福沢諭吉にこんな言葉がある。「独立の気力なき者は必ず人に依存する。人に依存するものは必ず人を恐れる。人を恐れるものは必ず人にへつらうものなり」と。つまり独立の気力なき者は常に人にへつらって屈辱感を感じている。絶えず屈辱感を感じて生きている人の精神は不健全であるといえよう。このことから私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だという、私は弱い、という中核信念を持つ人は不健全なことが分かる。同じ、私は弱い、という中核信念を持つ柔弱な人も不健全であると思う人があるかもしれないがそれはちがう。まず第一に柔弱な人は独立の気力はある。なぜなら柔弱な人は相対的に他人と比較して、私は弱い、と自己評価しているが絶対評価では自分は強い、とも思っているからである。気力はあるが、病気や障害や加齢のために独立できていないのだから、私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だという中核信念を持つ人と同じように人に依存して生きているが、過剰には人を恐れないし、人にへつらわない。つまり死ぬべき時に死ぬことを別に厭わない。第二に柔弱な人は、私は正しい、という中核信念を持っている人である。その、私は正しい、という中核信念が他人に依存して生きているという屈辱感を中和してくれる。だから精神的にそれほど不健全ではないのである。卑怯な人、卑賎な人、俗悪な人がどうしてあれほどまでに他人に支配されることに屈辱感を感じるのかというと、私は悪党で、徹頭徹尾自分のことしか考えないのに、にもかかわらず他人や社会のこともちゃんと考え、助け合いや団結も時にしながら生きている善人に比べて弱いと思うからである。つまりイカサマしているのに勝負に負けた、という思いが屈辱感の源泉なのである。
また独立心を持っている人は、困難に出会ったとき自分の力でなんとかしようという健全な努力ができる。
愛国心に良い愛国心と悪い愛国心があり、競争に良い競争と悪い競争があるように、努力にも良い努力と悪い努力の二つがある。良い努力とは向上心に基づく勇気のある努力であり、悪い努力とは恐怖に基づく安全を感じるための、不安から逃げるための努力である。
良い努力、向上心に基づく勇気のある努力とは正義のための努力であり、自分に誇りを持つための努力であり、自分が成長するための努力であり、自分の人生に全力を尽くしたと自分で納得するための努力である。向上心に基づく勇気のある努力をすると、自尊心が強化され、絶対評価基準で自分に価値があると実感でき、自分に本当の意味での自信が持てるようになる。また向上心に基づく勇気のある努力にはその中に喜びがあり、たとえ努力が報われなかったとしても勇気は失わない。
悪い努力、恐怖に基づく安全を感じるための、不安から逃げるための努力とは損得勘定の努力であり、他人を出し抜くための、他人を蹴落とすための努力、つまり虚栄心を満足させるための努力であり、生きんとする意志を満足させるための努力である。悪い努力、恐怖に基づく安全を感じるための、不安から逃げるための努力をし、成功すると他人を見下すようになる。失敗すると生きる勇気を失い、屈辱感を感じ、無力感にさいなまされるようになる。
独立心に基づく努力は、良い努力と悪い努力の中間にある努力である。独立心に基づく努力の中には向上心に基づく勇気もあり、自己愛もまたあるからである。
「あらゆる堕落の中で、もっとも軽蔑すべきものは、他人の首にぶらさがることだ」とドストエフスキーは言っている。私としても独立心に基づく努力の中にある適度な自己愛、適度な死に対する恐怖を批判するものではない。独立心に基づく努力とは、中庸の美徳なのだと私は思っている。
明日に続く
0 件のコメント:
コメントを投稿