2019年5月20日月曜日

統合失調症完全克服マニュアル 8


柔弱という中核信念を身につけることによりはじめて自分の弱さを許せるようになり、強さへの憧れ、執着、つまり心を意志化しようとする本能を捨てることができるのである。心が意志化する直接の最大の原因は精神的に強くあろう、もっと強くなろう、とすることである。柔弱という中核信念を持つことによりその原因を取り除くのである。

柔弱になるためには具体的にどうすればいいかというと、まず「私は強いが無敵だというわけではない」という当たり前の認識を深く確信することである。そう確信できたらあとは徐々に自分の弱さを受け入れられるようになってくる。そして自らの弱さを認めることにより心に余裕ができ、謙虚になり、他人にやさしくなれる。それが急性期に身につけた捨て身という態度が軽みという態度に変え、人並みに幸福になろうという執着を強引に捨てた過去さえ忘れ、無邪気に天真爛漫に生きることができるようにさせてくれるようになる。統合失調症を経験した人だけが味わうことのできる生の喜びである「余裕感の中で憩う」という喜びをゆっくりと思う存分楽しむことにより心がさらにリラックスして、自然治癒力がさらに加速度的に高まっていく。

柔弱という中核信念を身につけて数ヶ月経つと体のどこかに原因不明の痛みが一時的にでることがあるかもしれない。病院に行って検査した結果、それがただの心身症と判断されたら、その心身症こそが医学書における統合失調症が健康体となる時にその境に壁のように存在するという心身症だったのであり、その心身症が治るとともに統合失調症は基本的に治ったのだと思って良いであろう。(ここで抗精神薬を完全に止めてしまうか、最低量を飲みながら余生を送るかは、それぞれの個人が決めるべきことだが、私としては中井久夫先生と同じように抗精神薬を最低量飲みながら生きていくほうがエレガントに生きられるし、ベターな生き方であると思う)

 エレガントに生きるとは余裕を持って優雅に人生を生きるということである。抗精神薬を飲みながらエレガントに生きるデメリットとしてはエネルギッシュに一生懸命、全力で生きるというような生き方ができないことである。ちなみにエネルギッシュに一生懸命、全力で生きようとすると退院後10年以上経っても再発する可能性はそれなりに高くなる。

 

最後に統合失調症と高齢者の認知症の関連性について書く。高齢の重度認知症患者の強い妄想にかられるところ、認知症患者の緊張した面持ち、自制できない怒りに任せた暴言などは統合失調症患者の急性期の症状と酷似している。実際臨床でも認知症患者は統合失調症患者と同じ抗精神薬を飲まさせられる。(その結果高齢の認知症患者が抗精神薬の強い副作用に耐えられず毎年大勢死んでいくことの是非はここでは論じない)

統合失調症が強いストレスから発症するように、認知症は精神的に悪い緊張状態が長く続きすぎたため発症するものと思われる。精神的に悪い緊張状態とはどういうものかというと、人間には交感神経と副交感神経があり、交感神経が緊張を司り、副交感神経がリラックスを司っているが、高齢になり仕事を引退して昼間健全なはりのある、つまり意識的に緊張感のある生活ができないため、夜になっても副交感神経優位に切り替わらず、よって安らかなリラックスした気分になれないで、昼間と同様に緊張して生活し、睡眠も高齢者につきものの不眠症でうまく取れず、翌朝になっても気分がリフレッシュせず、気分がリフレッシュしないから、またはりのない生活をしてしまい、という風に延々と低いけれど絶えず緊張感があって、息抜きのない生活を送ることにより人は認知症を発症するものだと私は思っている。

人はリラックスしている時よりも緊張しているときのほうが物事を記憶することが難しくなるし、他人に親愛の情を持つことが難しくなる。イライラしている時ほど他人に敵意を抱いて接するし、自己正当化して被害者意識に凝り固まる。また緊張しているとき、何かに恐怖している時ほど、自分の中に生き抜くための強さを確認しようとして、人は頑固になる。つまりうまくリラックスできず絶えず緊張していても人の心は意志化するのである。

重度認知症は統合失調症とちがい回復した報告例がない。ただ予防方法としては統合失調症の回復方法がおそらくは使えるであろう。

  1. 捨て身であること。(捨て身であることによって死ぬことを過剰に恐れなくなる)
  2. 日々老いて弱くなっていく自分をあきらめること。(このことによって絶望感を克服できる)
  3. 柔弱になること。(柔弱になることによって自分の弱さを自覚し、弱さを他人へのやさしさ、愛に変え、そのやさしさ、愛が即時的にもたらすゆとり、安らかさを感じて生きる喜びを感じられるようになる)

おそらくこのような態度、認知をもって生きる高齢者が増えれば認知症は劇的に減らせられるものと思われる。

 

以上を持って統合失調症完全克服マニュアルを終りとする。

 

参考文献 「統合失調症をたどる」「統合失調症をほどく」「統合失調症は癒える」「統合失調症と暮らす」監修中井久夫

補足 2024年9月13日

統合失調症の認知機能障害の克服方法についての私見

 

毎日自転車やバイクに乗ったりして動いていく風景を体全体で感じると統合失調症の認知障害の回復にかなりつながると私自身は思っている。リラックスしながら脳に新鮮は刺激を与えて、脳に情報処理をさせることがいいのだと思う。(自転車よりバイクに乗っている方がより情報処理量が多くなるので認知機能の回復につながりやすい。自動車は動いている風景を体全体では感じないのであまり認知機能障害の回復につながらない気が私はする。)

また夜寝る前に自律訓練法をユーチューブで聞いたりしてから眠るといい睡眠が取れ、朝起きた時リフレッシュした気持ちになりやすい。つまりできるだけいい睡眠を取ろうとすることが認知機能障害の回復につながるということ。(耳栓やアイマスクをするのもいい睡眠を取るのに効果的。)

あと朝散歩する時、公園の自動販売機で冷水を買ってその水で口をゆすいだり、飲んで水の清らかさを朝日を浴びながら感じたりするとすっきりした気分になり、認知機能障害の回復につながる。野菜やリンゴを食べたりして、なんかさわやかな清涼感を一日一回でも感じるのもいい。つまり意識的に何らかの行動をして一日一回は清らかな感情を感じることが認知機能障害の回復につながると私は思っている。


