2019年5月7日火曜日

中核信念 7


 最後に普段の機嫌の良し悪しについて語ろう。普段機嫌のいい人は人から好かれ、無駄な敵を作らない。それゆえ機嫌の良し悪しは精神的健全さに関わることである。普段機嫌のいい人は柔弱な人、卑怯な人、卑賎な人、俗悪な人である。私は弱い、という中核信念が自分の現在の境遇に対して肯定的な感情を抱かせる。それに対して高貴な人、傲慢な人は自分の現在の境遇にいつも不満を持っていて不機嫌で近寄りがたい雰囲気を身にまとっている。

 ここまでの説明で高貴な人が精神的に強く、柔弱な人が精神的に健全だ、ということについては納得いただけたと思うが、最後に卑怯、卑賤、俗悪な人はなぜ病みやすいかということについて語ろうと思う。

卑怯、卑賤、俗悪な人は直接的ストレス耐性が弱く、自尊心が低く、他人に依存して屈辱感を常に感じながら生きているが、さらにその上このような信念を持っている人は知的に劣等なことが多い。他人の立場になって物事を考えたり推測すること、他人に思いやりを持つこと、このような思考、感情こそが何かの仮説を立てたり、新しい論理体系を作ろうと考える創造力の基盤なのだが、卑怯、卑賤、俗悪な人は自尊心が低く、自分のことしか考えられないため、そのようなことができず、創造力が持てないからである。そのため彼らは世間の評価を過度に意識して生きていくが、彼らの社会的地位がは低くなる場合を多い。

絶対評価での自己評価も、相対評価での自己評価もどちらも低くなり彼らはどこにも逃げ場がなくなってしまう。そのことにより精神的に病み、多くの場合軽度ではあるが回復不可能な精神疾患を(かか)えることになるのである。

ここで少し話を脱線させて、政治的な話をしよう。日本における保守主義者がいかに卑怯にして卑賤であるか、ということについてである。政治的保守主義とは資本主義を擁護し、共産主義に反対することであり、日常生活の利益を重視し、親政府的で現実主義、現実容認主義であることである。

 現在、日本は大東亜戦争の敗戦により、国内のいたるところに米軍基地が置かれている状況にある。マスコミの上層部はCIAに支配され一定の範囲内での言論の自由しか商業誌には載せられない。事実上アメリカの半植民地であると言っても過言ではない。

 また世界経済に目を向ければ、世界でもっとも裕福な八人の総資産額が世界の下位半分、三十六億人分の保有する総資産額と同じであり、この極端な格差は今現在も広がり続けている。

 大東亜戦争敗戦後の日本の支配階層たち、その多くはGHQよる分断統治のため最下層から引き上げられた穢多や在日朝鮮人、大東亜戦争時、アメリカや英国のスパイだった言論人の子孫たち、敗戦後手のひらを返して米軍に擦り寄った売国奴の財界人たちはこの状況を肯定する。日本が半植民地状態でも自分さえよければ、自分の年収さえ保証されていれば(その金がどんなに汚れた金であっても)いいと言う。遠くない将来、おそらく自分の子孫たちも搾取される立場に立たされるのは必定だが、それでも現在の弱肉強食の自由競争至上主義的資本主義を推し進め、もっともっと格差を拡大してアフリカや南アジアで何の罪もない子供たちが飢え死にしていくのをテレビで眺めながら貪り食うステーキがたまらなく旨いと言う。

 まぁ、どこの世界でも植民地における特権階級というものは人間のクズの集団だと相場が決まっているので、それについて私としてもどうこうの言うつもりはない。私が批判したいのはそれクズたちの支配を容認する保守主義者たちだ。その多くは官僚やサラリーマンで、現在の明らかな詐欺である金融資本主義を擁護することに、なんらの個人的利益もないにもかかわらず、むしろ明らかに搾取されている側にいるにもかかわらず、下層階級の人に自己責任を強要し、盲目的に特権階級の利益を代弁することで、自らを特権階級の人々が引き上げてくれるかもしれないと根拠のない甘い夢想に浸る彼らの卑賤さを非難したいのだ。

