自由には責任が伴う、と世間では一般的に言われているが、私としてはそれは古代的無抑制の自由、近代の貪欲、吝嗇といった悪徳としての自由にはあてはまるが、独立自尊という中庸の自由、精神的自由には当てはまらないものだと思っている。例えばある人が金持ちである時、違法ラインぎりぎりの節税をしまくってその金を女に貢いで、あるいはギャンブルに使って全財産失ってしまい、生活保護で面倒を見てくれ、というのは私もおかしいと思うし、自分で責任を取るべきと思うが、起業で失敗して、または病気になって、破産してしまったのならきちんとセーフティーネットは用意されて然るべきだと思うし、反政府的発言をして、または在日朝鮮人や被差別部落民に対する批判をして政府や朝鮮総連、民団、部落解放同盟から弾圧されたり、嫌がらせを受けたりすることはあってはならないことだと思っている。ここでヘイトスピーチに対しての私の意見を述べておくとすると、死に対する恐怖に基づく他者への敵意の表明としてのヘイトスピーチ、例えば障害者やホームレスに対するヘイトスピーチには私も反対だが、大慈悲に基づく憎悪の表明としてのヘイトスピーチ、どういうヘイトスピーチかというと戦後アメリカの属国としての日本の中間搾取者として活動している在日朝鮮人や被差別部落民に対するヘイトスピーチは当然許されるべきであると表明しておきたい。
つまり私は人が他者を咎めるのには動機は二種類あると考えている。一つはその他者が罪を犯し、自分のその他者に対する期待、大慈悲を裏切ったためによって生じる憎悪によって人を咎める場合と、その他者が何の罪も犯していないのに人が自分の持っている他者一般への敵意を発散させるため、その他者が弱者であることを、自業自得だと咎める場合である。
要するに現代の、機会の平等は皆に与えているからどんなことがあっても絶対に他人に迷惑をかけるな、という自己責任論はその底に死に対する恐怖のコインの裏側である他者一般への敵意があって反社会的反人道的なものなのだと私は主張する。
また、そもそも人間がどうして社会を作っているかというと、助け合い、許し合い、団結して力を結集して生きる方が、個人で自分勝手に、ばらばらに生きるより(要するに古代的自由を追求して生きるより)生き残りやすいと思ったからである。仲間のミスはカバーする寛容の心を持つことは当然で、ミスに対して自己責任というものを追求することは生物学的に言っても根本的に間違っているのである。もちろん社会には競争も必要だけれども、その競争は切磋琢磨というどれだけ社会にプラスの貢献をしたかで競い合う競争で、どれだけミスをしなかったかというマイナスの競争をしてはいけないのだという当たり前のことを新自由主義に侵された自己責任論者が理解していないのが問題なのである。
人間はチャレンジするから失敗する。そして失敗からのみ人は真に学び、失敗により人は真に成長する。失敗することを怖れチャレンジしない人間、安全を第一に指向する人間に真の成長がないように、他人の失敗を強く咎めるような社会には真の成長はなく、かわりに潰し合いというマイナスの競争が支配するようになり、停滞してしまうのである。ゆえに我々はむしろもっとチャレンジを応援する社会、失敗に寛容な社会を目指すべきなのである。
卑劣な悪党の自己責任論者を日本から一掃するためにさらにもうすこしだけ自己責任論者について心理学的哲学的、経済学的に批判しておきたい。
自己責任論というものは畢竟、弱いものいじめである。つまり自己責任論者は残虐である。残虐とは悪徳の中の悪徳であり、正義を愛し、残虐さを憎むことこそがすべての道徳心の意識上の基礎であると考えられている。よってそれだけでも勝ち組の自己責任論者は許しがたいが、そのうえ彼らは人を傷つけることに喜びを見出している自らを正当化している。そして現政府も自己責任論をむしろ推奨し庇護している。だからこそ体制派は、自己責任論者は、あれほど下劣で汚らしく見えるのである。彼らの論理、残虐を美徳とする論理から類推すると、強盗も殺人ももちろん道徳的には許されるが、社会の治安を維持するために法律的に禁止されているだけということになり、格差是正のための金持ちや権力者殺しは基本的には肯定されそうなものだが、薄汚い彼らはそういう自分に不利になる論理に対しては自らの精神の論理的整合性に矛盾しても、顔を真っ赤にしながら頑強に否定するだろうことは思うに難くない。
また経済学的に見ても自己責任論は有害である。なぜなら現代資本主義の本質的必要要素は長期的努力、公共心を持った国民が国家の経済政策を考え、団結して実行することなのであるが、長期的努力も公共心も団結も決して死に対する恐怖という感情の上には、利の追求や自己愛、競争からは生まれないからである。長期的努力、公共心、団結といった美徳は外部の敵に団結して戦おうという共同体の集団主義的な中庸の美徳が基盤にあり、そのためには相互扶助という善の美徳が基盤になければならないのである。
どうしてかというと相互扶助のない格差の大きい社会、金持ちが貧乏人を使い捨ての消費財のように利用する社会においては、たとえ外部に敵が現れたとしても、日頃の怨恨はひとまず置いておいて、なにはともあれ一致団結して外部の敵に戦おうという気には大多数の貧乏人は絶対なれないからである。
相互扶助のある格差の小さい社会にしか、社会正義は君臨しないし、社会正義が君臨しなければ、その社会には長期的努力も公共心も団結も存在しないのである。相互扶助、助け合いのある社会の基盤には個々人の自らの弱さの自覚、及び他者の弱さへの同情がある。つまり相互扶助という思想は人間としての成熟した態度、柔弱という中核信念の上にあるのである。
さらに経済学的に批判すると、低所得者に「絶対に他人に迷惑をかけるな」と言うところが、自己責任論者の絶対的に間違っているところなのである。この言説のどこが間違っているかというと、世の中の高所得者と低所得者はすべからく市場原理によって決められているという白々しい嘘を前提として語られているところが間違っているのである。実際の高所得者は許認可特権に守られた、原発事故を起こしても決して責任を取らないような電力会社の社員やスポンサーや政府に都合の良い捏造報道を流し、または都合の悪い情報を隠蔽するテレビ局や大手新聞の社員などの小悪党共で大部分を占められている。また高所得者、例えば大企業の社長がなぜ高給なのかというと自分で自分の給料を決めているからであり、低所得者はなぜ低所得者なのかというと、その人の社会的生産性とは全く関係なくただ単に社会の末端で働いていて、他人に自分の給料を決められているからである。それにもかかわらず低所得者に自己責任を苛烈に追求させようとする勝ち組の自己責任論者とは要するに奴隷制度復活支持者なのである。
自分は働かず、働くとしても面白い、手の汚れない気楽な仕事をしながら、他人の犠牲の上でのうのうと暮らしたい、というふざけた悪党に支配されないためにも99%の庶民は自己責任論には絶対同意してはいけないと私は声を大にして主張したい。
自己責任批判はこのくらいにして、実際問題として近代的自由を追求しながら新たな奴隷制社会、ファシズム社会を回避するためにはどうすればいいのかという問題について考えてみようと思う。
明日に続く
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