。

そして取引を両者が何回も続けてお互いに得することのより、両者の心の中にお互いを信じる心を生じさせ、両者の合理性への愛という悪の心を共同体感覚、兼愛交利という善の心に変えることが自然にできる。そしてこのお互いにビジネスの利を分かち合う喜びは私が81日にアップした加害者意識哲学で述べた純粋善、与える喜びとほとんど同じものなのである。これが日月神示のいう神一厘の仕組みというものなのである。

自らの合理性への愛という悪の心を共同体感覚、お互いに分かち合う喜びという善の心に変えつづけ生きるということが、インド哲学的に言ってこの世という修業の場で在家の人が魂を向上させる具体的方法であるとも言えるし、この世をみんなが共同体感覚を持ち、おたがいに助け合い、尊敬しあい、愛しあう天国のような世界に変えようと志すことが中国哲学的に言ってこの世に人間として生まれてきた意味なのだともいえる。

 

そういうわけなので今、世界ではDS(大金持ちの権力者)と99%の庶民との間で第三次世界大戦が勃発しそうになって人類滅亡の瀬戸際に立たされているが、もしDSが改心して上記のようなゲーム理論に基づくビジネスをして、自らの悪の心を善の心に変えて、真人間になるつもりがあるならば、第三次世界大戦を起こさないという条件で私の意見としてはDSの財産没収はしなくてもいいと思っている。

           

20241019日 橘謙信

 

 

 

 

 

 

 

2024年9月23日月曜日

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

 

自尊心がボロボロになってしまった時の対処法

統合失調症を発症してしまうと、自尊心がどうしてもいったんボロボロになる。自尊心がボロボロになるということは、被害者意識に凝り固まりセルフネグレクトを肯定するような不幸で卑賤な、他人への思いやりのない小悪党に自分がなってしまうということである。その人生最大の逆境時において、どうすればよいかというと落ち着いて真面目に考えて自らの美意識による判断に従ってもう一度加害者意識をあらためて持ち直すことである。加害者意識を持てれば、魂の高貴さを取り戻せ、人生を修業の場だと思えるようになる。人生を修業の場と思えれば、心のゆとりが持て、セルフネグレクトをやめ再びに人間として向上しよう思えるようになる。向上心を持てるようになるから自分自身を尊敬できるようになり、自尊心を徐々に回復させることができるようになる。

 つまり加害者意識をきちんと持てれば逆境であればあるほど必ず人生を修業の場と思え、向上心を持てることにより自尊心を回復させることができるということである。

 逆を言えば、統合失調症初期の回復期(統合失調症発症から3年以内)において、一番やってはいけないことは自分を許すということである。自分を許すということは、今のセルフネグレクトしている自分を自己正当化して、自分を無力な存在だと認め、他人の不幸を見て見ぬふりをしながら被害者意識に凝り固まっている自分をあわれだとしみじみと思うことである。

 統合失調症回復期後期において、自分の弱さを認め、その自分の弱さを他人へのやさしさに変えること、柔弱になることが認知機能障害を克服するポイントだと以前書いたことがあるが、自分の心身の弱さを認めることと自分を許すということは似て非なることだということは覚えておきたいポイントである。


 統合失調症マニュアル2で書くはずだった、サビの部分を一応書いたのでアップしておきます。

2024年9月23日 橘謙信

 

 

2024年9月19日木曜日

ポストモダニズムについて

 

ポストモダニズムについて

 正義というものにあまり価値を置かない人のよくある意見として、自分が絶対に正しいと思っている人は独善的で他人に自分の正義を押し付けようとし、それにより社会を息苦しくさせるので、少なくとも自分を絶対に正しいと思ったり、自分が悪だと思う人や団体を憎んだり、罰しようとすべきではないという意見がある。つまりこの世には普遍的正義などなく、各々が持つ正義はあくまで相対的なもので人の数だけ正義というものはあるものだから、基本的に対社会的行動はあくまで保身と損得勘定を行動規範とすべきだという意見である。

 このような意見が近代において先進国において多数派を占めることにより、上級国民が調子づき自己正当化に自己正当化を重ね、明らかに長期的に見れば人体に有害なコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などを無知な患者に投与して多くの死傷者を出しながら金儲けすることを正当化してきた。また大きく見れば先進国が発展途上国を搾取することを先進国社会は正当化してきた。

 さて、本当に正義というものは相対的なものであり、立場により無数に存在するというポストモダニズム的意見が正しいのかというと、古今東西の聖者、賢者と同じく私は否という。

簡単に言うとポストモダニズムが想定している正義とは、各自の小我が自らを正当化するためのただの屁理屈にすぎないもので、本当の正義とは各自の大我が正しいと思った概念であり、この各自の大我が正しいと思った概念、正義は普遍的、人類共通なものであると私は思っている。

小我が自らを正当化するために作った偽の正義と大我が正しいと思って作った本物の正義との違いは小我が自らを正当化するために作った正義は、基本的に自らが得をするために作った正義だから、その正義のためにそれを主張する人は損することはできないのに対して、大我が正しいと思った正義のためには、それを主張する人は損すること、時にはそのために命をかけることを躊躇しないということで見分けることができる。

おそらくコロナワクチンや抗がん剤、抗精神病薬などで多数の死傷者を出しながら金儲けしてきた医者や製薬会社などのDSの直接の関係者は今後第三次世界大戦に勝った反DS勢力により全財産没収されることになると思われるが、ここで思想的に今までDSを支えてきたポストモダニストの主要な宗教家、哲学者や思想家、作家たちの動向が注目される。

私自身は上記で述べた通り、ポストモダニズム(敵を愛せ! 悪人を許せ! 悪人を憎むな! 善悪を基準にして行動するな! 損得勘定だけで動け!)などという思想(つまり発展途上国の罪のない子供たちの不幸は見て見ぬふりをして、先進国の悪党、寄生虫にはもっともっと同情し、寛大に接するべきであるという思想)はただの偽善思想、偽善哲学だと確信しているが、もし私の意見が間違っていてポストモダニズムが大我によって作られた正真正銘の正義だとしたら、ポストモダニストの宗教家や哲学者や思想家、作家などは自らの保身や損得勘定を全く顧みず、たとえ自分が全財産没収されようとも、たとえ反DS勢力の逆鱗にふれ、自分が断頭台の露に消えることになろうとも徹底的に自らの正当性を主張し続けることが予想されるからである。

私自身はもうすぐ死ぬので、ポストモダニストたちの反論の詳細を聞くことはできないが、もし多くのポストモダニストたちが自らの財産、命を顧みないで自らの正当性を主張するようなことがあったとしたならば、とりあえずそのポストモダニストたちは全員殺処分したのち、後世の人はもう一度ポストモダニストたちがどんな感情に基づいて、敵を愛せ、悪人を許せ、悪人を憎むな、無抵抗主義に徹せよ、と主張しながらギロチンの露と消えていったかを慮り、ポストモダニズム(キリスト教的価値観の最終形態)について本当にただの小悪党の考えた自己正当化、ただの自己愛及び自己愛を拡大した醜い差別愛だけに基づいた思想であったのか、もしくは現代の東洋人の私たちがまだ知らない感情に基づいた本物の正義だったのかを再考すべきだとは思っている。

 

2024年9月10日火曜日

心を青くするということについて

 

心を青くするということについて

 「自然治癒力について」で心を青くすれば自然治癒力は高まると書いたが、最後に心を青くするとはどういうことかということについて詳細を述べようと思う。

 統合失調症の急性期には誰もが心を恐怖感に支配されるし、陰性症状においては心が真っ黒な絶望感でいっぱいになる。またそのような恐怖感や絶望感に支配されている時は心に極度の緊張感が張りつめている。

 そういう時は他人に人間的好意など抱ける余裕などなく、疑心暗鬼になり他人の好意を拒絶してしまうので自分の性格が悪くなったように感じてしまうものである。もう自分の心の中の大慈悲(無差別愛)の炎は恐怖感や絶望感により吹き消されてしまったように感じられ、それがより自分を心細い寒々とした気持ちにさせ、そのことによってより恐怖感や絶望感を強く感じてしまうようになる。

 そういう時どうすればいいかというと心を青くすればいいのである。極度の恐怖感や絶望感を感じている時、無意識下の大慈悲(無差別愛)という温かい陽の感情は陰に転じて大智という静清な知性に変わってるので、そういう時はともかく自分の中に感情的温かみを求めるのではなく、ともかく自分の生き地獄的な今の状況からの脱出方法を冷静に真面目に考えて考えて考え続ければ、無意識下の大智が青く輝き始め、心が青くなる。つまり心を青くするとは絶体絶命のピンチや絶望的状況において取り乱さず、真面目に冷静にその状況下において脱出口を考えることをいう。絶体絶命のピンチや絶望的状況において人は自暴自棄になったり、錯乱したりしたくなるものだがそういう醜い感情をあくまで知性で押さえつけて、冷静になるということでもある。

 心が青くなれば心の中に張りつめていた極度の緊張がゆるみ、心の中の恐怖感や絶望感を客観視できるようになる。心の中の恐怖感や絶望感を客観視できさえすれば、想像力によって強化された恐怖心や絶望感は一気に相対化され縮小されるので、恐怖感や絶望感をほとんど克服でき、より正気に戻りより真面目に冷静に考えられるようになるという好循環に入る。

 

 大智とはどういうものかと、もう少し詳しく知りたい方もいると思うのでちょっと説明しておく。大智とは仏教では大慈悲を知性化したものだと言われている。私自身は圧倒的恐怖感や絶望感の中で真面目に冷静に自分の身の回りの状況と自分自身の状況を考えること自体を大智だと基本的に考えている。(ちなみに圧倒的恐怖感や絶望感の中で大慈悲を意志化したものが捨て身の心、捨て身の覚悟というものであると私は思っている。)