 

 

2019年5月19日日曜日

統合失調症完全克服マニュアル 7


 回復期後期における統合失調症の克服

 

退院から2.3年経って回復期前期が終わったあと、7.8年くらいを回復期後期という。統合失調症は一度も再発しなければだいたい全治10年の病気であると言われているので、回復期後期が何事もなく終わると基本的に統合失調症は治ったものとされる。回復期後期は基本的に認知機能障害を治す期間であるが、退院から34年後の回復期後期の前半で認知機能障害がほぼ治る人もいるがそれが一概にいいとはいえない。なぜなら回復期後期前半ではまだ精神が不安定であるため、認知機能障害が治り世の中がはっきり見えてくるとその分より一層精神が不安定になりやすく、よって再発する可能性が高まるからである。できる限り早く治りたいと願うのは自然な感情ではあるが、回復期後期においてはできる限りゆっくりと確実に一歩一歩治していこうとするのが病に対する最善の態度であると言われている。

この期間は何事にも「あせらず、がんばりすぎず、無理をせず」という統合失調症患者の標語を忘れず、心が再び意志化しないように細心の注意を払いながら過ごすことが重要である。具体的に特に何に注意すればいいかというと一日の睡眠時間である。睡眠時間が明らかに日に一時間以上短くなってきているのなら、睡眠薬を増量するか、ともかくベッドで横になっている時間を増やし睡眠の質を下げてでも睡眠の絶対量を多くすることによってかなりの確率で再発を予防できる。

回復期後期が始まったらまず何をすべきかというと、抗精神薬の副作用止めとして出されていたアキネトンやグラマリールなどの周辺薬の減薬、断薬を1.2年かけてすることである。副作用止めの薬を減薬、断薬していくだけでも認知機能障害が目に見えて改善されていくことが自覚できるであろう。認知機能がある程度回復してきたらクローズで週20時間くらいのバイトを始めるとよいであろう。健常者と対等に働いていると健常者が無意識のうちにぐんぐんと自分の精神を健康な方向に引っ張り上げてくれ、その結果、自然治癒力を高まり、精神的に安定していき、やる気も湧いてきて、さらに認知機能も回復していく。

 クローズで働くとは障害者であることを完全にふせて一般枠で働くということである。

発症から7年ほど経ったらいよいよ睡眠薬の減薬、断薬に挑戦することになる。多くの患者は発症から7年後に飲んでいる睡眠薬はフルニトラゼパムでおそらく上限の2mgを飲んでいることだと思うが、それを0.25mgずつ減薬していき8ヶ月後に1mgまで減薬してそこから4ヶ月かけてベンザリン5mgに置き換えることを大体の減薬ペース目標とするといいであろう。減薬し始めて一年後、ベンザリンに置き換え終わった頃には認知機能障害がほぼ100%治っていることに気づくであろう。

睡眠薬を減らすと睡眠の質は高まっていくが睡眠時間が短くなっていくので、この期間は少しでも睡眠の量を取るために耳栓とアイマスクをして寝るようにしたほうがいいであろう。また睡眠薬減薬中は最低週4日は休日をとって、できるかぎりリラックスして休日を過ごし仕事による睡眠不足をその休日期間中に取り戻すようにしたほうが望ましい。また次の日が仕事などで夜寝る前に心身が緊張していたらユーチューブで「自律訓練法」と検索してでてきた自律訓練法の音源を聴いて体を少しでもリラックスさせてからベッドに横になるというルールも忘れてはいけない。
睡眠薬を少しでも減薬すると頭が回転し始め、時と共にどんどん回転数が上がっていくがその時すべての統合失調症患者が気をつけておかなければならないことは一度統合失調症を患った人には健常者とちがい頭の回転数を制御するブレーキ機能が壊れているので簡単に限界を突破し、その結果幻聴、妄想が起こり統合失調症が再発しやすいということである。再発を回避するためにはどうすればいいかというとある程度まで頭の回転数が上がってきたらそこからは意識的努力は決してせず(つまりアクセルを踏まず)できるかぎりリラックスして自分ができる最大仕事量の8割ほどしか仕事をしないというルールを厳守することである。これができるかできないかが最後の再発と完治の別れ道となるのである。

急性期においては捨て身になることが大切であり、回復期前期においては人生をある意味あきらめることによって絶望を克服することが大切であったように、回復期後期でも心の意志化をとくために是非とも必要なことはある。それはなにかというと柔弱という中核信念を身につけるということである。つまり人間として成熟して、自我の統合を意識的に果たすことが必要なのである。(詳しくは前述してある「中核信念」を読むことをお薦めする)

              明日に続く





2019年5月18日土曜日

統合失調症完全克服マニュアル 6


退院から6ヶ月ほど経つと、そのあいだ何事もなければ抗精神薬が徐々に減薬されていくことになる。抗精神薬が減るに従って体がすこしずつ軽くなりやる気もわいてくる。デイケアで音楽療法としてみんなといっしょに合唱する時に、喜びを感じ他の患者に対して連帯感、淡い友情などを心に持つことができるようになるのも大体退院から6ヶ月くらい経ってからだ。

ある患者は退院から数えて6ヶ月間、発病してからだと1年間ずっと笑えず、笑えないことで腹の底に悪いどんよりした空気が溜まっているような気がして、息をどんなに吐いてもそれが吐き出せないような不快感に苦しんでいたが、デイケアに来はじめて5ヶ月目のある日突然、デイケアのプログラムでみんなで茶道の真似事をしている時大笑いした。その患者は発病するまで世界の第一線で働いていたのだけれど、世界で活躍しているときは自分を偉大に思い、ドロップアウトして週に3回デイケアに来て同病の患者たちと幼稚園児みたいにみんなで合唱し、茶道の真似事みたいなことをしている時は絶望感でいっぱいになる、そんな自分の卑小さが急におかしく思えてきて腹のそこから笑いがこみ上げてきたそうだ。30秒ほど笑い転げたあと、看護師に「笑えましたね」と話しかけられ、「ええ、笑えました。腹の底から悪い空気を全部吐き出せました。もう大丈夫です」とすっきりした顔で答えた。その日からその患者は回復期前期の絶望感を克服してみるみると回復していった(その患者が世界の第一線に復帰するのはそれからさらに紆余曲折があって発症後8年ほど経ってからなのだけれども、これを読んでいる統合失調症患者で笑えないで苦しんでいる人のために、とりあえずどんな統合失調症患者でも大笑いできるくらいには回復はするという事実を報告したくこのエピソードを書いてみた)。

