脱線はこのくらいにして、話を戻そう。古代ギリシャ的無抑制の自由はただ単に悪徳というだけでなく、民主主義国を僭主独裁制という人類にとって最悪の政治形態に変化させやすいものとしてプラトンは無抑制の自由は二重に悪いものであると言っている。
プラトンの論理を要約するとこうなる。自由を愛する民主主義国家の市民は必ず奴隷を見下し、外国人移民に寛容で平等に接するようになる。助け合い、団結の中に拘束、不自由を見出し、公共心を自由に反する軽蔑すべきものと馬鹿にし、道徳を排除すべき強制、抑圧とみるようになる。助け合い、団結を憎む気風がはびこり、福祉、公共投資というものを社会から追放し、そのことにより浮いた金をみんなで平等に分けようとする市民が多数を占めるようになり、必然的にそのような社会を実現させるリーダーを民主的に選ぶことになる。
市民が我欲に走り、無抑制という自由を愛するように、もちろんそのリーダーも我欲に走り、無抑制という自由を愛する。はじめリーダーは99%の市民の側に立ち、金持ちから財産を没収して、半分位は自分の懐に入れるが残りの半分位は市民に平等に配り、市民の好評を博す。次に国内の金持ちからあらかた金を没収してしまったリーダーは外国と戦争して、外国から富を強奪して民衆に富を配ろうとする。そのときそのリーダーは民衆を守るためという名目で外国人と奴隷からなる護衛隊を作り、自らのそばに置く。最後に護衛隊に守られもはや市民を恐れる必要がなくなったリーダーは、市民から富を好きなだけ搾取し、自らの我欲を満たそうとするようになる。
このようにして、僭主独裁国家が生まれるとプラトンは主張している。
次に近代的自由について考察しよう。
図3.4を見てもわかる通り、近代的自由にはお互いに愛し合い、尊重し合い、対等に付き合っていけるはずだという無意識下の期待に基づいた精神的自由、言論の自由や思想、信条の自由、人身の自由など善なる美徳と言える部分もあるし、自尊心と生きんとする意志の中間にある適度な経済的自由の追求、屈辱感を感じない日常、独立自尊を尊ぶ気風といった中庸の美徳と言える部分もあるし、死に対する恐怖という感情に基づいた過度な経済的自由の追求、貪欲さや吝嗇を尊ぶ気風といった悪徳といえる部分もある複雑なものである。
明日に続く
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