また大智はあくまで知性であり大慈や大悲とちがい感情ではないので大智を意識上に浮かび上がらせることによってなんらかの悟り体験というものを得られるものではないと私は思っている。少なくとも私は大智を神秘体験を伴う悟りとして得たという告白のある書物を読んだことはない。)無意識下の大慈悲という感情が意識上に共同体感覚や他人への友愛の心を作るように、無意識下の大智という知性は意識上に美意識というものを作る。そして美意識と捨て身の心が逆境下においても人に美しく生きようとさせ、または美しく死のうとさせる気力を生み出す。

全く脱出口のない所に追いつめられたような逆境下において心を青くして真面目に冷静に考えると一般的にどういう解決策を見つけ出すかというと、統合失調についていえばもう統合失調症という障害を持った自分にとっては美しく生きるために、または美しく死ぬために害にしかならない小我の欲望やつまらない執着、虚栄心などをできるかぎり意識的にとりあえず当面の間刈り込んで身軽になろうという解決策に行きつくはずである。そして実際自分にとってどうしても大切な中核部分以外の自分を刈り込むことにより自分自身が人間として素朴になり、そのことにより自分をセルフコントロールしやすくなり、再び心に余裕が持てるようになる。そうすると周囲の人間の自分への対応が変わり、世界の局面が変わる。世界の局面が変わると生き地獄からの脱出口が見つかり、生き地獄から脱出できるようになるというのが一般的解決策といえる。

確かに上記の通りすればすべての統合失調症患者にとって必ず100%周囲の人々や周囲の状況がいい方向に変わり、すべての統合失調症患者が生き地獄から脱出できるようになるとは私自身も断言はできないが、基本的に心を青くすれば、人間として素朴になり、人生をまたセルフコントロールできるようになるので、そのことによりある程度逆境下においても心に余裕が持てエレガントに生きられるようになるということは100%確実に言えると私は考えている。

結局統合失調症患者にとってエレガントに生き、エレガントに死ぬこと自体がゴールなのであり、エレガントに生きるということは統合失調症を発症してしまったという自分の不幸を美しく思える心を持てるかどうかなのである。つまり圧倒的恐怖感や絶望感の中でも大智を輝かし真面目に冷静に考えると、必ず自分の不幸な人生を美しく思えるくらいの心の余裕を持てるようになれ、エレガントに生き、またはエレガントに死ねるので統合失調症患者にとっては心を青くしようと思うことはやはり最重要なことなのである。

 

 

 補足

しかし統合失調症の回復期前期において一度完全に絶望することは、私は非常にいいことだと思っている。一度完全に絶望しなければ、どうしても人並みに幸せになりたいという執着を捨てられず、心を青くすること、諦念を持つことはできないからである。

2024年8月25日日曜日

質問、受け付けます。

  いよいよ心臓が弱ってきて、もう死ぬのは間近だと思うので、もし質問がある人がいたら多分答えます。あんまり質問数が多くなってきたら答えられなくなるかもしれないけど基本的にはまともな質問には(私を馬鹿にするような質問以外)答えようと思っています。

 質問はコメント欄に書いてください。

    2024年8月25日    橘謙信


  誰も質問しないので、自分で典型的な質問に答えておきたいと思います。


 Q  コロナワクチンを打たせて多数の死者や一生残る障害を負わせた医者や厚生省の役人、マスコミ関係者はどう処分されるべきだと思いますか?

 A 私自身としては日本のトップの指示を出した人たち(2・30人)は全財産没収及び死刑なのは仕方ないと思いますが、基本的にそれ以外の人たちは全財産没収だけでいいと思っています。

 Q  この際抗がん剤や向精神薬、集団ストーカー等で多数の人たちを殺してきた医者や厚生省の役人、警察官も罪に問われるべきだと思いますか?

 A  もちろん全財産没収すべきだと思いますが、基本的に欧米で有罪と判定され、それなりの処分にならなければ日本でも罪には問えないと思います。ただ欧米で基本的にテロリストとして射殺及び全財産没収とすることが決まっても、日本では全財産没収だけでいいと私は思っています。

 コロナワクチン、抗がん剤、向精神薬および集団ストーカー関係者で全財産没収になる人たちは日本国内で100万人くらいいると私は想定しています。基本的に100万人を収容できる刑務所は存在しないし、作ったとしても金がかかりすぎます。また100万人テロリストとして殺すのは面倒くさいし、かつ実際殺したり、刑務所に入れてしまったら日本社会が回らなくなるということが全財産没収だけで済ます私としての最大の理由です。

  Q なるべく多くの人がコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬や集団ストーカーにより日本国民を虐待、虐殺してきた日本DSがどう罪に問われるべきかということについてSNSなどで意見を表明することはいいことだと思いますか?

 A  それはとてもいいことだと思います。実際彼らをどう処罰されるべきかは民衆が決めるのがもちろん一番いいと思っています。

 Q 日本DSのトップであるといわれる明仁上皇まで罪に問われるべきだと思いますか?

 A   もちろん、そう思います。が、最終的にはそれは民衆が決める問題だと思います。

 Q もしネットで言われている通り、コロナワクチン以外のワクチンの大量摂取が自閉症や発達障害を引き起こしていたことが立証されたときは、小児科医も全財産没収すべきだと思いますか?

 A  うーん、微妙な問題ですが、私としては全財産の半分を没収くらいでいいと思っています。(小児科医が故意に子供たちを傷つけていたとは私は思っていないということです。逆を言えばコロナワクチンや抗がん剤、向精神薬は医者は100%有害性を分かっていながら投与していたと私は確信しているということです。)基本的にはこの問題については民衆が医者をどう処罰すればいいか決めるべきだと思っています。

        2024年10月10日 橘謙信




2024年8月19日月曜日

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

インド哲学、中国哲学と加害者意識哲学の関係性について

 

私の加害者意識哲学は個人哲学的側面もあり、社会哲学的側面もある。加害者意識哲学の個人哲学的側面は基本的インド哲学に準拠していて、加害者意識哲学の社会哲学的側面は基本的中国哲学に準拠している。

この章ではインド哲学とその問題点、中国哲学とその問題点についての私見を述べてから、インド哲学と中国哲学の合体として側面から見た加害者意識哲学について今一度説明しようと思う。

 

インド哲学は私見では生きることについて苦悩する人たちが考えた個人哲学である。具体的に言えば他人や他の生命の犠牲の上に生きている自分をどうしても許せないという思いから生まれた哲学である。つまり強すぎる正義への愛に基づく哲学、または加害者意識に凝り固まりすぎた哲学とも言える。インド哲学の目指すところは生の克服(解脱)である。(つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が自分の内面に向かい人間としての完成を目指そうとする哲学ともいえる。)

つまりインド哲学は生を克服することによって自らの苦悩を個人的に滅却しようとする哲学ということである。

具体的にどのようにして生を克服して自らの苦悩、原罪を滅却するのかというと、ヴェーダでは瞑想等の修業により自らの無意識下にある大慈(無差別愛)を意識上に浮上させ、この世界の本質である世界感情と一体化させる。無意識下の大慈が意識上に浮上している時間は生涯に一回、12分のことでしかないがその状態をヴェーダの悟り(アートマンとブラフマンの一体化)という。ヴェーダの悟りとはどういう内容化というと自分自身の本質もこの宇宙の本質も同じが大慈(無差別愛)だと悟る、知ることである。(悟りとは体験智であって、基本的に私がこういう風に言語化して伝えても読者は実際に読者自身が悟らなければ少しもヴェーダの悟りを知ることにはならないのであるが、まぁ言葉にするとこういうことになる。)そしてその悟りを得ると自らの苦悩、生きていることに対する罪悪感も滅却されることになる。なぜなら苦悩している自分も自分のために犠牲になっている他者も本質的に同一の大慈だということを悟ったからである。

ヴェーダの悟りの問題点は、この世界にうようよしている卑劣な小悪党どもとも自分が一体であるということ、その小悪党たちの持つ下劣な愛にも価値があると認めなければならないことなのであるが、その問題の克服として仏陀が現れ、仏教の悟り、大悲(ニルヴァーナ)を新たに発見した。大悲とはどういう悟りかというと大慈という悟りを得た後、とりあえずまた人は世界と分離して正気に戻るわけであるが、正気に戻った後も修業を続け(世の中で美しく正しく生きようと苦労を続け)、自分自身の魂を世界感情より高貴にすることによって、ほとんどすべての人が被害者意識に凝り固まり、お互いに対立しあっている世界を客観的に認識し、この世界に対して心から悲しみの感情を持つことである。つまり悟った後無意識下にまた沈んでいた大慈という感情を大悲という感情に昇華、浄化させて意識上に再浮上させることが仏教の悟りと言える。(ちなみに大悲という悟りの喜びは大慈の悟りと違い12時間くらい続く。私は夜7時ごろに悟り、その夜11時ごろ寝て朝7時ごろ起きたときもまだかすかに大悲の喜びが体の中に残っていた。)

ヴェーダの悟りも仏教の悟りも共通して言えることは、どちらも自分自身をよりよくすることによりあくまで自力本願で自分の中の苦悩を個人的に解決しようとすることにある。つまりインド哲学の最大の問題点は個人主義的でありすぎて、人間という生き物の社会的生物という側面を無視していることである。そのことにより、大慈や大悲を悟ったインドの聖者はみな正しく生きることそして禁欲的生活を民衆に強く勧めた。民衆は到底そんな禁欲的生活はできないから、自らをダメな奴だと思い、意気消沈して無力感を感じながら生きることをよしとするようになりカースト制度(要するにいい生まれの人はいい人だから幸せになるべきであり、卑賤な生まれの人は卑劣だから不幸であるべきであるという優生思想)に反抗する気力を持てなかった。