統合失調症回復期前期に感じる圧倒的な絶望感は本質的に自分が人並みに幸福になりたいという欲求を持っているがそれが絶対に叶わないという思いから生じる。またこの人並みに幸せになりたいけど、絶対になれないだろうという認識こそが、回復期前期における最大の自殺理由なのである。つまり人並みに幸福になりたいという執着こそ絶望感の中核であり、自殺理由の中核なのである。その執着を捨てることができれば、つまり自分の人生をある意味あきらめることができれば、苦諦、生きることは苦しいと明らかに認識できればその絶望感は克服でき、死にたいという気持ちもなくなり淡々と生きることができるようになる。そして絶望感の克服、人生をある意味あきらめることこそ回復期前期における心の意志化の具体的ほどき方なのである。

具体的にどうすれば人並みに幸せになりたいというある種普遍的な願望を捨てられるかというと上記の自嘲して大笑いした患者のように自分を客観視できればいいのである。そのためには統合失調症になり社会からドロップアウトした不幸な自分という被害者意識に凝り固まらないで、きちんと他の生物や発展途上国の人々の命や人生の犠牲の上で成り立っている自分という立場から目を離さないで他の生物や発展途上国の人々に対する加害者意識を忘れないでおくことである。その加害者意識が生命というものがこの宇宙で互いに対抗しあい、食い合って生きている事実に対して諸君に必ず本質的悲しみ、大悲という感情を抱かせてくれる。その悲しみをきちんと持つことができれば人並みに幸せになりたいなどという汚らしいちっぽけな願望は必ず捨てることができるようになる。自分の人生をあきらめるというエレガントなゆとりを与えてくれるのである。切迫感のある圧倒的な絶望感から脱出させてくれるのである。

回復期前期は基本的に絶望感を克服することがその期間の峠で、絶望感を克服したあと、自分の人生にある意味あきらめがついたあとは、日に日に心にゆとり、余裕がうまれ、心にゆとり、余裕をもつことにより他人への温かい友愛の情が復活し、陰性症状である感情の鈍麻、平板化が改善されていき、友愛の喜びがさらに心にゆとりを与え自然治癒力が高まっていく、といった具合に好循環に入り加速度的に回復していく。

回復期前期が終わる頃、退院から2.3年経った頃には抗精神薬を最低量までもっていき、社会復帰するためのリハビリとしての週23日、一日23時間の障害者雇用枠の短時間バイトができるようになり、性欲が復活してくれば順調に回復していっていると言ってよいであろう。

           明日に続く

 

 

 

2019年5月17日金曜日

統合失調症完全克服マニュアル 5


回復期前期における統合失調症の克服

 

 抗精神薬を継続的に飲み始めると幻聴、幻覚が止み、徐々に患者の精神が安定してくるにしたがって患者は保護室から閉鎖病棟に、閉鎖病棟から開放病棟に移され、そして退院となる。そしてだいたい退院とともに回復期前期が始まる。

 統合失調症を発症した患者の10人に1人は自殺するが、最も患者が自殺する時期が退院から2年以内の回復期前期である。妄想、幻聴、幻覚に悩ませられる統合失調症の陽性症状状態の急性期もつらいが、自殺率の高さから言っても統合失調症の陰性症状状態の回復期前期の方がもっとつらいものであるとは客観的にみても明らかであろう。

 回復期前期をどういう風に過ごせばいいのかというと、「待つことのできる患者は半分治っている」という言葉があるとおり、一般的には時が過ぎるのをひたすら待つことであると言われている。回復期前期、陰性症状状態の時、感情が鈍麻平板化して、自分が精神的に死んでいるように感じられるが、真冬の枯れ木も春が来れば必ず再び芽吹き再生するように、自分の精神も時が来れば必ず復活すると信じることであると言われている。無意識下で徐々に精神を修復していく自然治癒力の力を信じて待つことができた者だけがこの時期を乗り越えられると良心的統合失調症の解説本には書かれている。

 一般論はそうであるが、基本的に一般論からいえば統合失調症は不治の病で治らないとも言われているのであまり一般論はあてにはならないであろう。「待つことのできる患者は半分治っている」という言葉は現在医学的にベターだと思われている理論で、ベストな理論はまだ発表されていないのである。私としてはベストな方法は回復期前期においても総論でも述べた通りただたんに待っているだけではなくきちんと意識的に心の奥底にある執着を捨てて、心の意志化を積極的に解いていくことであると主張する。

 まず退院して最初に必ずやるべきことは何かといえば、自立支援と障害者手帳を取ることである。自立支援と障害者手帳を取ることで過去の健常者としての自分をきっぱりと捨て、つまらないプライドを捨て、障害者として生きていく覚悟をきちんと意識的に持つことが必要であると私は主張する。つまらないプライドを捨て、過去の健常者としての自分に対する執着をきっぱりと捨てることが心の意志化をほどき、自然治癒力を高める最初の第一歩なのである。

  自立支援とは統合失調症の治療のための医療費、薬代の本人負担額が一割負担となる国の医療制度のことである。

  言い忘れたが、100円ショップに行って小さな箱を買い、調剤薬局で作ってもらった朝食後、夕食後、寝る前と分けられている薬の袋を薬を飲んだあと一時的に入れるゴミ箱を服薬忘れ防止のために作ることも極めて重要である。

退院直後、抗精神薬を最大量近く飲みながらかつ陰性症状が最大の時、ほとんどすべての患者は体がものすごく重くだるく感じられ、まとまった思考を持てずぼんやりとした絶望感を感じながら毎日を送ることだろう。睡眠薬で強制的に夜寝ているせいか熟睡感がなく、よって朝になってもリフレッシュした気持ちにならず、心身ともに日々どんどん疲労感が蓄積されていくように感じる。そして単純な足し算、引き算すらできず、新聞を読む集中力もテレビを見る集中力さえない自分を発見して愕然とする。ずっとこのまま治らなかったらどうしよう? 将来、本当にまた働けるようになるのだろうか? 入院時に見た重度精神病患者のように最終的には自分もなるのだろうか? 考えても答えのないこと、意味のないことをぐるぐると頭の中で毎日、毎日考えながら、さらに絶望的な気持ちになっていく。

