自由について語ろう。フランス革命以後、自由は尊重されてきた。確かになんの束縛、制約もなく、思うままの状態は一見好ましく見える。我が国の憲法でも自由権は幸福追求権とともに国民の基本的人権として認められているし、現代の覇権国家アメリカの象徴が自由の女神であることからも自由が美徳であることは自明のことであるように思うかもしれない。
私の哲学でも東洋的自由、天真爛漫な人の自由、無欲な人の何物にも執着しない自由はその根底が大慈悲に基づいているものとして善なる美徳と推奨されてしかるべきものだということには異存はないが、西洋的自由、好きなことを、好きな時に、好きなだけやる自由、何物にも束縛されない自由についてはそれらが美徳かどうかいろいろと考察すべき点があると考えている。
まずはじめに古代ギリシャ的自由、好きなことを、好きな時に、好きなだけやる自由について考察をはじめよう。古代ギリシャにおいて好きなことを、好きな時に、好きなだけやる自由、無抑制の自由は悪徳とみなされていた。我が哲学では無抑制の自由は貪欲や残虐、傲慢さとちがいその底に他人への一般的敵意はないので悪徳とは言えないが、他人への尊重も全くなく、利己心だけがあり、他人への一般的敵意が加われば即、傲慢、横柄といった悪徳に変わるので準悪徳としている。
そもそもなぜ古代ギリシャにおいて好きなことを、好きな時に、好きなだけやる自由、無抑制の自由が一般的に存在し得たかというと、古代ギリシャ社会が基本的に奴隷制社会だったからである。生活に必要な手間暇のかかる仕事を奴隷に押し付けて、市民が余暇と膨大な富を持っていたからこそ、美食や色欲などに、好きな時に、好きなだけ溺れることができたのである。つまり良くも悪くも古代ギリシャ的自由、無抑制の自由とは奴隷に対する恐怖による支配の上に立った自由であった。だから古代ギリシャでは自由は悪徳とされていたのであり、そのような自由を抑制する節制という美徳をプラトンは四元徳の一つとして推奨していたのである。
我が哲学でも、節制という美徳は禁欲主義と古代ギリシャの無抑制としての自由の中間にある中庸の美徳だと考えている。
ここで少し話を脱線させて、西洋の節制の美徳と東洋の知足の美徳の違いについて語っておくことにしよう。東洋の知足という美徳は私としては死に対する恐怖に基づく何が何でも生きようとする意志が他者へのおもいやり、共存共栄という思想に抑制されたものだと考えている。
図1.2を見てもわかるとおり、東洋の知足という徳の方が西洋の節制という徳よりもより本源感情的な徳であるともいえるし、西洋の節制という徳の方が東洋の知足という徳よりより知性的な徳であるといえるだろう。またこのことからも知足の美徳の方が節制の美徳より、より実践的、実用的な美徳であり、社会に根付いているわけが分かるであろう。
明日に続く
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