つまり正義を愛するインドの聖者は禁欲主義を薦めたが、インドの民衆は無抵抗主義という禁欲主義という正義、大慈の結晶とは似て非なる偽善を愛するようになったということである。(禁欲主義は自らの小我の抑制だが、無抵抗主義は本質的に自らの大我の抑制、大慈の意識上の感情の一種である悪への憎悪の抑制だから無抵抗主義は禁欲主義とは反対のものなのである。)

要するにインド哲学は確かに美しいが、インド社会をより良くするためにはまったく役に立たなかったということである。またインド哲学は上述している通り強い正義への愛に基づく哲学であり、確かにインドの禁欲主義はインドの聖者たちの正義への愛の結晶と言えるかもしれないが、結果それは庶民に無力感を抱かせ、カースト制度という悪を憎む気力を失わせたのは皮肉と言えるだろう。

 

対して中国哲学はどうかというと、中国哲学は弱者への同情心からなんとかしてみんなを幸せにしたい、世の中をよくしたいという人たちが考えた哲学である。つまり美しく生きたいという気持ち、向上心が外の世界に向かい志にというものを大切にする哲学と言える。みんなが幸せに暮らすにはどうすればいいかというと、中国哲学ではみんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重できるような社会を作ればよいとする。みんなが心のゆとり、心の余裕を持って他人を尊重すれば社会は自ずから明るく温かく和やかになるし、そうした社会ではみんなが自分の利の最大化を追求せず、お互いに一歩譲って、他人のためと思ったことが自分のためになり、自分のためと思ってやったことが他人のためになるような大局観のある道を見出せるというわけである。

具体的にどのようにすればみんなが心のゆとり、心の余裕を持てるかというと老子は、みんなが中庸を愛して生きればいいとする。中庸とはどのようなものかと言うとわが主著「共同生活」で書かれている通り、正義と自己愛の中間にある徳である。つまりインド哲学のように自己否定につながるほど厳しく正義を愛さないで、それなりに自分の小我、自分の生活を愛してほどほどに生きるのがよいと中国哲学は基本的に主張している。

インド哲学が禁欲を愛するなら、中国哲学は知足を愛するということである。

老子の哲学のどこが最大の問題かというと、中庸はあくまで自由意志を基盤にしてできているということである。どういうことかというと禁欲主義を庶民に強制しようとすることは可能だが、たとえどんな権力者であろうとも足るを知る心を庶民に強制することはできないということである。つまりあらゆる中庸の徳はあくまで庶民が自発的、任意的に愛するようにならなければ中庸の徳ではないのであり、心のゆとり心の余裕を持つことはできないのであることが老子の哲学の社会哲学としての最大の問題だと言える。

このため結局、老子の哲学は悪党やくずどもが知足をわきまえず、自分の利を最大化して生きようとすることを止めることができなかった。つまり中庸は自己愛をそれなりに肯定しているため、どうしても人生を不真面目に生きること、小悪党として生きること、損得勘定だけ考えて生きることを否定できなかったということである。

その問題を解決するために儒教が現れた。儒教とはどういう思想かというとみんなが礼節を守って他人に接すれば社会は和やかになるという思想である。確かに礼節を守って人に接しよ! ということは強制できる。だがしかし、儒教は礼節さえ守れば自分の利の最大化を追求してもいいとする思想でもある。

儒教により中国社会は中庸から公正さを愛するようになり、最終的に科挙などにより超学歴社会、能力主義社会、努力至上主義社会を作り、人々の心から他人を尊重できるような心のゆとり、心の余裕は消え去ってしまった。

 

つまりインド人はあくまで正義だけを愛し、中国人は中庸だけを愛したため、インド社会には偽善が横行し、中国社会は公正さに支配されるようになったというわけである。

このインド哲学、中国哲学双方の欠点を解決するのが私の加害者意識哲学である。民衆がきちんと加害者意識を持って生きることにより、正義(悪を憎む心)と中庸の両方の徳を民衆が愛せるようにして、その二つの徳によって社会を統治しようというのが私の加害者意識哲学のエッセンスである。また加害者意識哲学は人を人格的に完成はさせないが、人間として成熟させる。

加害者意識哲学の理想とする社会は、善良な弱者は不幸になる必要がないといい、人間の屑みたいな奴は不幸になれ! という社会である。つまり99%の人が他者を尊重できる心のゆとりと心の余裕を持て、かつ正義を愛する心(大慈の一種である悪を憎む心)も持てる社会である。

確かに私の加害者意識哲学はインド哲学ほど苦悩を感じさせないし、インド哲学ほど高貴ではないが、修業もせず在家のまま、「きちんと加害者意識をもって真面目に生きる(かつ加害者意識に凝り固まりすぎないで)」という誰にでも分かる簡単な人生に対する態度だけで99%の人が今よりもずっとまともでそれなりに幸せに暮らせる社会を作れるのだから、加害者意識哲学にインド哲学のような天上の匂いがしないことについては目を瞑ってほしいと切に願うところである。

            

 

2024年8月12日月曜日

私の全著作の英語版翻訳権について

 

我が全著作の英語版翻訳権の値段について

 我が全著作の英語版翻訳権については約10兆円とする。(正確な額は自分で計算してくれ)また全著作の中の一部分翻訳するのも約10兆円とする。(たとえ一文翻訳しても約10兆円ということ)理由はアングロサクソンが嫌いだからだ。要するに単なる嫌がらせと受け取ってくれていい。なお日本政府、日本人による支払いは受け付けない。ちなみに英語版翻訳権以外の残りの著作権は普通に相場の印税率でいいと私は思っている。笑

 

 我が著作の英語版の紙本の巻末に、約10兆円は以下のところ全部に寄付および贈与した証明する文書を記載することで約10兆円払ったものとみなす。なお以下の団体、個人で受け取りを拒否する者がいる場合、その分の金額は中華人民共和国に寄付するものとする。

 

福島県 3兆円 福島県ホームページ (fukushima.lg.jp)

石川県 1兆円  石川県ホームページ

一水会 990億円 一水会公式サイト -トップページ- (issuikai.jp)

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みんなでつくる党 大津綾香 1000億円 みんなでつくる党 (mintsuku.org)

NHK党 立花孝志 3000億円 所属議員 | NHKから国民を守る党 (nhkkara.jp)

立憲民主党 野田佳彦 2500億円 野田佳彦 / 野田よしひこ (のだよしひこ) | 衆議院 千葉14区 公認候補 - 立憲民主党

自民党 石破茂 2000億円 鳥取 1区衆議院議員 - 石破しげるオフィシャルサイト | 自由民主党 衆議院議員 石破しげる 公式ホームページ

社民党 福島みずほ 2000億円 社民党 福島みずほ 参議院議員(比例区) (mizuhoto.org)

前原誠司 2000億円 前原誠司(まえはらせいじ) | 衆議院議員

須藤元気  500億円 須藤元気@江東区(@genki_sudo)さん / X

アルソック 1000億円 防犯とセキュリティ対策の会社 ALSOK(アルソック)

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世田谷さくら会 100億円 会報 | 特定非営利活動法人 世田谷さくら会 (setagaya-sakurakai.org)

烏山病院 あかね会 100億円 あかね会 | 昭和大学附属烏山病院 患者家族会 (akanekai-kazoku.com)

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つくろい東京ファンド 稲葉剛 1400億円 つくろい東京ファンド | 市民の力でセーフティネットのほころびを修繕しよう! (tsukuroi.tokyo)

山友会 1000億円 特定非営利活動法人山友会|ホームレス状態にある人がひとりではないと感じ笑顔を取り戻すために|東京都台東区 (sanyukai.or.jp)

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山田怜司 500億円 (1) 山田玲司のヤングサンデー - YouTube

 

2012年から2013年の渋谷西武百貨店内 牛兵衛草庵バイトメンバー 牛兵衛 草庵 西武渋谷店 (ギュウベエ ソウアン) - 渋谷/焼肉/ネット予約可 | 食べログ (tabelog.com)

 

三浦料理長 3億円

稲垣君 2億円  (板垣君かも 副料理長)

レンちゃん 中国人 2億円

叶くん 中国人 2億円

パクくん 韓国人 1億円

前田さん 山口県出身 5億円

小林けいごさん 5億円

石村さん (キックボクシング日本チャンピョン ウェンツ石村) 5億円

うすい店長 5億円

奥君 1億円

吉澤さん 3億円 明治大学卒

 

第一総合警備東京競馬隊 2024年バイトメンバー 第一総合警備保障株式会社 (d-s-k.co.jp)

由比さん 3億円

中田さん 3億円

桑山さん 3億円

金森さん 2億円

佐藤春平さん 4億円 

加藤さん 5000万円

井でさん 1億円 (正門A  空手家)

守谷さん 1億5000万円 (正門A)

高村さん 5000万円 (正門A)

滝沢さん 5000万円

井上公造さん 5000万円

穴沢さん 5000万円

松原さん 1億円

ひよしさん 1億円

鈴木(敏)さん 1億円(事務所門)

吉沢さん 5000万円 (機動)

大柳さん 1億円 (機動)

斎藤さん 1億5000万円

近藤さん 5000万円

熊本総隊長 4億円 

第一総合中山警備隊 篠原さん 5000万円

第一総合警備渋谷ウィンズ隊  2013年時

小阪さん 3億円

吉岡隊長 3億円

アルソックかたくり豪徳寺 4億円

2024年現在 家でお手伝いをしてくれている河治さん 3億円

                  以前のお手伝いのくまがいさん 2億円   tel  080-5547-****

                  以前のお手伝いさん 横なんとかさん 多分横田さんか横山さん

                1億円 (代田橋に住んでいる)

元フルキャストオフト後楽園隊長  石塚さん 3億円 (2015年頃)

元フルキャストオフト後楽園隊員  山下さん 2億円  (2015年頃)