(統合失調症は治る人もいれば、治らない人もいる。また働けるようになる人もいれば、一生働けない人もいる。最終的に重度認知症を患い、精神病院に閉じ込められて死ぬ前の10年、20年を刑務所よりもずっとつらい環境の中で送る人もいるし、ある日突然寝ている間にあの世に行ってしまう幸運な人もいる。しかし自分がどうなるかは自分に訊いても医者に訊いても分からない。どんな不治の病でも必ず治る人はいるが、治るか治らないかを分ける境目は、誰にもはっきりとしたことはいえないからである。)

 退院から6ヶ月間は、はっきり言って積極的自主的にやるべきことは特に何もない。医者に言われたとおり、週3日くらいデイケアに通い、睡眠と休養を十分取り、毎日1・2時間重い体を引きずるように散歩すること以外何もできないし、実際問題としてやりたくもないだろうし、できないだろうから何もしなくていいのである(有酸素運動としての散歩をすることだけは陰性症状を緩和させ、自然治癒力を高め、質の良い睡眠を取りやすくすることが医学的にも証明さられていることだから、散歩だけはなんとしてもやったほうがいいであろう)。またこの時期における散歩以外の努力と忍耐は禁忌である。散歩以外の努力、忍耐をすると心が再び意志化して再発する可能性が高まるからである。ただ急性期を脱して安定してきている精神を6ヶ月間引き続き再発させずに安定させ続けることだけが基本的に退院から6ヶ月間にすべきことなのである。この期間、毎晩寝る前に、もう二度と目覚めませんように、と神様に祈ってから目を閉じることが日課になる人も多いことだろうが、それは基本的にはいいことである。自殺しようと積極的に思うのではなく、ただもうこれ以上生きたいと思わなくなる期間が回復期前期には絶対必要なのである。その期間があることにより後述するように人生をある意味あきらめて絶望感を克服するゆとりを得ることができるようになるのである。

             明日に続く

 

2019年5月16日木曜日

統合失調症完全克服マニュアル 4


 

ではいったいどういった心構えを持つと抗精神薬を平静に飲めるのかというと、「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉が意味することを感得できたら抗精神薬を平静に飲むことができるようになる。どういうことかと自分の人生を、命を重要視しないで捨て身になって潔く生きていくべきであると確信すれば平静に薬を飲むことができるようになるということである。福沢諭吉の処世訓で「あまり人生を重くみず、何事も捨て身になって一心になすべし」というのがあるが、つまりそういうふうな生き方を身につけなければならないということである。死に対する恐怖、生きんとする意志を積極化すると人並みに幸せになりたいという執着が生じ、他人への一般的敵意という態度が生じるのと同様に、大慈悲、無差別愛、他者を尊重したいという意志を積極化すると親愛なる他者の幸せを祈りたい、他者を幸せにしたい、他者を不幸から救いたいという気持ちが生じ、その気持ちから自分の損得を考えず、他者のために生きたい、自分の命を、幸せを、人生を軽んじて捨て身という態度で生きていきたい、という自分自身に対する態度が生じる。

7を見る


「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉を感得するのは極めて困難であるとこれを読んでいる統合失調症患者で思う人がいるかもしれない。確かに私も難しいとは思う。だがしかし、冷たいことを言うようだが、この言葉を感得できなければおそらくかなり高い確率で予後不良の廃人状態で地獄のような一生を送るしかないと今まで会ったすべての統合失調症患者を見て私としては 思うところである。どうしてもやるしかないのだ。どのようにすればそれを感得できるのかというと勇気を出して徹底的に抗精神薬を飲むべきか否かということについて自分の心に問いかけることである。自分の心に問いかけると聞いて良心の声に従うべきというのかと勘違いする人がいるかもしれないがそれはちがう。急性統合失調症状態で聞く良心の声、神の声と思う声は多くの場合、悪魔の声なのである、生きんとする意志の声なのである。自分が変わること、成熟することをかたくなに拒否して現在の自分を固守しようとする声なのである。だから良心の声と思われるものに耳をかたむけては絶対いけない。自分の心に問いかけるとはあくまで自分という意識、自我、理性に問いかけるということである。お釈迦様も自灯明が最も大切だと言っているし、禅宗でも自力本願こそ至高としている。最後の最後は自分の判断で人生を決めるべきなのだ。最後の最後、絶体絶命のピンチにあっては神にも良心にも頼らず、自分という思念の判断力を信じることが自灯明ということであり、自力本願ということなのである。

 抗精神薬を飲むべきか否か、ということを真剣に自分の心に問いかけ、心の声に耳をすませば必ず答えは出てくる。まず抗精神薬を飲むことは正しいことか否か、という判断基準で考えているうちはこの問題は解けない。基本的に統合失調症患者が抗精神薬を飲もうが飲むまいが世の中の人にとってはどうでもいいことであるし、一般的正義の観点からも抗精神薬を飲むべきまたは飲まぬべきという解答は絶対得られないからである。また直接的大慈悲の論理もこの問題については解答を与えてくれない。幻聴や幻覚に怯えているときに、他人に好意を持つことや他人を尊重したいという念を持つことはできないだろうし、たとえできたとしてもだいたい保護室の中では自分以外は職業としてそばにいる、つまり金銭目的でそばにいる看護師と医者にしか出会わないのであるから他人への好意や尊重の念を向けるべき他人がいないので、その他人の期待に応えようと思うこともない。ゆえに大慈悲という論理からもこの問題に解答は与えられないのである。

