2019年5月10日金曜日

自由について 3


そもそも近代的自由がどのように生まれたかというと中世の絶対王政という僭主独裁制をフランス革命によって倒したことに起源がある。

半奴隷的なフランスの一般市民が革命により、権力者に反抗し、独立心を追求し自由、平等、博愛を求めたこと、つまり近代的自由は古代的自由、好きなことを、好きな時に、好きなだけやる自由ではなく、恐怖による支配からの離脱、何者にも自分の人生を屈辱的に支配されない自由こそがその本質なのである。そのことから近代的自由はまずはじめに何者にも束縛されないために独立自尊を達成するための適度な経済的自由を追求したのである。

独立自尊を達成するための適度な経済的自由を追求は確かに文句のつけようのない中庸の美徳である。だが、中庸の美徳が何と何の中間を示す美徳なのかはっきりと分かっていなかった近代において、独立自尊を達成するための適度な経済的自由の追求という論理は時間の経過とともに極端化され、貪欲、吝嗇という悪徳の追求に変化してしまった。それが、現代社会に閉塞感をもたらしてしまった最大の原因なのである。

現在では自由の追求とは経済的自由の無抑制な追求、貪欲、吝嗇という悪徳を愛することと同義である。死に対する恐怖という本源感情が生きんとする意志を生み、生きんとする意志が消極的には意識上に一円たりとも損しまい、という吝嗇という悪徳を生み、積極的には他人を利用し、他人を騙し、他人から盗み、または他人から強奪してでも利を得ようという貪欲という悪徳を生む。経済的自由の無抑制な追求が自由競争至上主義を生み、また利の最大限の追求のため市場の拡大を求めてグローバリズムを生んだ。

そのことから自由を愛する古代民主主義社会が僭主独裁制を図らずも生むように、自由を愛する近代民主主義社会は必ず植民地主義、つまりは奴隷制社会を指向するか、もしくはファシズムを指向する。どのような経緯で奴隷制社会、ファシズムを生むかというと、まず独立自尊という中庸の徳が廃れ、社会に吝嗇と貪欲という悪徳を愛する、利を無制限に追求する気風が生まれる。お互いがお互いを利用し、騙し、相手の金を盗もうと、強奪しようとするようになり、その結果最もずる賢い悪党が権力を持ち、他人を支配するようになる。貪欲と吝嗇は正義と崇められるようになり、他人に利用され、騙され、盗まれ、強奪された弱者は自己責任といって自らの境遇に甘んじるように強制される。社会は開放的で格差の大きい、非情な自由競争の不安と恐怖で満ち、お互いへの敵意、相手の自己責任を絶えず要求するような他者への何の尊重もない、冷たい個人主義が支配するようになる。権力者の経済的自由の追求は99%の庶民の生活を生存に必要な最低限な水準に抑圧し、庶民はひとたび病気にでもなればホームレスにならざるを得ないような危険な環境に置かれる。権力者は庶民を支配し、利用価値がなくなれば庶民を人間扱いせず、まるで物みたいに使い捨てにする。99%の庶民にとってはなんの基本的人権もない社会が現出する。つまり99%の庶民は奴隷か奴隷以下の存在になる。これを庶民が自己責任と肯定すれば奴隷制社会が出来上がる。

ファシズム社会がどう出来上がるかといえば、99%の搾取されている奴隷的一般庶民がもはや貪欲さや吝嗇といった悪徳を尊ぶ自由を愛さなくなり、安全な、安定した生活を送れる社会を望むようになり、自分たち自身、すでに他者を尊重しようとする心も、おもいやりも弱者への共感、同情も捨て去ってしまっているので、大慈悲に基づく助け合いと団結の社会を新たに作ろうという気概も能力もないため、しかたなく自己愛を拡大した集団欲によって新たな社会を作ろうと思い、自由を放棄して、安全と安定した生活との引換に指導者に絶対服従を誓う恐怖に基づく全体主義社会を作ろうとし、民主主義によってそういうリーダーを選ぶ。そのことによってファシズム社会が生まれる。

だいたいこのようにして奴隷制社会、ファシズム社会は生まれるのである。

           明日に続く

 

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