家の向かいの横元さんの隣の木が生い茂っているゴミ屋敷っぽい家の持ち主(男性50歳くらい) 7億円

俺自身 10億円 


      


 

追伸 英語版翻訳権に約10兆円きちんと払ったならば、他の人がどうかは分からないが少なくとも私個人としては今までのアングロサクソンの悪行を許そうと思う。もし約10兆円払わずに翻訳したら、私としてはあの世でもアングロサクソンの不幸を強く願っているものと思ってくれていい。まぁ、払いたくなければ払わなければいいんだよ。笑

 

2024812日    橘謙信 

 

2024年8月1日木曜日

被害者意識哲学と加害者意識哲学

 

被害者意識哲学と加害者意識哲学

2024年、7月の現時点においてブリックスの西側先進国に対する勝利はもはや確定しているように思える。そのため今後世界がスタグフレーションに突入するのは確実な情勢となってきた。

デフレ克服法でも述べている通り、スタグフレーションにおける実物経済の供給過剰問題を解決するためには今ある公正政治経済システムの上に新たに中庸政治経済システムを築く必要がどうしてもある。そのため、よりよい中庸政治経済システムを確実に作るためにも中庸政治経済システムの中核となる体系哲学を明確にしておく必要が出てきたのでここで述べておきたいと思う。

中庸政治経済システムの中核となる加害者意識に基づく体系個人及び社会哲学(以下加害者意識哲学)について語る前に、今現在ある公正政治経済システムの中核である被害者意識に基づく体系個人及び社会哲学(以下被害者意識哲学)について先に説明しておくと加害者意識哲学がより分かりやすくなると思うのでまず被害者意識哲学について語る。

被害者意識哲学は基本的にキリスト教哲学なのだが、現代の極悪非道な資本主義経済の根底になる被害者意識哲学の根本的誤謬はどこにあるのかというと原罪(人は無数の生命の犠牲の上にしか存在できない罪深い存在であるということ)から目を背け続けることである。原罪から目を背けることは、自分がイノセントな存在であると思うことと同義である。

 

(図1を見る)

 

そして原罪から目を背け、自分のことをイノセントだと思うと必ず被害者意識に凝り固まる。被害者意識に凝り固まるということは自己愛(小我)に凝り固まるということと同義である。そして被害者意識に凝り固まる自分、自己愛に凝り固まる自分を肯定すると必ず人は幸せになるために生きているのだという人生観を持つようになる。人は幸せになるために生きているのだという人生観を持つと、幸せになるために何事も損得勘定で考えるようになり、また弱者の不幸は見て見ぬふりをする差別愛主義者になる。また利にさとい人になるということはケチになるということと同義であり、他人に対して不寛容になるということと同義である。このように何事も損得勘定で考え、他人に不寛容になると他人を粗末に扱うようになり、心がすさむ。またそのような人は無抑制としての自由を愛するようになる。つまり義理や人情などと言った面倒臭いことを考えず、できるだけ楽に生きたいと思うようになる。

上記のような気持でビジネスをする人はかならず自分さえよければ他人はどうなったっていいと思いながら金儲けをしようとするし、ともかく勝ちたい、儲けたいと思う(勝利主義)。また上記のような人は他人を信用できないので、必ず自由競争によって自分の短期的利を最大化することが正しいビジネス態度だと思うようになる。

また上記のような人が政治参加すると、必ずともかく自分が楽に生きられるような国家システムを作りたいと思う。つまり弱者から恒久的に搾取するシステムを作ろうとする。そして自分が上流階級になる階級社会や自分が牧場主になる人間牧場を作ることをためらわないような恥知らずとなる。

上記のような人は必ずゼロサムゲーム感覚を意識上に持つようになる。ゼロサムゲーム感覚とはどのようなものかというと、他人の損は必ず自分の得になり、他人の得は必ず自分の損となるという確信のことである。

上記のような人々によって構成された社会を支配する徳は公正さ(差別社会正義)と偽善である。

公正さとはどういう徳かというと、差別愛に基づく社会正義である。赤の他人に対する一般的敵意と傲慢さに基づく社会正義であると言っていいかもしれない。

具体的いうと公正さは対等なもの同士(つまり攻撃すると反撃してきそうな人間同士)ではお互いに対する敵意に基づく相互不干渉、相互尊重を大切にし、反撃する能力のない弱者はいじめられて、虐待、虐殺されることを肯定する徳であるともいえる。(つまり公正さは弱者が不幸になるのは致し方ない、もっと言えば弱者はいつどこで虐め殺されても当然だという徳であるということである。)現代の公正政治経済システム内では学校でいじめっ子がいじめられっ子を自殺に追い込んでも全く罪に問わないし、職場でパワハラやセクハラで上司が部下を精神障碍者にさせたり、自殺に追い込んでも全く罪に問わない。また精神病院で精神科医が精神病患者を虐待、虐殺しても罪に問わないし、情弱ながん患者に対して医者が効きもしない抗がん剤を打つことによってがん患者から金を巻き上げることも罪には問わない(罪には問わないとは警察も検察もこれらの事件には介入しないということである。)ということがそのことを証明している。

また公正な人は面倒な人間関係を嫌い(人間関係とは基本的に面倒なものだが、笑)、他人に迷惑をかけるな! という言葉を他人に投げかけ他人を委縮させ、社会を息苦しいものにする。また公正な人のモットーは他人の不幸は見て見ぬふり、というものである。

また公正さは社会の構成員全員が利己主義者で自由競争を肯定していることを前提としていて、勝った者が正しいとする価値観である。逆を言えば敗者は間違っているので正しい勝者に従順であるべきだということを強制する徳であるともいえる。

また公正な社会はどういう社会かというと勝者である上級国民や金持ちから見て都合の良い、合理的で無駄のない格差の大きい社会である。つまり敗者側から見ると下層階級からの搾取を肯定する全くゆとりのない奴隷制的社会となる。また公正な社会は個人主義の尊重と称して個々人の利己主義を肯定するから、公正な社会は客観的に見れば99%の人を不幸にする社会だが、被害者意識に凝り固まった人から見れば納得感のある社会である。

 

偽善とは現代においてどういう徳かというと、第一に生きていることに対して感謝することが大切であるとする徳である。日々の生活に感謝して生きるということは、できるだけ波風の立たない平和な人生を望み、そのような生活を手に入れたらそれを大切に思えということである。(つまり偽善という徳は天津罪を犯せという徳である。)

できるだけ波風の立たない平和な生活を大切にしろということは、自分より不幸な人々に共感したり、思いやりを持ったりしないで自分のことだけ考えて生きろということであり、正義感を持ってみんなで連帯して社会を改善しようと思ったり、悪を倒そうなどと思うなということである。(つまり偽善は暴力革命に反対し、弱者は基本的に無抵抗主義者であれ、と暗に言っている。)

つまり全体としてみれば冷たく暗いこの社会に対してマクロ的に考えず、政治的不満を持たずに、被害者意識、差別愛に凝り固まり、あくまでミクロ的考え、自分の身の回りだけ幸せにすることに集中しろというのが偽善の本質だと言える。

また第二に偽善は人を裁くな! 悪を許せ!と説く。

人を裁くな、悪を許せとはどういうことかというと悪党を暴力を使って倒そうとするなということである。つまり人を裁くなということは、危ないことをせず波風の立たない平和な人生を愛し、悪を許せということと同義であり、悪を許すということは弱い善人を助けるな、弱い善人を見殺しにしろということと同義なのである。

つまり人を裁くなとは行為によって人を裁こうとするな、ということである。行為によらない裁き、不作為による裁き、例えば自由競争で勝った悪党が弱者を冷笑することを偽善は許すし、集団で罵声を絶えず浴びせて、個人を自殺に追い込む集団ストーカー犯罪のようなことを偽善は罪に問わないということでもある。つまり偽善は憎悪、怒りを爆発させて弱者が強者に反抗し、強者を倒すことを否定し、敵意を持って強者が冗談半分でにやにや笑いながら弱者を虐め殺すことは肯定するということである。

以上が基本的に現代的偽善のすべてである。欧米などで見られる救世軍などの金持ちの寄付からなる無償の奉仕活動については基本的に現代的だとは思えないのでここでは上げないことにする。どういうことかというと、無償の奉仕活動とは人口が安定している世界でしか光り輝かない偽善だからである。

人口が安定している世界において、公正さが支配することによって格差の大きすぎる社会になった場合にそれを放置しておくと、下層階級の人々は貧困にあえいで、餓死して死んでいったり、暴力革命を起こそうとする。そうなると支配階級としても貴重な労働力が減少するし、暴力革命によって自らの命が危うくなったりして色々と都合が悪くなる。それを防いで、下層階級の人々を生かさず殺さずの状態に置くために救世軍などの無償の奉仕活動という偽善が存在するということである。つまり現代世界は人口爆発によって労働力はあり余っているので、支配階級としては下層階級は労働力として使いつぶした後、野垂れ死にさせるのが基本政策であり、かつ暴力革命を起こそうとする下層階級をテロリストとして射殺することは先進国では上級国民だけでなく中産階級も同意しているので、今でも救世軍などの無償の奉仕活動は一応あるが、その存在意義はただのガス抜きと反体制派のあぶり出しに使われているだけで社会的にあまり大きな意味をなさないからここでは無償の奉仕活動を主要な偽善としては取り上げないということである。

 

上記のように公正さと偽善が公正政治経済システム支配しているのだが、その上には普段は隠れていてあまり見れないが純粋悪というものが君臨している。純粋悪とはどういうものかというと弱者を虐待、虐殺する喜びそのものと言っていいかもしれない。具体例としてはエプスタイン島における小児性愛や学校で強者が集団になって弱者を虐め殺したり、職場でパワハラやセクハラによって部下を自殺に追い込んだりする時に感じる傲慢な喜びのことを純粋悪と言っていいだろう。