 抗精神薬を飲むべきか否か、ということをどういう判断基準で考えれば答えがでるかというと結論を言えば、精神的美的判断基準で考えれば答えがでるのである。抗精神薬を飲むことは少なくとも潔いのではないか、飲まないことは往生際が悪いことではないのか、ということについてじっくりと考えれば答えが出るのである。この薬を飲むと死んでしまう、という直感はあるいは正しいのかもしれない。だが、幻聴や幻覚に怯え、薬を飲むことからも逃げ回り、恐怖で心をいっぱいにしながら生きていくことは本当に正しいことなのであろうか? 肯定されるべきことなのであろうか? 美しいことなのであろうか? と真剣に考えることである。保護室の中では考える時間はたっぷりとあるはずだ。ゆっくりと1ヶ月、2ヶ月、3ヶ月かけて考えてみよう。考えて、考えて、考えれば必ず最後には潔く薬を飲もう、潔く死のう、という結論に達するはずだ。それこそ「武士道とは死ぬこととみつけたり」ということなのである。諸君が勇気を持って考えれば、諸君の自我の持つ美意識、美的判断力が必ず諸君を救ってくれる。

 捨て身になって、自分の命を省みなくなった時から、自分が徐々に変わり始め、急性期から急速に抜け出ていく。また捨て身になればもう思い悩まなくなり、懐疑しなくなる。懐疑しなくなるから自分の判断、行動を正しいと思えるようになり、その結果急性期の精神的混迷から抜け出すことにより自然治癒力が高まってさらに回復していく。

 このようにして急性期における統合失調症状態を克服するのが正しい克服方法なのである。

               明日に続く

 

 

 

2019年5月15日水曜日

統合失調症完全克服マニュアル 3


   各論

 

       急性期における統合失調症の克服

 

統合失調症を発症すると2.3日の不眠の後、まず急性統合失調症状態となる。急性統合失調症状態とはどういうものかというと、超覚醒し、または悪夢の現実化のような強い妄想にとらわれ、他人から見て支離滅裂なキチガイじみた行動をする時期及びそのあとの、少し落ち着いて強い恐怖感を伴う幻聴や幻覚に悩まされる時期のことである。

幻聴はおもに2種類の声が聞こえる。一つは「お前を殺してやる」といったような悪魔の声のような強い恐怖をともなう脅迫的幻聴と、もう一つは「あきらめるな。絶対あきらめるな。我慢しろ。忍耐しろ。(我慢すれば絶対治るから)」という神の声のような命令的幻聴である。はじめのうち統合失調症患者のほとんどすべての人は、信じる人は救われる、と思い前者の声におびえながらも、後者の神の声のようなものにすがって幻聴のもたらす恐怖に負けまい、恐怖に立ち向かおうと思う、ともかく我慢しよう、現在の自分を守ろうと思う。つまり強くあろうとする。幻聴、幻覚に耐えること、自分を曲げないことが強さだと思い、かつ強くあることは即時的に正しいことであると思い、恐怖に屈して自分を曲げ、自分の弱さを認めることは卑怯で悪いことだと思う。私の知り合いでかなり激しい急性期統合失調症状態で3ヶ月ほど保護室にいたことのある患者は、聖帝サウザーのように、退かぬ! 媚びぬ! 省みぬ! と、起きてから寝るまで最初の1ヶ月、ずっとブツブツつぶやきながら自分の弱さを決して認めず、自らの精神的強さを信じ、必死で自分を曲げないこと、現在の自分を守ることに固執していた。(笑)

閉鎖病棟の保護室の中に隔離され、2種類の声を聞きながらすべての統合失調症患者は自分なりになぜ今自分が精神病院の一室で社会的に完全にドロップアウトしてしまって幻聴幻覚に悩まされているのか、何か他の人たちがやらないとてつもない悪いこと、まちがったことをしてしまったのかというような精神病になった原因を過去を振り返りながら延々と見つけ出そうとし、なんとか幻聴、幻覚を消す解決方法を考え出そうとし、恐怖から逃れる方法を発見しようとする。だが1ヶ月、2ヶ月経つと(閉鎖病棟の保護室の12ヶ月は健常者が普通の社会生活を12年送るのと同じくらい長い)、大部分の統合失調症患者は何をどう考えても幻聴、幻覚から逃れる方法を見つけられず途方に暮れて、まるで解なしの問題を必死になって解こうと考えているような絶望的な気持ちになってくる。

結論から言うと、悪魔のように聞こえる幻聴も神の声のように聞こえる幻聴も双方まちがっているのである。幻聴、幻覚を消す正解を見出した後にはあれらは双方悪魔の声だったのだ、と心から思うことになる。幻聴、幻覚を消す正しい解決方法はどのように見出されるのかというと、それは何か自分が新たな行動をすることにより、または自分の心の中に何か発見をすることにより見出されるのではなく、自分自身が変わることにより見出されるのである。今現在の自分自身でありつづけようという執着を捨てることにより解決するのである。今の自分を捨て、新しい自分に変わる勇気を持つことによって解決するのである。端的に言えば、総論でも言ったように捨て身になって、自分の弱さを認め、または自分が変化することを恐れない強さを身に付け、最終的には柔弱という中核信念を持てば統合失調症は治る。つまり神の声のように聞こえる幻聴のどこがまちがっていたかというと、「あきらめるな。絶対あきらめるな。我慢しろ。忍耐しろ」という命令的声に従わせて現在の自分に執着させ現在の自分をかたくなに守らせようとさせるところがまちがっていたのである。自分自身が変わることをかたくなに拒否させようとするところがまちがっていたのである。幻聴、幻覚に耐え、現在の自分を守りぬくことが精神的強さであり正義であると思い込ませるところがまちがっていたのである。

こと統合失調症に関しては信じるものは救われないのである。だいたいよくよく考えれば悪魔は命令するが、本当の神様はやさしくアドバイスしてくれることはあっても命令なんてしないものである。奴隷的人間、恐怖に支配されやすい人間、他人や世間の目を過剰に気にする人間、つまり他人の命令をよくきく人間に悪党が多いことからも常識的にそのことが分かる。

