2019年5月2日木曜日

中核信念 2


以上のことから私たちが持つ自分自身への評価、中核信念は四つに分けられる。

 私は正しく(美しい魂を持っている、明るい、清らかだ)私は強い(勇敢だ、無敵だ)、つまり統合すると、私は高貴だ、という自己評価、中核信念か、

 私は正しく、私は弱い(無敵というほど強くはない)、つまり統合すると、私は柔弱(にゅうじゃく)だ、私は柔和だ、という自己評価、中核信念か、

  私は悪党で(醜い魂を持っている、狡く、暗く、汚れている)、私は弱い、つまり統合すると私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だ、という自己評価、中核信念か、

  私は悪党で、私は強い、つまり統合すると私は傲慢だ、私は残虐だ、という自己評価、中核信念である。

 私は正しい、という中核信念は日常生活により大慈悲の知性化、結晶化した正義を愛し、実際正義に基づいて行動することにより獲得される。私は正しい、という中核信念はそれを持つ人を必ず朗らかで気力に満ちた人にする。

 私は強い、という中核信念は我々の無意識下にある死に対する恐怖という感情が我々の人生の岐路において、その道は安全か、危険か、ということを基準にして行動しようとする時、あえて正義という絶対評価基準により正しく危険な道を選択し、その道を進むことにより、自分自身にその危険さに耐えうる強さを持っていることをその選択及びその後の行動により主観的絶対評価により証明、確信することにより獲得される。また相対評価によって高貴な人が低く評価された時、高貴な人はその評価に発奮して、より正しく、より強く、その中核信念を強化するために努力する。

 以上のことにより、私は高貴だ、という中核信念は説明できる。

 私は柔弱だ、という中核信念における私は弱いという思い込み、信念はどこから生まれるかというと、上記ですでに説明してあるとおり、私は正しいという信念をもっていれば論理的に私は強いという絶対的信念を持つものであるが、若い頃、肉体が健康な頃、私は高貴だという中核信念を持っていた人間でも、加齢により肉体が衰えたり、重い病にかかったり、事故により障害者になったりすることにより、他人と比べて、相対評価として否応なく私は弱いと認めざるを得なくなることにより、私は弱い、という中核信念が生じる。

精神的に健康であるためには、誰かに頼ることをやめることだ、一般的には言われている。そのことからも、世間や他人などの評価に頼らず、自分が作った絶対評価を基準にして生きることが精神的健康の秘訣であるから、私は柔弱だ、という中核信念を持っている人はやむを得ないこととはいえ、少し精神的にある種不健康だとは言える。

 次に私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だ、という中核信念及び私は傲慢だ、という中核信念について語ろう。

私は悪党で、私は弱いという中核信念は、私は弱いという中核信念、私は危険を過剰に恐れ、過剰に安全を常に求める、という価値基準を知性化、積極化することにより戦わずして負けを認め、ひたすら苦難を避け、利己的な小さな幸せを求め、安逸と怠惰に走りながらどんな行動の動機も損得勘定で測り、金銭欲や性欲といった欲望の追求のみを生きる目標にすることにより私は悪党だ、という中核信念を確信することによって生ずる。私は悪党だ、私は狡い、という中核信念は必ず私は弱い、という絶対評価を伴うものであり、多くの卑賎な魂を持つ者は弱者を虐げ、敵から逃げ回り、強者に服従することによって、私は卑賤だ、という中核信念を強化していくものだが、しかしたまたま相対評価において社会的に高い地位について、他人を支配するとき、そういう人ほど私は傲慢だ、という中核信念を持つことになる。つまり人を支配することにより、私は強い、という相対評価によって無理矢理自分の絶対評価を欺き、自らを安心させようとする。無意識下の絶対評価では、私は弱い、と知っているため、そう言う人は必要以上に他人を恐怖により支配して、他人の恐れおののく姿を見ようとし、他人が自分に対して恐怖感を抱いていることを見ることにより、自らの強さをなんとか絶対評価として確信しようとする。

 四つのタイプの中核信念のうち、どのタイプの人が精神的に強いのか? といえばもちろん私は高貴だ、という中核信念を持つ人が一番強い。だがどのタイプの人が精神的に健全で、どのタイプの人が精神的に不健全で、病みやすいかというと、私は柔弱だ、という中核信念を持つ人が最も健全で、私は高貴だ、私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だ、という中核信念を持つ人が精神的に不健全で病みやすい。

なぜ私は高貴だ、という中核信念を持つ者が最も強く、私が柔弱だ、という中核信念を持つ者が最も健全か、というと、精神的強さ及び精神的健全さを測るには、直接的ストレス耐性、自尊心の高低、ストレスに対する柔軟性、独立心の有無、自己否定的か否か、普段の機嫌の良し悪しという六つの指標があるからである。

              明日に続く

 

0 件のコメント:

コメントを投稿