総じていうと、被害者意識哲学は原罪をきちんと見つめないで、被害者意識に凝り固まる自分を自己正当化に自己正当化を重ねることによって作られる。最終的に被害者意識哲学を本質とする社会では公正さという徳が被害者意識に凝り固まった人々に納得感がを与えるが人々から心のゆとり、心の余裕を奪い、偽善という徳が人々に無力感を植え付け、純粋悪が君臨することによって人々は恐怖に支配されることとなる。被害者意識哲学はどう見ても悪しきものにしか思えないが、ただ被害者意識哲学、キリスト教哲学は金本位制などのゼロサムゲーム経済、金融緩和時の不換紙幣経済によく適応した哲学と言えるかもしれない。

 

それに対して加害者意識哲学はどのようなものかというと、加害者意識哲学は被害者意識哲学とはすべて真逆となる。まず加害者意識哲学は原罪(食物連鎖)から目を背けない。

 

(図2を見る)



原罪から目を背けないで生きると、きちんと加害者意識を持って生きることになる。きちんと加害者意識を持って生きることは人を真面目にさせる。またきちんと加害者意識を持って生きれば、できれば原罪を償いたいという気持ちにさせる。その原罪を償いたいという気持ちが生きんとする意志と融合し昇華して美しく生きたいという気持ちを生じさせる。そして美しく生きたいという気持ちは他人を幸せにするために生きたいとか自分の人格をもっと成長、成熟、完成させたいと思う気持ちになる。つまり美しく生きたいという気持ちは自分の心の中の志、向上心(自分の大我)を尊重するということと同義なのである。(被害者意識に凝り固まった人はどうしても自分の中の美しく生きたいという気持ち(大我)を馬鹿にしてしまう)。自分の中の美しく生きたいという気持ち、自らの大我(無差別愛)を尊重できるから、他人を尊重でき、他人に思いやりを持てる。また向上心を持てるから克己心という意志を持てる。他人を尊重できるから、他人を大切にでき、克己心を持つから自らを律することを愛することができるようになり、心が健全になる(自らの小我を自由意思によって律するという自由を愛せるということ)。

上記のような気持でビジネスをする人は相手(ビジネスパートナー)を信頼して自分の長期的利を最大化しようと思うし、全体の利を最大化して相手とウィンウィンの関係(共存共栄の関係)を築けるという健全な期待を持つ。

また上記のような人が政治参加すると、必ずみんなで切磋琢磨しあってよりよい国を作りたいと思う。つまり格差が小さく、活気があってかつ息苦しくない心のゆとりを持てる社会を作りたいと思う。

上記のような人は必ず共同体感覚を意識化できる。つまりお互い様とかおかげ様とかを自然に身に付け、態度と行動で示せるということである。

上記のような人々によって構成された社会を支配する徳は正義(無差別社会正義)と中庸である。

正義とはどういう徳かというと、無差別愛に基づく社会正義である。(悪への、許せないものへの)憎悪と正義感に基づく社会正義であると言ってもいいかもしれない。

具体的に言うと新しくできる中庸政治経済システム内においてはいじめられっ子や障碍者に対するいじめや自殺に追い込む行為を犯罪として処罰することはもちろん、いじめられっ子や障碍者、パワハラにあった若者やそれを目撃していた第三者は基本的に返り討ちにして相手をナイフで刺し殺したとしても罪を問わない、もっと言えばそれを正しい行為とされるということである。

公正さが弱者が不幸になるのは致し方ない、もっといえば弱者はいつどこで虐め殺されても当然だとするなら、正義は弱者は不幸になる必要はない。クズは不幸になれ! と言い、他人から死ぬほど恨まれているようなやつはいつどこで殺されても当然だとするということである。弱者に同情する心と弱者をいじめる悪党を憎む心は表裏一体なのである。

公正政治経済システムにおいては、偽善が人を裁くな、つまり直接的、作為によって人を裁くことを禁じ、人をいじめて自殺に追い込むような間接的、不作為による殺人は肯定していたが、中庸政治経済システムにおいては、相手が殺したいほどのクズなら基本的に作為による行動によって直接的に殺すことを肯定するというわけである。(ただ相手を殺した後、警察が来た時に相手が殺されて当然な悪党であったという証明、もしくは周囲の人の証言はある程度必要になる。けれどもいじめられっ子がいじめっ子にナイフで襲い掛かった時、いじめっ子がさらに返り討ちにした場合は普通に正当防衛としてそのいじめっこは無罪になるのは致し方ないとは私も思っている。)

公正政治経済システムは無抵抗主義を推奨したが、中庸政治経済システムは暴力で物事を解決することをある程度是認するということである。暴力とは非階級的な力であり、暴力革命の恐怖は社会内の格差を小さくさせるし、正当な理由による怨恨殺人、正義感による殺人を合法化するという恐怖は社会を浄化させるという認識を持つということである。

つまり公正さは公正政治経済システムを常に腐敗させるのに対して、正義は中庸政治経済システムを常に浄化させる。

 

中庸とはどういう徳かというと、相互扶助と兼愛交利と談合(話し合い)と切磋琢磨を大切にする徳である。中庸は相互扶助を愛しているからクズやフリーライダーを積極的に憎み排除する。その手段として切磋琢磨というお互いを向上しあうような競争をビジネスにおいてし、クズやフリーライダーが居場所のない社会を作るということを中庸は推奨するということである。またクズやフリーライダーを排除する時に波風は必ず立つので、人生において波風がそれなりに立つことを恐れない人(天津罪を犯さない人)しか中庸政治経済システムに入れないということでもある。また公正政治経済システムにおいては自由競争(つぶしあい)に勝った人が正しいとされたが、中庸政治経済システムにおいては切磋琢磨に勝った人が正しいとする。ただ談合(話し合い)の結果も切磋琢磨で勝った人の意見と同じくらい中庸政治経済システムは大切にする。また公正政治経済システムは基本的に神の見えざる手を信じて誰も責任を取らない社会だが、中庸政治経済システムは誰もが社会に対して責任を取ることを恐れない社会である。

 

正義が無差別愛に基づく社会正義なら、正義を愛する政府が国民に対して財源のことなど気にしないで無責任に自らの善意を表現すべきではないのかと思う読者も多いことだと思うのでここでそれについて詳細説明をしておきたいと思う。

この問題は具体的には善良な弱者である在日朝鮮人やエタ、皇族などが働かずに贅沢して暮らしていくために、財源が尽きるまでもっともっと在日朝鮮人やエタ、皇族にさまざまな特権を与えたり、彼らを行政が優遇すべきではないかという問題である。

(そもそもまず在日朝鮮人やエタ、皇族は決して善良な弱者などではなく閨閥により一体化した日本DS、日本の寄生虫、日本の悪の中核なので、正義は無差別愛と表裏一体の悪への憎悪に基づく社会正義なので日本DSという悪党の集団を優遇したり、彼らに特権を与えたりするのは正義に反するということになる。

また悪党である日本DSのメンバーを更生させるために在日朝鮮人やエタ、皇族を優遇すべきではないかという人道的な意見に対する反論としては、今までの人生を振り返って一度でも悪党が更生したのをみたことがあるのか? という常識的質問だけで十分であろうが、もし仮に悪党を一人更生させるために例えば1000万円かかるとするならば、さっさとその悪党を死刑にするか、永久国外追放するかして、浮いた金で国内のシングルマザーや発展途上国の子供たちなど本当の意味での善良な弱者を一人でも多く助けようとすることが無差別愛に基づく正義なのであるということである。

だがしかし、まだ現時点では在日朝鮮人やエタ、皇族が日本DSであり、日本の悪の中核であることは完全証明されていないので在日朝鮮人やエタ、皇族が本当に善良な弱者の集団だと仮定してとりあえず考えたいと思う。)

政府が国民に対して財源のことなど気にしないで自らの善意を表現すべきではないのかという意見に対しては、そんなことを本当に実行したらすぐ財政破綻して国民全員が塗炭の苦しみを味あわなければならなくなる。確かに我が主著「共同生活」で灰原が主張している通り、私は個人道徳としての正義は無差別愛、他人への思いやりを圧縮して、知性化したものであると私は思っているが、社会道徳の正義は中庸と同じく共同体感覚に基づくものなので、全体の利への配慮のあり、怜悧さのある持続可能な善意でなければならないと思っている(個人道徳と社会道徳の異同については次の章で詳しく語る)。

 

公正さ、偽善と中庸、正義を比較してみると以下の表のようになる。




(2枚目の写真を削除したいけど、できないので削除しないで新しい写真を張ります。
   一行増えただけです。)


 

中庸と正義(無差別社会正義)が中庸政治経済システムを支配しているが、その上には純粋善というものが君臨している。純粋善とはどういうものかというと他者に与える喜びそのものと言っていいかもしれない。具体的に言えば寛厚(全体の利への配慮のある親切)も与える喜びの一種だし、より良い世界を作るため、みんなの幸せのためにコストパフォーマンスを度外視して一生懸命労働することも与える喜びの一種と言える。

総じて言うと、加害者意識哲学は加害者意識から生じる美しく生きたいという気持ちをぐんぐんと成長させることによって作られる。最終的に中庸政治経済システムにおいて中庸(相互扶助、兼愛交利、切磋琢磨、談合)が社会を明るく温かくし、正義(悪への憎悪)が社会を浄化し、かつ社会をいつも若々しく、エネルギィッシュにし、純粋善の与える喜びが君臨することにより社会を開放的な息苦しくないものになる。