実際問題として急性期に幻聴、幻覚を消すために何をすればいいのかというと捨て身になって抗精神薬を飲むことである。抗精神薬を飲めさえすれば幻聴、幻覚は消える。もしこれを読んでいる健常者の読者がいるならば、なんだ、そんなことか、と拍子抜けするかもしれないが、抗精神薬を飲むということは風邪薬を飲むこととはちがいそんなに簡単なことではないのである。はじめの一度目は誰でも簡単に抗精神薬を飲むことはできる。が、二度目、三度目に抗精神薬を飲もうとすると生物としての自分が全力で自分の心に「やめろ。絶対飲むな。それは猛毒だぞ。その薬を飲むとお前は死ぬぞ」と強く語りかけてくるのを直感的に感じるから抗精神薬を継続的に飲むことは難しいのである。そしてまたその抗精神薬は猛毒であるという直感は誤解ではなく、生物として正しい直感であるということが抗精神薬を飲むことをさらに難しくさせているのである。抗精神薬の副作用は大きく分けて四つある。一つ目は抗精神薬を継続的に飲むと最初の12年は認知能力がガタンと落ち、かつ無気力な廃人状態となることである。実際どの程度認知能力が落ちるかといえば、コンビニエンスストアで763円の買い物をした時、1063円を払えばきっかりしたお釣りをもらえることは分かるが、それがいくらになるのかはわからないくらいはじめの一年くらいは認知能力が落ちる。また無気力になることは前述してあるとおりこれは意志化した心を解きほぐすための抗精神薬の主作用とも言える。むろん1・2年経てば徐々に認知能力も気力も戻ってくる。私見を言えば個人差はあるが、3・4年経てば気力は元の水準に戻り、認知能力は7・8年経てば完全に元の認知能力に戻る。二つ目は継続的に飲むと将来的に認知症になる確率が高くなることがあげられる。三つ目は継続的に抗精神薬を飲むと実際寿命が縮まることである。一度でも抗精神薬を飲んだひとが、2度目、3度目の抗精神薬を飲む時、この薬を飲むとあと5日後には確実に死ぬ、とか直感し、その日強引に飲んだ次の夜に飲む時はあと四日で確実に死ぬと直感し、その次の夜はあと3日で必ず死ぬと直感するがそれは間違いであり、実際はもっと長く生きられる(日本の統合失調症患者の平均寿命は64歳である。健常者の平均寿命と比べ15歳ほど短いが、まぁ64年生きられれば十分といえば十分な寿命であるともいえる。しかし40歳くらいでも抗精神薬を飲んだことが原因で死ぬ人は結構いるので、やはり抗精神薬を飲むからには、もういつでも死ねるという心の準備はしておかなくてはいけなくなる。10年、20年先のことを考えた長期的計画、志、夢というものを真剣に持つことを半分諦めなければならないということは10代、20代で発症した若者にとってはかなり辛いものである)ちなみに何日間か抗精神薬を強引に飲んだあと、この薬を飲めば今夜必ず死ぬ、明日の朝は絶対迎えられないと直感確信する日が来る。その夜、その直感確信を無視して抗精神薬を強引に飲むと、次の朝目覚めてみるとほとんど幻聴、幻覚から解放されて見違えるように回復している自分を発見することができる。この薬を飲めば今夜確実に死ぬと確信する時が急性期統合失調症の峠なのである。四つ目は抗精神薬を飲むと精神的に弱くなり(このことも心の意志化が解け、心が柔らかく感情的になるという抗精神薬の主作用ともいえるが)そして疲れやすく、かつ疲労の回復スピードが遅くなり、もう人並みに週5日フルタイムで働くことは基本的にできなくなることである(無理したら2・3年は週5日フルタイムで働くことはできるが、その後は疲れきって仕事を辞めてしまうか、最悪心が再び意志化して統合失調症が再発する)健常者の読者諸君には分からないかもしれないが、この四つ目の精神的に弱くなるという副作用こそが統合失調症患者が抗精神薬を断薬する最大の理由なのである。精神的に弱くなるとは一概にどの程度弱くなるのかというと、生物として一人で生き抜くために最低限必要な強ささえ失うほど弱くなると考えてくれればいい(そのため統合失調症患者のほとんどの人は精神障害者手帳を持っている)。生物として一人で生き抜くために最低限必要な強ささえ失って生きていく不安感はどの程度のものかというと、大体5歳くらいの幼児が親に捨てられて道端で途方に暮れている不安感と同等程度のものだと想像してくれればいい。

上記の抗精神薬の副作用は閉鎖病棟の保護室に隔離されている患者には説明されず、医者や看護師からただ「この薬を飲めば幻聴、幻覚が消えますよ」と言われて飲まされるわけだが(副作用を説明したら誰も抗精神薬など飲む人などいなくなる)、誰にも副作用について教えてもらわなくても多くの患者は人間の持っている生物としての基本的防衛本能から抗精神薬を飲むことを全力で拒否しようとする。

          明日に続く

 

2019年5月14日火曜日

統合失調症完全克服マニュアル 2


 

 

 心の意志化は忍耐と努力によってなるが、なぜ人がそれほどまでに過剰に忍耐と努力をするかといえば心の中にあるなんらかの価値観に強く執着しているからである。

 愛に美しい愛と醜い愛の二種類があるように、執着にも美しい執着と醜い執着の二種類がある。一般的に醜い執着を持って統合失調症になった人は予後不良になりやすく、美しい執着を持って統合失調症になった人は予後良好となりやすい。美しい執着としては、夢や志といった目標を持って生きていこうとする執着がある。正義や理想を愛し、たゆまぬ努力をする人もいるだろうし、自分の心の描く完璧な人間のあり方を追求して臥薪嘗胆するひともいるだろう。この手の人たちがもちろんすべて統合失調症を発症するとは限らないが、この手の人たちは必ず若い頃多大なストレスにさらされる。例えば正義を愛する人を例にあげるとわかりやすいが、正義を愛する人は必ず、私は正義を愛する、だから私は正しい、と判断する。そして私は正しいという判断から、私は間違っていない、私は無謬である、という判断をしてしまう。そして私は無謬なのだから、あらゆる外部から来るストレスは間違っている、だからそれに対して決して受け流さず、正面から受け止めることが正しいことなのだ、と思ってしまう。そういうふうにしてこの手の人たちの心は多大なストレスを受け、意志化する。私は正義を愛しているから悪を愛してはいないと思うことは正しいが、私は正義を愛しているから私は無謬である、ということは間違いであることに若い頃は気づかないのである。

