2019年5月6日月曜日

中核信念 6


 次に自己否定的か否かという指標について語ろう。自己否定的か否かという指標は健全さに関わる指標である。傲慢な人間と高貴な人が自己否定的であり、この場合不健全である。なぜ傲慢な人間と高貴な人が自己否定的であるのかというと、両者とも強さへの憧れを持ち、現状の自分に不満足だからである。もちろん両者の目指す強さは違う。傲慢な人間はもっと傲慢に、もっと弱者に残忍になることにより、強さを実感したいと思うものだし、高貴な人はもっと高貴に、できれば神聖になることにより、自らの強さを実感したいと願うものだからである。

 どちらがより精神的に不健全かといえば、高貴な人の方がより不健全である。なぜなら傲慢な人はもっとも社会的地位が高くなることにより、自分を完全な安全圏に置きながら、自分より階級の下の他人に傲慢に残忍に振る舞える可能性がゼロではないのに対して、高貴な人はそうではないからである。高貴な人は神聖になることができないばかりでなく高貴であることを維持することだけでも、かなり困難なことであるからである。どういうことかというと高貴な人は常に、毎年発展途上国で何百万人もの何の罪もない子供が餓死したり、貧困による病気などで死んでいくのを見殺しにして先進国の人間として生きていくことに、毎年数々の生物を絶滅させていく人類として生きていくことに罪悪感を感じて自己否定的にならざるを得ない状況下に置かれているからである。

ここで読者諸君は生きることに罪悪感を持っているのなら、私は正しい、という自己評価を高貴な人は持たないのではないのかという素朴な疑問を持つかもしれないが、それは間違っている。自己正当化には主に意識上で起こる自己愛に基づいた自己正当化と無意識下で起こる良心に基づいた自己正当化の二種類があるからである。

自己愛に基づく自己正当化をする人とは自らは損得、安全か危険か、などといった自己愛に基づく相対価値基準で動いておきながら、自らに正義があると主張するよくいる人々である。経済学者や銀行家、証券屋、欧米の経営者などといった人々がこのような人種である。このような人間は世間でよく見られるとおり、極めて他罰的であり、自分が経済的に成功しているときは経済的弱者に自己責任を強く追求しようとする。このような自己正当化する悪党がこの世の中で最も(きたな)らしいのは論をまたない。

良心に基づく自己正当化をする人とは、確かに客観的に見て基本的に人間は他の生命を食べて生きているし、人間が生きて増加していることが他の生物の絶滅を助長してもいる、また先進国の人間として生活していくことは発展途上国の人々の犠牲の上に成り立っているとも言えるのであるから、我々の存在は悪の権化と言えないこともないが、その罪悪感に苦悩する自分の魂を、罪悪感に苦悩するからこそ正しいと無意識下で自己正当化し、良心を防御、強化して、上記の生存の上にあるにもかかわらず日常生活で正義という主観的絶対価値基準に基づいて行動することによって、私という存在は悪であるが、私という思念、魂は正しいという信念を持つ人のことである。

確かに良心に基づく自己正当化といえども自己正当化は自己正当化なわけであるから、諸君はそれを汚らしいものと思うかもしれない。西郷隆盛も「人は己に克つをもって成り、己を愛するをもって敗るる」と言っている。が、もし良心に基づく自己正当化という機能が我々の心の中になければ我々は簡単にニヒリズムに飲み込まれ、良心を捨て、損得勘定と自己保身だけを価値判断として生き、もっと暗く愛も正義もない社会を作っていたことだろうことは容易に想像がつくことであるから、事後的に見れば現代において良心に基づく自己正当化をすることは私としては善だと思っている。

私は悪党だ、という中核信念を持つ傲慢な人や卑怯、卑賤、俗悪な人は当然のことながら深刻な罪悪感など感じないし、すぐ自己正当化する質の人だから自己肯定的である。高貴な人と同じく、私は正しい、という中核信念を持つ柔弱な人が、なぜ自己否定的にならないのかというと、私は弱い、という中核信念が罪悪感を中和し、自分を許す、自分に対してもやさしくなるから自己否定的にならないのである。生きているという罪悪感を自らの苦悩により正当化する高貴な人間と自らの生きているという罪悪感を許す柔弱な人間のどちらが客観的に見て善良なのかは意見の分かれるところではあろうが、私としては何はともあれ自己否定的な高貴な人間の方が、精神的には不健全かもしれないが好感が持てる。

しかし客観的に言えば、自己否定的態度で生きていくこと、高貴であることは長期的には必ず人の精神を不健全にする。

         明日に続く

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