加害者意識哲学に基づく中庸政治経済システムはとてつもなく理想的でとても実現できそうにないと思う読者もいるかもしれないが、加害者意識哲学はスタグフレーション時の不換紙幣経済によく適応している経済であるし、また加害者意識哲学はただ人々が原罪から目を背けないで加害者意識をきちんと持てば基本的にはあとは自然に成長していくので中庸政治経済システムはそれほど達成困難な社会ではないと私は確信している。また客観的に見ても、もし中庸政治経済システムを作れなければ人類は早晩史上最大のスタグフレーション世界大恐慌からの世界大戦による滅亡は避けられないので、達成しようと試みるしか他に道はないと思われる。

 

 

 

2024年6月10日月曜日

西洋諸国の徳による統治システムについての私見

 

西側諸国の徳による統治システムについての私見

西側諸国の非公式の統治システムについてちょっとひらめいたのでメモしておく。

まず前提認識として西側諸国の政治は上級国民が半永久的に上級国民であることを最大の目的として行われている。その手段として西側諸国は公正さと偽善という悪徳によって民衆を統治している、という共通理解のもとに以下の説明をする。

 

公正さという徳は666のハンドサインで有名なフリーメイソンが担当し、偽善はバチカンが担当している。

公正さという徳がどういう徳か、偽善という徳がどういう徳かというと、中核信念 橘謙信公式ブログ : 寛厚と公正さについて 1 (kensintachibana.blogspot.com)

中核信念 橘謙信公式ブログ : デフレ克服法 1 (kensintachibana.blogspot.com)というエッセイにすでにある程度書かれていると思うが、いまから34か月以内にそれについて改めてエッセイを書いてアップしようと思っている。

とりあえず、ここでは公正さとは、どんな凡人でも認識できるような客観的基準から見て優秀なものを正しいという意味で考えてくれればいいと思う。つまり公正な基準(どんな凡人でも認識できるような客観的基準)において実力のある優秀な人とは金持ちと高学歴エリートということになり、公正な統治方法とは金持ちと学歴エリートによる統治ということになる。

また公正さが目指す実力主義的な社会とは金持ちと学歴エリートが君臨する格差の大きな社会であり、公正さは弱肉強食を肯定するので、当然先進国が発展途上国を搾取することを肯定する。逆に言えば格差の小さい相互扶助社会やお互いを尊重し共存共栄を目指す国際関係を公正さは否定する。

また公正さは各自が自分の利を最大化しようとする欲望、利己主義を前提として正当化しているので、公正さという徳を突き詰めると奪い合う社会、騙しあう社会を肯定することに必ずなる。(逆から言えば信用社会は公正な社会ではないということである。)

つまり公正さという徳を極端に突き詰め正当化しようとすると、必ず悪を肯定することとなり、宗教的になると悪魔崇拝になる。

つまり公正さの極限、フリーメイソンのトップが現在のガザでのジェノサイドを命令しているし、第二次世界大戦時のナチスドイツのユダヤ人ジェノサイドも命令していたし、植民地時代アフリカやアメリカ大陸で原住民の虐殺を命令した主体だと考えてほぼ間違いないであろう。

 

フリーメイソンは表向き実力主義、つまり公正さを至上価値とする団体であるが、フリーメイソンが誰によって何の目的で設立されたかというと、もちろん上級国民によって、上級国民(金持ち)が半永久的に上級国民であり続ける世の中を維持することを目的として、そのための手段として自分たちに忠誠を誓う学歴エリートを養成する目的のために作られた。

ここでフリーメイソンという組織がどういったシステムかよく知らない人のために、フリーメイソンのシステムについて簡単に述べておく。

日本でも有名進学高校や有名大学で学年の12位を争うような優等生にはフリーメイソンに入会しませんかという誘いがフリーメイソンの方から来る。フリーメイソンに入会して、上級国民に忠誠を誓うと、その優等生はその後の人生において高級官僚や一流会社の会社員になった時、さまざまな局面で上級国民から口添えをしてもらうことにより、人並みの実務能力を持っていれば極めて順調に出世しやすくなる。その出世の見返りとしてそのフリーメイソンに入会した学歴エリートは自分が国家の重要官僚や一流企業の重役となった時は、上級国民の利権や、上級国民が庶民を搾取するシステムの維持に全面的に協力する。要するに上級国民(金持ち)と学歴エリートの相互扶助システムがフリーメイソンというシステムであるといっていいだろう。

日本にもフリーメイソンは存在するが、基本的には日本では創価学会が準フリーメイソンシステムとしてある。ちなみに日本では創価学会員やフリーメイソンの学歴エリートの上に君臨している上級国民は皇族や明治維新の元勲と呼ばれるエタ侍の子孫であると思われる。

公正さ(能力主義、エリート主義)という価値観は相互扶助や共存共栄に比べて確かに被害者意識に凝り固まった人には理性的に納得感はあるが、普通の庶民は直感的に不信感を持つので普通の庶民は学歴エリートや上級国民に反感を抱くのは当然の感情といえる。

その庶民の当然の感情を反体制運動という行動に移させないためにバチカンという偽善が存在する。

バチカンは庶民に敵を愛せ、敵を許せときれいごとを言う。そして今の自分の生活に日々感謝しながら生きることが大切だと言う。バチカンの言うことを真に受けた庶民は無抵抗主義こそ正義だと信じ、日々の生活に感謝することによって自分の心の中の良心の反映である加害者意識から目を背け、小我を許すことを正しいことだと思うようになる。

また加害者意識から目を背けた結果、被害者意識に凝り固まった庶民はともかく平和で波風の立たない人生を望むようになり、危険を顧みず正義感を持って悪を憎んで生きることは愚かなことだと思うようになる。つまり善人の沈黙をするようになる。

マーティン・ルーサー・キングも善人の沈黙は悪人の圧政や残虐さの隠れた同罪者であると言っているし、古代日本でもともかく波風の立たない平和な人生を望むことは天津罪を犯しているとされていたように表面できれいごとを言いながら悪を許し、ともかく波風の立たない平和な人生を望むこと、つまり偽善をなすということは悪の一種なのであるが、バチカンはともかく偽善を宗教的に飾り立てて庶民を偽善者にしようと誘惑する。

また敵を愛せ、悪党を許せ、今の生活に感謝しろということは、被害者意識に凝り固まり、無気力になれ! 無気力になれない人間は被害者意識に凝り固まり公正さ、実力主義を愛せ!ということなのである。

 

このように公正さと偽善という二つの悪徳により西側諸国は統治されている。

 

偽善を司るバチカンのトップはローマ教皇で間違いないのだが、フリーメイソンのトップは誰かということが第三次世界大戦を終結させるうえで今、問題となっている。フリーメイソンのトップはネットではルシファーとされていて、ルシファーが公正さを司る悪魔なら確かにそれできれいにフリーメイソンシステムを説明できるが、トップがただの公正さという概念であり、空席だとするならば組織として機能しないのでやはり実質的には人間のトップがいると考えていいであろう。それが誰なのかというと、やはり欧米の最大の権力者であり、上級国民であるローマ教皇であると考えるのが一番自然であろう。

ローマ帝国が滅亡し、欧州の最高権力者を人間ではなく、表向き空席としたことによって公正さという悪徳が歯止めが利かなくなり、上級国民が半永久的に上級国民であるためにはいかなる残虐行為を許されるとしたことが白人が悪魔ようになった最大の原因なのだろう。植民地時代アフリカやアメリカ大陸で原住民を虐殺することやナチスドイツやイスラエルがジェノサイドを起こすことを命令した黒幕がローマ教皇だったと考えると、ナチスドイツのヒトラーやイスラエルのネタニヤフが公然とジェノサイドという国家犯罪を犯した動機も説明がつく。つまりナチスドイツのヒトラーもイスラエルのネタニヤフもローマ教皇の命令に背くことは、欧米で民族として存続していくためにはどうしてもできないと判断したから、ジェノサイドという国家犯罪を犯したということである。

 

 


2024年5月23日木曜日

イスラエルについて

 

イスラエルについて

 現在のイスラエルの状況について色々と考え見たのでメモしておく。

 2024520日現在、イスラエルは第二次世界大戦末期のナチスドイツと同じような四面楚歌の状況に陥っている。イスラエルのラファ作戦は頼みの米国にも非難され、完全に梯子を外されている。

 ナチスドイツはなぜ勃興したのかというと、第一次世界大戦の巨額の賠償金で苦しんでいたドイツに英米の資本家が投資したからであり、イスラエルがなぜ建国でき、その後発展できたかというと英米の資本家が投資したからである。つまりナチスドイツもイスラエルも英米の傀儡国家なのだが、ナチスドイツのヒトラーが最後に自殺して、第二次世界大戦のすべての悪の根源として責任を取らされナチスドイツが消滅したように、イスラエルのネタニヤフもこのままいけば自殺して、第三次世界大戦の悪の根源はすべてシオニズムイスラエルににあるとされ国家消滅されそうになっている。Xでも毎日のようにイスラエルのユダヤ人と自称している人間がパレスチナ人を侮辱、虐待する動画がアップされ、世界中の庶民の憎悪をなんとかユダヤ人に集めようと英米の資本家がやっきになっている。

 確かにナチスドイツのユダヤ人に対するジェノサイドや今のイスラエル人のパレスチナ人に対するジェノサイドはおそらく本当に起こっているのであろうが、どう考えてもドイツ人やユダヤ人が自由意志で行ったとは考えにくい。

 そこでまず大恐慌から第二次世界大戦までの流れを経済学的に説明することにより、現在の第三次世界大戦で一体何が本当に起こっているのかを推測しようと思う。

 1929年から世界大恐慌が始まる。1933年にアメリカが金本位制を停止して、金融緩和することにより大恐慌を克服しようとする。ここで世界各国で通貨切り下げ競争が起こる。そして通貨切り下げ競争(近隣窮乏化政策)に勝った日本とソ連とドイツがもし第二次世界大戦が起きず、世界的デフレが続いたのなら相対的に繫栄し、英米仏が衰退することが経済学的に1930年代後半には見えてきた。