 醜い執着の代表例としては、無意識下の死に対する恐怖を決して正面から見つめようとせず、何が何でもそれを避けようとして、ともかく外的安全を目指し、少しでも社会的高い地位につこうとする執着がある。この執着を持つ者は一流大学に入らない人は社会的敗者だと思い死に物狂いで受験勉強したりする。また運良く希望通り一流大学に入れれば、そういう人は自分より学歴の低い人を人間扱いしない非常に傲慢な人間に必ずなる。一流大学から一流企業に入った際は、今度は自分より低所得者はすべからく努力不足による自己責任であると確信し、この現代資本主義社会の歪みを決して認めようとはせず、国内の格差にも国際的国家間の格差にも、資本家でもないのに資本家よりもさらに強く肯定し、格差を公正なものだと思いこみ、居直る。そうしてそういう歪んだ価値観を持っていることにより人から嫌われ、ストレスを溜めていく。

 またそういった歪んだ価値観に執着しながら一流大学に入れなかった場合、一流企業に入れなかった場合はそういう人たちは敗北感と無力感にさいなまされ、一流大学に入れなかった他人、一流企業に入れなかった他人を極度に蔑視するだけでなく、それ以上に自分自身を蔑視し、引きこもりになったり、ならずに社会に出て働いたとしても決して自分の殻から出ず、心理的に引きこもって生きていき、さらにストレスを溜めていく。

 また最悪の執着としては無意識下にある死に対する恐怖から自分を守ろうとするあまり、自己愛、利己心に強く執着して、結果世間や他人に過剰な恐怖心を持ち、世間や他人を極めて危険なものだと判断し、それに対抗するため世間への、他人への一般的敵意に意識的に強く持ち(いわゆる爆発系、被害妄想系となって)、結果世間から他人から嫌われ排除され、ストレスを溜めていくものがある。爆発系や被害妄想を抱く患者はその他罰的で攻撃的な性格にかかわらず必ず強い被害者意識を持っている。どうして強い被害者意識を持っている彼らが攻撃的かというと、安全を過剰に求めるあまり他人に強い恐怖心を持ち、それゆえ自分が他人を攻撃しなければ必ず他人から攻撃されるという確信を持つことになり、攻撃は最大の防御という格言に従い攻撃的になるからである。
※ 爆発系とは他人に暴言をはいたり、暴力をふるったり、身近なものを手当たり次第に破壊するタイプの統合失調症患者である。

確かに健常者でも利己的で他者に対する一般的敵意を強く持っている者もいるが、そういう人は、部下へのパワハラや弱いものいじめなど自分が安全なときだけ他人への敵意を強く表明するが、普段自分の立場が危険になりそうな時は自らの利己心を抑えることができる卑怯さ、小心さを持っている。被害妄想、爆発系が自らの利己心を抑えきれないで他人への無差別の一般的敵意を表明してしまうのとはそこが決定的にちがっているのである。

 統合失調症を治すためには心の意志化を解かなければならない。心の意志化を解くためにはある種の執着を捨てなければならない、執着を諦めなければならない、ということは上述した事により分かってくれたであろう。理論的にはこれで統合失調症は治るが、臨床面ではこれに加えて薬と各自の自然治癒力を引き出すことができれば治ると言われている。薬、抗精神薬とはどういうものなのかというと、基本的に人を無気力にさせる薬である。人を無気力にさせ、そのことにより意志化した心を緩ませ、感情と知性と意志がもつれからまって硬くなった心の核をほどきやすくするというのが抗精神薬の役目であると私は思っている。自然治癒力とはどういうものかというとあらゆる病気を治すために人にあらかじめ備わっている力である。あらゆる薬、手術は自然治癒力を補助、補完するものにすぎないのは医学的常識であるが、精神病の場合、心の混迷と衰弱とともにこの自然治癒力が弱まってしまうので、意識的に自然治癒力を高めるような心理状態を作り出さなければいけないため、あえて精神病の場合は自然治癒力が大事であると言われているのである。

 ここで自然治癒力についてざっくりと述べておきたい。まず自然治癒力が弱い人はどのような人かというといつも過度に緊張していて心のゆとりのない人である。統合失調症をこじらせる人、予後不良になる人はどのような人が多いかというと、圧倒的に被害妄想系、爆発系、が多い。彼らはどのような人間かと一言で言うと利己的な人である。利己的だからゆとりがないのか、ゆとりがないから利己的になるのかは、鶏と卵のような関係でどちらが先ともいえないが自然治癒力の弱い人はともかく利己的で、強い被害者意識を持っているということは確実に言えることである。ゆえに自然治癒力を高めるためには利他的になり、被害者意識を捨てればよいわけであるがそれがなかなか難しい。なぜならそのためには個人的な幸福追求をすることを止めなければならないからである。なぜならそうでなければ利他的に、真に自然体にはなれないからである。つまり人並みに幸せになりたいという執着を捨てなければならない。ここで自然治癒力を高めることと統合失調症を心理学的に理論的に治すことは基本的に同じことだということが分かる。つまり執着を捨てるということが統合失調症を理論的に治すことにも自然治癒力を高めることにもつながるのである。

 人並みに幸せになりたいというこの生きていく上で基本的な執着を捨てるにはどうすればいいのか、というと結論から言えば捨て身になって生きていこうと思うことによって捨てることができる。

 詳細は各論で語るが、統合失調症を治すためには人並みに幸せになりたいという執着を捨てなければならない。そのためにはどうしても捨て身になる必要がある。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ、ということわざもある通り、捨て身にならなければ利他的になれない、リラックスできない、ゆとりを持てない、ゆえに自然治癒力を高められないからである、ということをざっくりと語っておいてここで総論は終わる。

            明日に続く

 

 

2019年5月13日月曜日

統合失調症完全克服マニュアル 1



 

          総論

 

統合失調症について語ろうと思う。なぜ語るのか? なぜ私が統合失調症についてかくも詳しいのか? などという野暮な詮索はしないでくれたまえ。まぁ、ともかく統合失調症について語る。

 現在の医学的常識に反するが、私は統合失調症は基本的に心理学的病であると主張する。

 人はなぜ統合失調症になるのか? それは強いストレスに長期間さらされて心が意志化するからである。心の意志化とはどういうものなのかというと、健全な人の心には感情的部分と意志的部分、知性的部分があるが、その心が強いストレスに長期間さらされると感情的部分が機能停止しストレスを受け流そうとせず、ただひたすら忍耐または努力によって、すなわち意志の力によってそのストレスを正面から受け止めようとすることによってなる。これが心が意志化するということである。