 確かにガス抜きのため年に何人かそういう特権階級の代弁者は特権階級に引き上げられる。だが、そのあからさまな米国の分断統治に我先に乗ろうとするその卑賤さ、愚劣さ、 自分さえ助かれば同胞はどうなってもいい。他人の不幸こそが自分の幸せの基盤なのだ、という確固たる信念。共同体のためには何一つ貢献せず、共同体の団結を妨げ、薄汚い支配層の権力の強化、補完をしようとするそのような卑怯にして卑賎な保守主義者を、私は断固として否定する。裕福な生活よりも、平穏な人生よりも、正義はずっとずっと価値のあるものなのだ。

 

以上で精神的強さ及び精神的健全さについての論考は大体終わるが、最後に人は精神的強さ、つまり高貴さを目指すべきか、精神的健全さ、つまり柔弱を目指すべきかということについて論じてこの論考を終わろうと思う。

高貴とは若者の美徳であり、柔弱とは壮年以降の美徳であると私は主張する。若者が柔弱を目指せば卑賤になりやすく、壮年以上の者が高貴であることに固執しようとすれば傲慢になりやすいからである。若いうちは志を立て、正義を愛し、心で肉体を支えながらあらゆる困難逆境に耐えて孤軍奮闘して生きていくことが美しいし、壮年になったら自らの相対的弱さを認める強さを持って、謙虚に他人の意見に耳を傾ける賢明さを持ち、中庸を愛し、自分の弱さを他人へのやさしさに変え、他人の弱さからくるあやまちを許す度量を持って、衆を味方につけ仲間を率いて大志を達成することが麗しいのである。

柔弱は剛強に勝つ、とはそういうことをいうのである。

若い諸君はあるいは他人のあやまちを許すやさしさのなかに、ある種の汚さを感じるかもしれない。だが、諸君の心の根底にある、私は高貴だ、という中核信念は他人をはじく。味方につけておきたい人からも、敬して遠ざけられてしまうのである。それに比べて、私は柔弱だ、私は柔和だ、という中核信念は人を惹きつける。

私が若い頃より好きだった言葉に森祇晶のこんな言葉がある。

 

少年時代に野球を覚えた時「ドンマイ」という言葉を覚えた。

 人生はドンマイだ。不器用もドンマイだ。

 ぼくはこれでいこうと決めている。

 

 確かに高貴な人も過失による過ちにはやさしい。一般的に痛みを知る人は他人にやさしくできるといわれているが、その言葉は半分以上正しくない。確かに痛みを知る、他人や世間の冷たさ、敵意を知る高貴な人や柔弱な人は弱者に同情的だが、痛みを知る卑賎な人、傲慢な人はその受けた恨みを晴らそうとして、報復しようとして自分よりさらに弱い者に攻撃的になるからである。さらに高貴な人でも、裏切り、個人的怠惰による組織への損害などの故意の誤りには、例えそれがたった一度のことであっても決して許さない。たとえ表面的に不自然に許しても、決して忘れない。高貴な人は初対面でも他者にお互い愛し合い尊重しあってやっていけるという期待を持って友好的に接してくれるものだが、その期待を相手が裏切ったとき、瞬間的に愛を憎悪に変えてくる厳しさを持っている。自分に対して潔癖な人は他人に対してもどうしても潔癖さを求めてしまうものなのだ。高貴な人の愛は清らかではあるけれども、衆にとって厳しく冷たすぎるのだ。 

確かに他人のあやまちにやさしい人は、自分のあやまちにも甘い。だから柔弱な人の愛は高貴な人の愛に比べて自己愛に汚れているともいえよう。しかしだからこそ柔弱な人はあたたかく人に接することができ、多くの仲間ができるのだ。そして仲間たちの力を借りて、自分ひとりでは到底成し得ないような大きな社会的貢献をすることができるようになるのである。







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