 それを避けるために英米は何としても戦争を起こして、日本とドイツとソ連の工業地帯を焼け野原にすることによって世界大恐慌による世界的デフレを克服しようとした。

 英米は傀儡国家ドイツと中国国民党蒋介石を使い、日本とソ連を第二次世界大戦に引きずり込んだ。これが経済学的に見た大恐慌から第二次世界大戦までの真相である。第二次世界大戦を日本とドイツによる侵略戦争とするのは英米の流したプロパガンダである。なぜなら英米には第二次世界大戦を起こす戦争動機があり、日本とソ連とドイツには第二次世界大戦を起こす戦争動機は経済学的に見てなかったからである。そして英米仏の戦争目的は日本とソ連の工業地帯を焼け野原にすることだった。傀儡国家ドイツは上述している通り、英米からの投資により繁栄しているので英米に逆らえずソ連を攻撃したのであり、中国国民党蒋介石政権は第二次世界大戦の英米の勝利の後は、東アジアの英米の代理人、中間搾取国に中国がなることを条件として、日本を日中戦争に引きずり込んだのだと思われる。

 なぜ英米がこんな大掛かりな仕掛けをしてまで第二次世界大戦を引き起こしたかというと、世界大恐慌を軍事力によって克服しなければ、白人先進国が有色人種の植民地を半永久的に搾取する金本位制というシステムが完全瓦解してしまうからである。(金本位制が先進国が発展途上国を半永久的に搾取するシステムであるということの詳細を知りたい方はこちらをお読みください。中核信念 橘謙信公式ブログ : 1 2023 (kensintachibana.blogspot.com)

 

経済学的に言えば、世界大恐慌つまり世界的デフレは実物経済が供給過剰になり、自由競争が切磋琢磨からつぶしあいが主流になったことによって起きる。そのため世界大恐慌を根本的に克服するには各国が生産調整をする世界的談合によることがもっとも平和的な解決策となる。しかし世界大恐慌を世界的談合により解決するということは白人先進国が有色人種の植民地を半永久的に搾取システムを完全破壊することになってしまうためにそうはせず、白人先進国が半永久的に先進国として豊かに暮らすことを目的として英米が第二次世界大戦を起こし、日本とソ連の工業地帯を焼け野原にしようとしたということは押さえておきたいポイントである。

 

第二次世界大戦の結果はどうだったかというと、日本の工業地帯は計画通り焼け野原にできたが、英米が全面的にバックアップしたナチスドイツはソ連にまさかの敗北を喫したため、ソ連の工業地帯は焼け野原にはできなかった。仕方がないので英米はその代わりに用済みになったドイツの工業地帯ドレスデンをイギリス軍を使って爆撃して焼け野原にした。

また英米の予想外の出来事としては日本がアジアの独立運動に火をつけて第二次大戦後アジアで多数の欧米の植民地だった地域が独立したことと、中国国民党の蒋介石は中国共産党の毛沢東に国共内戦で負けたため大陸中国は英米の代理人としての中間搾取国にはならなかったので大陸中国を欧米の準植民地にすることができなかったことである。

このことから見て第二次世界大戦は英米の辛勝といったところが妥当な見方であろう。

また今から考えれば、ナチスドイツがなぜ英米の命令通り、独ソ不可侵条約を破ってロシアと戦ったり、ユダヤ人ジェノサイドをしたのかというと、おそらく英米の命令に従わなければドイツ人民族の滅亡にかかわるような脅迫をされていたからであろう。どのような脅迫を英米からされていたのかというと、もし命令通り動かなければ、今後一切未来永劫他の欧米白人諸国はドイツから何も買わないし、ドイツに何も売らないと言われていた可能性が一番高い。(日本にはアジアと商取引できるので致命傷とはならなかったが日本も第二次世界大戦時に一応英米に実際やられていた。)1930年代のころは世界のほとんどは欧米の植民地だったため、これをやられると植民地を持たないドイツは石油もその他の資源も一切入らなくなるためドイツ人としては民族の存亡の危機となると判断したのだろう。

しかし、欧米では個人に対する迫害方法として集団ストーカーをして精神病を発病させて、精神病院に強制入院させて向精神薬で廃人にするという常軌をきっした国家犯罪が第二次世界大戦前から行われていたことから類推して、それと同じような対国家バージョンのなんらかの大掛かりな迫害方法が他にある可能性はけっこうあるし、現代においてもエプスタイン島で児童を虐待、虐殺することで白人支配層の個々人の団結を確認していたように、ジェノサイドという国家犯罪を起こすことが、ドイツにとって他の白人諸国に忠誠を誓う国家儀式である可能性も捨てがたい。(そう考えると植民地時代欧米諸国がアメリカ大陸、アフリカ大陸、アジアをただ植民地にするだけでなく、ネイティブアメリカンやアフリカ人、インド人を気が狂ったように虐待虐殺した理由も納得がいく)。

以上のような第二次世界大戦周辺の流れを押さえたうえで今起こっている第三次世界大戦を経済学的に説明してみようと思う。

今現在、世界経済においては世界的スタグフレーションが始まりかけている。金本位制の世界ではデフレによる世界大恐慌が白人先進国の有色人種を搾取するシステムにひびをいれる出来事ように、不換紙幣世界では先進国が金融緩和できなくなり、世界的スタグフレーションが起こることが白人先進国が有色人種を搾取するシステムにひびが入る出来事になる。(詳しくはこちらを読んでください。中核信念 橘謙信公式ブログ : 1月 2023 (kensintachibana.blogspot.com)

 

 そのひびを修復するために白人西側諸国は世界の他の国に金本位制の再導入をする必要と軍事力によって中国と東南アジアの工業地帯を焼け野原にする必要に迫られた。金本位制を再導入するためにロシアをスイフトから締め出して、世界の発展途上国政府に不換紙幣通貨システムに不信を抱かせ金本位制を望むようにさせたり、中国を台湾有事に誘い込むためにウクライナとロシアとの間で戦争を生じさせた。(今起こっているウクライナ戦争はわざとウクライナとそのバックのNATO欧米諸国がロシアに負けるところを見せて、中国に台湾を攻めさせようとするための撒き餌だったと思われる。ウクライナのゼレンスキーは第二次世界大戦の蒋介石と同じように西側がロシアに勝ったらウクライナを東欧圏の中間搾取国とさせてやるとでも言われていたのだろう。)

 だが、残念ながら中国もロシアも他の発展途上国も欧米の手の内が分かっているらしく、金本位制を拒否し、かつ中国が台湾に攻め込むこともなかったので欧米の敗北は現時点でもう確定している。そこで欧米諸国は傀儡国家イスラエルにガザでジェノサイドをさせて、すべての発展途上国の憎悪をイスラエルに向けさせ、第三次世界大戦の敗戦責任をイスラエルに全部取らせようと今企んでいると推測される。(欧米の傀儡国家イスラエルが第二次世界大戦時の欧米の傀儡国家ナチスドイツみたいな悪役を割り当てられているということである。おそらくドレスデンの空爆に倣って、西側のどこかの白人先進国によるテルアビブ爆撃は秒読みの段階に入っているものと思われる。)

 ここまで読んで本当に欧米白人支配層がそこまで性格が悪いか疑問に思っている人がいるかもしれないので、それについて話はちょっと脱線するが説明しておく。

 ギリシャ時代から欧州では金貨や銀貨が使われていて広義の意味での金本位制だった。不換紙幣経済のエッセンスはミクロ経済においてもマクロ経済においても他人が得することは全体が得することである。つまりマネーは天下の周りものという格言がある通り、他人に得させることは間接的に自分にも得させることになるということがエッセンスなのである。だが、金本位制においては基本的にゼロサムゲームなので、確かにミクロ経済においては他人に得させない限り金持ちになることはできないのだが(おいしいパンを作って他人を幸せにするパン屋でなければ、パン屋として繁盛しないし、お金も儲からないということ)、マクロ経済的な視点から見ると他人に損させない限り自分のマネー(ゴールド)が増えないことがエッセンスとなる。つまりマクロ経済的に見れば他人の損は自分の得に必ずなるということが広義の意味での金本位制のエッセンスなのである。

 そのエッセンスを応用することにより、欧米の金本位制下では上級国民が半永久的に上級国民であり続ける必勝法が少なくとも中世から存在していた。どういう必勝法かというと例えば欧州域内にAという国家とBという国家だけが存在するとしてA国とB国の上級国民同士は縁戚関係にあったとする。この場合においてA国とB国の上級国民同士が陰で結託しながらも表面上は敵対しあって軍拡競争したり、実際に小競り合い程度の戦争を定期的にA国とB国の間でしたりしてA国とB国の一般庶民に重税をかけたりして損害を与えることによって、A国、Bそれぞれの上級国民は得することができるので(庶民の損は必ず上級国民の得になるから)、A国とB国の上級国民はそれぞれ半永久的にA国、B国において上級国民として君臨することができるというものである。確かにこれをするとA国、B国双方ともに全体の利を最大化することができなくなり、A国、B国ともにより豊かになることを阻害するが、A国、B国の全体の利を最大化よりも自分たち上級国民が半永久的にA国、B国それぞれにおいて上級国民として君臨するを優先することが、この必勝法の中核的価値基準である。要するにA国とB国の上級国民としては表面上はA国、B国の庶民に恨まれないようにいい君主として民の幸福を願うと言いながらも、実際の行動では常に自国の民の不幸にし、損害を与えようと試みることを統治の基本原則とするということである。おそらく欧米にあると言われる帝王学というものはこの統治原則について詳しく書かれているものなので一般庶民には決して公開されないのであろう。

