自尊心の低い人は、自分を無価値だ、と思っている人である。そのため自分に自信がなく、行動においてリスクあるチャレンジを取らず、安全志向で現状維持を追求しようとする。死に対する恐怖に駆られ、目先の利と安全を追求するから志が持てないし、多くの場合良心の呵責に苦しみ自己嫌悪、自己不信に陥る。そしてそのことによりますます精神的に弱くなり、自分自身に価値を見いだせなくなりさらに自尊心が低くなる。また志がないから生きがいがなく、魂の充実感が持てない。また安逸と怠惰に走るためいつまでたっても仕事においてのノウハウの蓄積が起きず、人間的にも成長しないため、短期的に現状維持には成功するが、長期的に見ればその社会的地位の維持に失敗する。そして何度も何度も同じように安全な現状維持的、短期的利を追求し、何度も何度も同じように失敗を続ける結果、学習性無力感がさいなまれ健全な自信が保てなくなり、ちょっとした不遇、小さな困難が立ちはだかるとすぐ自分の人生に対して投げやりな態度をとるようになり、自分で自分に愛想をつかしてしまうようになる。
また自尊心の低い人は、自分に絶対評価基準の自信がないから、過度に学歴や富、社会的地位など世間の作った相対評価を追求する。相対評価とは要するに死に対する恐怖に基づく評価基準である。それゆえ相対評価をいくら追求しても、仮に相対評価上、つまり社会的に高い地位につけたとしても不安と恐怖が影のように寄り添ってきて、離れることがない。そのことによりさらにまた精神的に弱くなっていく。また自分が他人や世間に否定的評価をされたら、その評価を簡単に受け入れてしまう。つまり自尊心の低い人は自分の味方でない人である。
自尊心の低い人はまた必ず虚栄心の強い人である。虚栄心の強い人は自己承認欲求に動かされ、勝ち負けにこだわり、いつも周りの目を気にしてビクビクして、焦燥感にかられ、自分のことだけにしか関心を持てなくなっていき、その結果、一層私は悪党だ、という絶対自己評価を強化する。卑賎な人は傲慢さを獲得しようと目指し、傲慢な人はより傲慢さを強化しようとする。
そして心の中が他人への敵意で結晶化されている虚栄心の強い人は、つまり無意識下の死に対する恐怖という感情に支配されている人であり、そのことにより即時的に不幸な人である。そして虚栄心の強い人は他人と対等にお互いに尊重し合って付き合うことができず、他人に恐怖による支配か恐怖による服従を求める。つまり虚栄心の強い人は良い友を持つことができない。また大慈悲がなく他人を尊重できないからそのような自分をさらに尊重できなくなり、自尊心はさらに低くなる。以上のことにより自尊心の低い人は精神的に弱く、精神的に不健全になるのである。
次にストレスに対する柔軟性について語ろう。ストレスに対する柔軟性とは、精神的健全さに関わることであり、私は弱い、という中核信念を持つ者、つまり私は柔弱だ、私は卑怯だ、私は卑賤だ、私は俗悪だ、という者が持つ特性である。
なぜ柔弱、卑怯、卑賤、俗悪という中核信念がストレスに対する柔軟性という点において最も健全かというと、まず第一に、柔弱、卑怯、卑賤、俗悪、という中核信念を持っている人、私は弱い、という評価を絶対的に、または相対的に抱いている人はそもそも精神を病みそうなストレスの強い困難を事前に避ける。第二に、もし不注意によりそのような困難に遭遇しても、味方がいる時はその味方に相談し(誰かに相談できるだけでもストレスは随分発散できる)、もし可能なら一緒に戦ってくれるように頼める。第三に、柔弱、卑怯、卑賤、俗悪、という中核信念を持っている人は困難には立ち向かい克服することだけが正解でなく、逃げると正解肢を知っている。そして最後に、もしどうしても困難に一人で立ち向かわなくてはいけないときでも、困難にしなやかに立ち向かうことができる。雄々しい松の木は台風によって折れる時もままあるが、しなやかな竹はなかなか折れにくい。柔弱は剛強に勝つ、と老子も言っているし、卑屈さを責めたりしないほうがいいぞ。誰がなんと言おうとも卑屈さは侮り難い強みだぞ、とゲーテも言っているが、その格言はそういう意味なのである。
次に独立心の有無が精神的健全さに関わることについて語ろう。
明日に続く
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