健康な精神状態である人が短期間の弱いストレスを受け取る時の対処方法は、通常3つある。心にゆとりがたっぷりある時は最善の対処方法としてストレスとなった原因、問題点をつきとめ、それの解決方法を考え知的に解決しようとする方法がある。また心にゆとりがあり、知性的解決方法が見つからない場合には、しなやかにストレスを受け流すこと、または寛容の心を持って他人を許すことによって感情的に解決することもできる。心にゆとりがない時、焦っている時だけ、何か切羽詰ったような強迫的感覚を抱きながら、忍耐や過剰な努力によって心を硬化させて意志的解決を図ろうとする。このことからもストレスを真正面から忍耐または努力によって受け止めようとすることが上策でないことが分かる。

また強いストレスに長期間さらされた時、心の知性的部分はどうなっているのかというと、心の知性的部分には自分のすでに作られた価値観、信念に基づいて頭で合理的に単純計算して行動を選択していく部分と、環境に適応する新たな価値観、信念に更新しようとたえず考え続ける部分があるが、強いストレスを長期間受けると新たに自分の価値観、信念を更新しようと考える部分が停止して、すでに作られた価値観、信念で合理的に単純計算して行動するだけの知性だけが働いている状態となっている。すでに作られた古い、現実に適応していない価値観、信念で判断して行動を選択してゆえに、どんどん間違った方向に進んでゆき、失敗に失敗を重ね、さらにストレスが溜まっていき、そのストレスが価値観、信念を歪ませ、さらに現実に適応しない価値観、信念となっていくが、当の本人はストレスにより盲目的になりさらにその歪んだ価値観、信念に執着しようとする。現在の自分の価値観、信念を守ることが自分を守ることと同義だと思うからである。

 統合失調症は現代的精神病であるが、現代の、歴史的に見ても過剰な競争社会が人々に生物としては不自然で過剰な忍耐と努力をさせたことにより、統合失調症がかくも増えたものと思われる。中世以前は大多数の人が農民だったわけだが、農民はあまり努力しなかった。なぜなら農民は隣の家の農民の2倍働いても、耕作面積が同じなら、収入は1.2倍にもならないからである。だが、現代の学歴社会では学生時代、普通の人の2倍の勉強時間を取れば、将来安全で楽で手を汚さない仕事をしながら、普通の人の3倍、4倍の所得を得ることができる。ゆえに現代はみんながみんな人の2倍の努力をしようとして過剰な競争社会になっているのである。

 以上のことから、統合失調症を治すことは理論的には簡単である。統合失調症が心の意志化によりなるのであるなら、心の意志化を解いて、感情と知性を取り戻せばいいだけの話だからである。だが、強く強く固結びされた紐をほどくのが理論的には簡単でも実際は至難の業なのと同じように一度意志化された心にもう一回やさしい感情や合理的単純計算ではなく一から自らの価値観を構築しようと考えるゆとりある創造的知性の力を取り戻すことは極めて難しい。統合失調症患者の病的なまでに意志の強そうな目が再びゆとりあるやさしい光を放つところを想像することが極めて難しいことがなによりもそれを雄弁に語っている。

              明日に続く

 

 

 

2019年5月12日日曜日

自由について 5


私見によれば、新たな奴隷制社会、ファシズム社会を回避するためには、おもいやりのある自由、という新たな自由という概念を持つようにすればいいのである。

哲学的に言えば共同体の基本理念である、集団主義的な助け合い、団結という善の美徳と個人主義的な近代的自由という中庸の美徳との中間におもいやりのある自由という美徳は存在する。

4・図5・図6を見る。

 そもそも近代的自由とは前にも書いたとおり恐怖による支配からの離脱、何者にも自分の人生を屈辱的に支配されない自由がその本質である。つまり近代的自由を愛しながら労働という社会貢献(利他的行動)と生活費の獲得(知足に基づく利己行動)の双方に本質を置く中庸の美徳を愛することは十分可能なのである。労働で得た金銭の範囲内で適度な性欲の解消や死に対する恐怖、生きんとする意志の表現、解放することは中庸であるし、積極的に肯定されるべきものなのである。もちろん、その労働はパワハラなどの過度な屈辱感のない、そして適度な休日のあるものであることは言うまでもない。古代や現代の奴隷制度や準奴隷制度に基づく汚らしい1%の市民のための自由を求めるのではなくて私たちは新しい、自分の体重を自分で支えることを厭わない独立自尊の気風を持った99%の市民のための自由を求めるべきなのだ。そのためにはパワハラを裁く法律を制定すべきだし、ブラック企業をなくす努力を真摯にすべきなのである。また他人に恐怖によって支配されたくない、他人に敵意を向けられたくない、他人に尊重されたいと思うなら、そのためには自分にも他人を恐怖によって支配しない、他人に敵意を向けない、他人を尊重する、つまり己の欲せざる所、人に施すことなかれ、という礼の心が求められることはいうまでもない。

また心理学的に言えば、人は朗らかなとき、自由を感じ、憂鬱なとき、不自由を感じる。個々人が朗らかである時は、そのような個々人によって構成された社会は必ず安らかでお互いを助け合い、協力し合う社会であろうし、また逆に、個々人が朗らかであるためには、その所属する社会は安らかでなければならないし、安らかな社会であるためには相互扶助のあるお互いに友愛により協力し合う社会でなければならない。

ゆえに我々はまず相互扶助のある協力し合う安らかな社会を作ることをまず目指すべきなのであり、お互いへの恐怖心、敵意を煽って競争させたり、自己責任論を庶民に強制させたり、下積みの生活をしながら、憂鬱で無気力な、自分を無価値だと思う庶民を作りだすべきでないのである。そのためにも労働という健全な中庸の美徳の中に助け合いと他者への協力を見出し、それを積極的に愛することによって奴隷制度を否定しながら自尊心と勇気を持ち、安らかな社会を追求する、個々人を朗らかにし、思いやりのある自由という新たな自由を得られる社会を築くことを目指すことが必要なのである。