 以上の必勝法を欧州の支配層、上級国民が少なくとも中世以降ずっとやってきたことは、欧州内諸国が中世以来ずっと近隣諸国と小競り合いを繰り返していた歴史を少しでも知っている人は疑いを持たないであろう。(バランスオブパワーという軍事戦略は、金本位制下において上級国民が半永久的に上級国民であり続けるために軍拡競争を正当化するための後付け理論であると思われる。また現代アメリカでも金本位制下と同じように巨大な軍事費や宇宙開発費を計上して庶民を苦しめている理由は(不換紙幣経済下においてそれは確実にアメリカを衰退させる行為だが)、どうしても政府が昔からの上級国民の利権を潰すことが政治的にできないものだからだと思われる。)

 上記の通り、少なくとも中世以降800年以上は欧米の支配層、上級国民は極悪非道だったし、植民地時代以降の欧米の有色人種に対する極悪非道な行いを見ても欧米白人支配層は極悪なのは歴史的に見れば明らかである。問題は今現在の欧米の支配層も極悪非道なのか否かということなのだが、それについて確実な事実に知っている人でかつ自供しそうな人はイスラエルのネタニヤフであろう。

 80年前、ナチスドイツにジェノサイドをさせるためにどのような脅迫がされていたかということと、ナチスドイツのジェノサイドの本当の黒幕は誰だったかということはヒトラーの自殺とナチスドイツの国家消滅によりうやむやにされてしまった。それにより欧米の植民地時代からの有色人種に対するジェノサイドの本当の黒幕が誰だったのかということがうやむやにされたままだったが、今、同様のジェノサイドをしているイスラエルのネタニヤフをなんとか自供させることに成功すれば、50%くらいの確率で極悪非道な欧米の真の悪の中核、真の黒幕がどこなのか分かり、かつ欧米の上級国民が持つ権力の道徳的正統性を崩壊させて、欧米の上級国民を二度と悪事ができないように地獄に落とすことができるかもしれないということである。(この機を逃せば多分永久に本当の真相は分からなくなるので、今がラストチャンスということでもある。またそれが分かれば今現在、コロナワクチンの副作用ということにして、故意に全世界の多くの市民を死傷させている本当の黒幕も分かるであろう)

 ネタニヤフから自供を引き出すにはユダヤ人の身の安全を確実に保証しなければならないので、イスラエルだけでなく欧米に住んでいるユダヤ人も希望する者には有色人種圏内に移住し、生計を立てる道をある程度保証しなければならないので(ネタニヤフが自供したら、欧米に住んでいるユダヤ人は生き地獄を味あわされた後、なぶり殺しにされる可能性が極めて高いので)極めて難しい課題だが、私としてはなんとしてでもやって、世の中を祓い清めてから新時代を切り開いていくべきだと思っている。

 

 中世の欧州における広義の金本位制による搾取も植民地時代の有色人種への搾取、虐殺も敵国の工業地帯を焼け野原にさせることを戦争目的とする第二次世界大戦、第三次世界大戦もコロナワクチンにより人類の免疫力を意図的に低下させて儲けようとする医療ビジネスも、共通していることは相手に損害を与えることによって自分が得をしよう、楽に生きよう、未来永劫上級国民が上級国民であり続けようという意志である。

 他人の犠牲の上に自分が半永久的に上級国民として君臨しようと自由意思において知恵の限りを尽くすこと、つまり知性化された悪はこれほどまでに科学が発展している現代においては人類の存亡を極めて脅かすものであるから否定すべきであることに誰も異存はないであろう。

 確かに経営者や企業人の仕事は、いかにして楽して継続的に金儲けをするビジネスモデルを構築するかを考えることであるが、それはあくまで他人に得をさせながら、他人に幸せを与えながら自分が豊かになるビジネスモデルでなければならないのである。

 もう二度と少なくとも人類の存亡に関わるような戦争を起こさないためには、上級国民が上級国民であるために先進国が発展途上国を半永久的に搾取したり、資本家やエリート、上級国民が一般市民を半永久的に搾取したりするシステム、ビジネスモデルは決して許してはいけないのである。

 自分の重荷を他人に背負わせて楽して生きようとするクズは不幸になれ! とみんなが願うほど人類が健全な魂を持つことが望まれる。

 

 

2024年5月17日金曜日

統合失調症患者の目指すべきゴール

 

統合失調症患者の目指すべきゴール

統合失調症を発症して、なにはともあれ急性期を切り抜けて精神的に落ち着いてきた人がいろいろと試行錯誤しながら自分なりに自然治癒力を高めて回復しようとするとき、自分が日々回復しているか回復していないのかが分かる基準を見つけようと思うことだろう。また統合失調症が回復するとはどういうことなのという定義について知りたいと思うことだろう。

まず回復のゴールを病前の健康だったころに戻ることだとするならばそれは到底無理だと誰もが直感的に分かるであろう。またもし病前の精神状態に戻れたとしてもその精神状態はまたすぐ統合失調症を再発しやすい危うい精神状態であるから冷静に考えれば誰もそのような精神状態には戻りたいとも思わないはずである。

しかし多くの患者はあまり深く考えずとりあえず社会復帰してフルタイムで働いて、人並みに稼ぐことを目標として日々リハビリに励んでいる。が、それははっきり言って賢明な目標とはいえない。なぜなら肉体労働だったら45歳くらいまで、デスクワークだったら50歳くらいまでなら確かに週40時間フルタイムで働けるかもしれないがそのくらいになると向精神薬の副作用と老化現象の相乗効果により体が疲れやすく、かつ疲労を回復するための時間が長時間必要になっていきフルタイムでは働けなくなっていくからである。私自身、45歳くらいまで週30時間くらいブルーカラーとして働いていたが、45歳くらいから体が疲れやすくて週20時間くらいに減らさざるを得なくなって、今51歳で週に一日9時間労働しか働いていない。確かにもっと命をかけて働くならまだ週に20時間くらい働けるかもしれないが、後述するように過労は統合失調症を極めて再発させやすくなる要因の一つなので、そこまでのリスクを冒してまで人並みに稼ぎというものに執着するのは客観的に見て賢明な判断とは言えないだろう。

また人並みに稼ぐ人生とは基本的に正社員として、フルタイムで定年まで働いてきっちり退職金までもらうことでようやく完成する人生のことだが、統合失調症から回復した人でそんな人生を送れるスタミナを持つ人は千人に一人もいないのでやはりそういう人生を目指そうと思うことは早めに諦めたほうがいいだろう。確かに人並みにフルタイムで働き、人並みの稼ぎを得るということは、統合失調症を発症して障碍者となってボロボロになった自尊心を回復させる手段としては一番簡単で、一番安易な方法に見えるし、自尊心を回復させることと統合失調症を治すことはほとんど同じことだとはいえる。しかし、冷静に自分自身のスタミナのなさ、ストレスに対する弱さ、疲労から回復するために要する時間を考えて、どう考えても少なくともサラリーマンとして人並みの稼ぎを得ようとすることは不可能なことに早めに気づくべきである。短時間バイトを健常者と対等に肩を並べてすることは私も自尊心を回復させるために推奨するが、それだけでは回復できない自尊心は、私見としては後述するようにこまめにメモを取ることによって丁寧に日常生活を送ったり、近所のごみ集積所の掃除などの利他行為をしながら金にはならないけれど自分に誇りを持てる生活をすることによって回復させるべきだと思っている。つまり人並みの給料を得られなくても、自分の弱さを自覚しながらも、ともかく粘り強くこつこつと自分の人生をセルフコントロールし、人間的に成熟しようと努力していると自尊心は回復するということである。

また人並みに稼いで人並みの幸せを手に入れられれば、確かに自尊心を回復させることはできるかもしれないが、人並みに幸せになりたいという執着は一方では統合失調症の認知機能障害を完全回復させるための最大の障害となるので、そういう意味でもフルタイムで働くことを回復の目標とすることはおすすめできない。

ではどういった状態になることを統合失調症の治療のとりあえずのゴールとすべきかというと、今現在あなたは統合失調症回復期初期に状態において、途方にくれていて、かつなにかに抑圧されていて頭がうまく働かないような状態になっているとおもうが、その状態が解消されて、明るく朗らかな気持ちになって、かつ抑圧感から解放されて頭が病前以上に冴えるような状態になることをゴールとすればいいのである。

また良心的精神科医の代表ともいえる中井久夫も、貧しくても暇な時間がたっぷりあって余裕感の中で憩う統合失調症を完全寛解した人は健常者よりも幸せそうに見えると言っているが、私自身、統合失調症完全寛解者としてその意見には完全に同意する。貧しく質素な生活の中で自分の中に弱いけれど優しい心を感じ、ゆっくり生きる喜びを味わいながら生きることは、健常者には多分分からないかもしれないが、統合失調症という大病を乗り越えた人にとってはなによりも幸せなことなのである。またそういう風に生きることが中井久夫の言うエレガントに生きるということなのだと私は思っている。

詳細については章を改めて述べるが、自分の幸せのためか何か他の目的があるのかはよく分からないがともかく世間や周りの人たちに勝つために戦い続けることが病前の人生だとすれば、統合失調症を発症するということはそういう人生が強制終了することであり、闘病を経て、統合失調症が完全寛解するということはリラックスしながら自分の人格、人生を完成させるため、または他人を幸せにするために生きていこうと本心から思い、人生の第二ステージの扉を自分で開き、歩み始めることなのである。また病院のデイケアなどで統合失調症から寛解した人を見たことがあると思うが、統合失調症から寛解した人はみな憑き物の落ちたような晴れやかな顔をしていて、かつ天真爛漫に生きている。つまり統合失調症患者が目指すべきゴールはエレガントに生きながらかつ天真爛漫に生きているような境地だともいえる。心のゆとりを大切にして、エレガントにかつ天真爛漫に生きられるようになれば、統合失調症の認知機能障害も当然完全回復して、病前以上に頭も回転するようになっているから両者は同じゴールだともいえる。